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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第2幕 第4章 出会い
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4-7

◆◇


「恵実、お疲れ様」

芦田さんとお付き合いをすることになって、1ヶ月が過ぎた。

彼は私のことを、「恵実」と呼ぶようになったけれど、私は呼び捨てが恥ずかしくて彼のことを「昴さん」と呼ぶことにした。大学時代の友人の菜乃(なの)に報告したら、「いや、そっちの方が恥ずかしくない?」と真顔で言われた。彼女は昨年生まれた娘さんを抱っこして、「ねえ?」と赤ちゃんに訊いた。


とにかく、そう言われたところで他人を呼び捨てにする耐性が全くなかった私は、結局その後もずっと「昴さん」だった。


「お疲れ様です。今日は、お仕事どうでしたか」

3月最後の金曜日。だいぶ暖かくなり、彼のスーツは少しだけ薄くなった。私も、セーターをしまい、ブラウスとカーディガンを着て仕事をしていた。「いつも通りだよ」

「じゃあ、良かったです。いつも通りが一番ですから」

「そうだね」

彼も私も、デートの時はテーマパークではしゃぐよりも、景色の良い場所にドライブに行く方が好きだった。派乱の多い日常より、穏やかに過ぎてゆく日々を愛した。ちょっとしたことだけれど、そういう小さな考え方が一緒だったことで、私は彼の前で、自分らしくいられたのだと思う。


交際した当初から、ずっと彼に頼まれていたことがある。

一つは、タメ口で話して欲しいということ。しかし、客と店員として出会った彼に対する敬語はまだ抜けなかった。

もう一つは、時計。

彼が左腕に着けているお父さんの時計とそっくりな、桜庭家の『ブラック時計』を着けさせて欲しいということだ。

「どうして?」

私は、どうして彼にこの『ブラック時計』を着けてみたいのか訊いてみた。どちらかと言うと、私はブラック時計を絶対に着けたくなかった。単なる噂とはいえ、この時計には得体の知れない魔力みたいな力があるのだ。実際に着けてみたところで、どんな効果が現れるか分からない。何か怖いものが見えたり感じたりするのではないかと思うと、とても怖くて着ける気にもなれないのだ。

波乱のない平和な日々。

私は何よりもそんな人生を望んでいた。

「だって、気になるじゃないか」

彼はブラック時計に対し、まったく怯えていない様子で語った。閉店後の桜庭書房の中だった。

「そうかもしれないですけれど……」

「“付けると何かが見えるようになる時計”なんて、この世のどこにもないよ。恵実が持ってる時計以外に。それって、ロマンじゃないか。だから、一度試してみたいんだ」

気になるという気持ちが芽生えるのはよく分かる。「ロマン」と口にした時の彼の目の輝きが、脳裏にこびりついた。でも、私はこの時計を、今すぐ彼に渡そうとは到底思えなかった。

「分かりました。いつか、渡しますね」

「うん。待ってるよ」

「いつか」だなんて、子供騙しも良いところなのに、彼は殊勝に頷いた。私だったら、一度気になったからには我慢できないかもしれない。それでも彼は、穏やかな顔で「待つ」という。そういう彼が、私は好きだった。



昴さんとの交際は順調に進んだ。

彼がとても穏やかで懐の大きい人なので、私たちはほとんど喧嘩をしなかった。たまにする言い争いといえば、一緒に出かけた際に私が自分の食事代や映画代を払おうとしたとき、「僕が払うって言ったじゃないか」と真剣な表情で怒られることくらいだ。そういうとき、私もむきになって「自分で払います」と言う。学生じゃないのだから。小さいけれど、本屋の店長もしているのだから。でも、彼は女性と出かける時に、何事も自分のお金を使いたいらしかった。「そんなの最初だけですよ」と教えても、「それは自分の目で確かめて欲しい」と返される。そういう頑固なところはちょっと可愛らしい。

まあそんなわけで、彼とは喧嘩という喧嘩をせずに済んだ。ひとえに彼の性格のおかげだ。

私は、他人に対して何か言いたいことがある時、いつも反対に口をつぐんでしまうことが多い。言葉を口にすることで、関係が壊れてしまうんじゃないかと思うと、怖くてできないのだ。

それを、彼は「なに?」と訊いてくる。しつこいくらい、けれど純粋に私の中から言葉を引き出そうとしてくれる。だから私は、彼と関係性において、日々ストレスを溜めることはなかった。



◆◇



「恵実、来週の水曜日だけどさ」

「うん」

彼と交際が始まって、2年が経った。

金曜日の夜に、私は彼の家でくつろいでいた。彼があれほど願った「タメ口」は、付き合って半年ぐらいすると自然とそうなった。


もう、恥ずかしさも照れ臭さもない。交際を始めた当初のドキドキがなくなったといえばそうかもしれないけれど、私は世間一般のキラキラした女の子たちが望むような、キラキラした恋愛よりも、お布団に包みこまれるような、ぬくぬくと温まる恋愛をしたかった。だから、私にとっては手を繋ぐにもキスをするにも心臓の音が止まらなかった交際当初より、彼の家のベッドの上で布団にくるまって本を読める今の方が好きだ。

「どこか、美味しいお店にでも行こうか」

「どうしたの、急に」という言葉を引っ込める。彼がどこかに行こう切り出す時は、決まって特別な日なのだ。

私はチラリと横目で彼の机の上に置いてある卓上カレンダーを見た。来週の水曜日まで視線を移して、止まった。2019年2月27日。そうだ、この日は私たちの記念日だ。  


交際2年目の、記念日。

なぜそんな大事なことを忘れていたんだろうと呆れる。日々、桜庭書房の売上と闘っていて忙しかったから、といえば言い訳にしか聞こえないだろう。心の中で、彼に「ごめんね」と頭を下げた。

「いいねえ。行こう」

大切な日だと思い出した途端、胸が高鳴った。自分の中に、まだこんな感情がしっかりと残っていることが意外だった。いくら温かく穏やかな恋愛を楽しみたいという私でも、流石に記念日デートのお誘いは嬉しい。

「じゃあ、計画しておくよ」


彼が、私の頭をさらりと撫でる。彼の手は、ごつごつしているけど柔らかい。大きくて、私の中のいろいろな不安をかき消してくれる。彼以外の男性の手の温もりを知らないけれど、私にとってはこの手の感触がどうしようもなく一番好きだ。

「楽しみ」



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