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私たちは、互いの肌の温かさを噛み締めながら、夫婦生活を送った。結婚して1年。
4月30日は結婚記念日であり、同時に昴さんの37歳の誕生日でもあった。
「恵実さん、シフト休みで大丈夫ですよ」
アルバイトの市川真奈さんが気を利かせてくれて、私はその日と翌日に休みをとった。
昴さんも昴さんで、有給休暇でお休み。せっかくの記念日だから、少し遠出しようということになった。
休日が合わない仕事をしているため、二日連続で彼とゆっくりできるというのはほとんど初めてのことだった。昴さんは、出かけ先に隣の県の海沿いにある温泉街を指定した。
温泉。泊まり。
普通のカップルや夫婦なら、それほど特別なことではないのだろうけれど、私たちにとって、それはかつてないほど豪華な旅だった。
昴さんが鼻歌を歌いながら車を運転している姿が、いつになく陽気な気がして私はつい笑いを堪えられずに吹き出してしまった。
目的地まで、高速道路に乗って2時間程度。途中、サービスエリアでタコ棒を買い、二人でぱくついた。朝から何も食べていない胃袋に、すっぽりと納まり空腹を満たしてくれる。
「楽しみだね」
助手席で何度もこの二日間のことを考えては妄想が膨らんでワクワクが止まらなかった。お出かけで、こんなに心が踊るのはいつぶりだろう。幼い頃、家族旅行の帰りに、まだ遊び足りなくて寂しくなった記憶が蘇る。「帰りたくない」とぐずる私を、母は「帰ったら公園で遊ぼう」と誘ってくれた。その言葉を聞くと、さっきまでの塞がれた気持ちがどこへやら、一気にまた視界が明るくなっていた。
この旅も、私の心を晴れやかにしたり、ちょっと切なくさせたりするんだろう。
「よし、着いたぞ」
くすんだ黄色い壁の旅館『翡翠荘』は、私が想像していた「温泉宿」そのものだった。見るからに広そうで、一気に期待が膨らむ。
「綺麗ね」
「ああ。ネットで散々探した甲斐があったよ」
まだ泊まってもない宿なのに、昴さんはしたり顔でそう言った。
「早速入ろう」
「ええ」
二人分も荷物を手に、旅館の玄関をくぐった。
「いらっしゃいませ」
気さくなスタッフさんに迎えられて、無事チェックイン。1階ロビーにはゆったりとしたソファ席に、家族連れが三組、大学生くらいのカップルが二組いた。平日だというのに、かなり盛況らしい。
「広い!」
今日と明日、私たちが泊まることになった「菊の間」という部屋の広さに、また心が踊る。窓の外には、海の水がきらめいて見えた。荷物を置いて一息ついた後、昴さんと二人で近くを散歩することにした。
宿を出て、緩やかな坂道を降ってゆく。歩いて五分もいないうちに、海辺へと出た。旅館『翡翠壮』は「海の見える宿」で人気の旅館だと昴さんが言った。
「予約、空いていて良かったよ」
4月の浜辺は肌寒い。こんなこともあろうかと、春コートを羽織ってきて良かった。
「うん、まだ来たばっかりだけれど、とても人気みたいね」
「土日だったら難しかったかもしれないね」
「ありがとう。素敵な場所に連れてきてくれて」
「とんでもないよ。今日は大切な記念日なんだから」
「でも、あなたの誕生日でもあるでしょう」
「はは。確かに、これだと自分の誕生日の計画を自分で立てたことになるのか」
「そうねえ。昴さん、真面目だから」
記念日や私の誕生日にデートの計画を立てるのは、決まって彼の役目だった。約束したわけではないけれど、私が何か用意するよりも早く、彼の方が動いている。彼は近年まれに見るマメな男なのだ、きっと。
でも、今日ばかりは私にも彼にサプライズがあった。
昴さんと散歩している間、鞄の中のポケットに、例のものがちゃんと入っているか、何度も触って確認する。
大丈夫。忘れていないわ。
だんだんと日が傾いてゆき、彼と二人で歩く海辺には橙色の光が降り注いだ。私は、日々桜庭書房の店の中から外の光が時間の経過とともに変わってゆく様を見ているけれど、今日ほど美しい夕陽に出会ったことはなかった。遠くの方で、沈みゆく太陽の輪郭がぼやけて、周りの空を真っ赤に染めている。子供の頃、学校の校庭で遊んでいた放課後。友達との鬼ごっこで、私は鬼だった。鬼ごっこの鬼は楽しくない、というのが私たちの共通認識。例に漏れず、私はいやいや友達を追いかけていた。足が遅くて、活発な子たちをなかなか捕まえられない。疲れた、と心の中で呟いても、そばには誰もいない。皆自分から逃げていたから。
もう、帰りたいなあ。
家に帰って、おばあちゃんから、今日読む本をおすすめしてもらうのが楽しみだった私は、友達との鬼ごっこの最中にもそんなことを思っていた。
ふと、疲れた体にぶつかる光の眩しさに気づく。
広くて、見晴らしの良い校庭だった。学校の周りには背の高いマンションやビルは全然なくて、見えるのは空と山だけ。
その、空を赤く染め、山の向こうに沈み始めた太陽。当時の私にとって、太陽は明るくて、いつも元気に燃えていて、力強い、父親みたいな存在だった。
けれど、その日見た太陽は胸を切なくさせる色を放ち、どこか淋しさを湛えているように見えた。けれど、生まれて見てきた太陽の中で、一番綺麗だとも思った。
あの日と同じ夕日が、今輝いているということ。
隣を歩む彼の息遣いが、自分が一人きりでないことを感じさせた。私の魂はもう、一人きりで泣いてはいないのだ。
「昴さん、あのね」
「ん」
彼の手を少し引いて、私は「止まって」と意思を伝えた。
「お誕生日おめでとう。これ、ずっとあなたが欲しがっていたものよ」
鞄の中から掌サイズの黒い箱を取り出して、彼の前に差し出した。
「……これは」
彼にとって、それは予想外のものに違いなかった。なにせ、彼が何度「貸して欲しい」と言っても、私が頑なに首を縦に振らなかったものだから。
ブラック時計。
今も、彼の左腕にはめられたお義父さんの時計とそっくりの、けれど決定的に普通の時計とは違う腕時計。
「いいのかい」
震える手で、彼は私の手からそっと『ブラック時計』を持ち上げた。
「ええ。あなたになら、良いと思った」
最初は、他の誰かに『ブラック時計』を着けさせるなんて、怖くてできなかった。けれど、彼と一緒に過ごした日々が、私の心を溶かした。一人きりだった私の人生に、光をくれた人の願いを、叶えてあげたいと思って。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
きっと、普通のカップルならネクタイとか財布とか、実用性の高いものをプレゼントするだろう。私だって、これまではそうした。
でも、今、彼が心から笑っている姿を見ると、『ブラック時計』を貸すというプレゼントを思いついて本当に良かった。
昴さんは元々付けていたお義父さんの時計を外し私の腕に彼の時計をつけ、自分の腕には桜庭家の『ブラック時計』をつけた。
「僕の時計は君が持っていて欲しい」
「ありがとう」
昴さんの体温が残っている時計が、左腕で圧倒的な存在感を放った。私は彼と、一つになったような感覚に陥った。
「今日の、君からのプレゼントは、単に『ブラック時計』を貸してくれたってことだけじゃない。おじいさんから受け継いだ大事なものなんだ。僕なら信用できると思ってくれたんだろう。だからこれは、僕たちの心が繋がっている証拠なんだ」
繋がっている。
彼の言葉はいつも、私にとって大切なことを教えてくれる。
彼の表現が好きだった。
彼の、優しい感性が好きだった。
私はもっと、彼の優しさに触れたかった。
だから、『ブラック時計』を彼に預けた。
それが、間違いだったことに、気づくはずもなく。




