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『明日の夜、仕事が早く終わりそうなので、この間約束したご飯、行きましょう。19時に駅前で待っています』
芦田さんとはあの後、LINEの連絡先を交換した。
『19時に駅前ですね。分かりました』
私が住んでいる街は小さな街なので、ご飯を食べる場所はあまりない。電車でどこかへ行くのだろう。
誰かと一緒にご飯を食べに行くのは久しぶりだった。しかも、男性とだ。私のお店は18時に閉まるため、19時だとちょうど良かった。彼が私の予定まできちんと把握した上で時間を決めてくれて助かる。
正直私は、男性とご飯に行くなど全然慣れていなくて、彼に言われるがまま約束をした。おそらく芦田さんはモテそうだから、女の子を誘うのだって慣れているだろう。
女の子。私はもう、そんな歳じゃない。
「恵実、どうしたのよ。早くご飯食べなさい」
これから夕飯を食べようという時に彼との会話を思い出し、母に注意される。あれだけ「誰か良い人いないの」と問い詰めてきた母だって、まさか私が今男の人との約束を思ってお箸が進んでいないなんて、思わないだろう。
明日が、早く来て欲しいような、逆に来ないで欲しいような、複雑な気分になった夜だった。
「桜庭さん」
「こんばんは」
翌日。約束の19時前に、彼はちゃんと駅前にいた。私も、待ち合わせには早く着いてしまうタイプなので、二人が集合したのにまだ19時になっていなかった。
「お待たせしてすみません」
「全然待っていませんよ」
仕事帰りだから、彼はいつも通りスーツ姿だった。対して私は——。
「今日はいつもと違いますね。なんというか、お綺麗です」
「ありがとうございます」
お店に立つ時は、いつも綿のパンツにTシャツかセーターだ。でも、今日は特別な日。ショーケースの奥に眠っていたピンクのロングスカートを引っ張り出してきて、白ブラウスと合わせた。靴も運動靴ではなく、パンプスにして。服装を変えるだけで、胸の高鳴りが一気に激しくなった。
綺麗、なんて、さらりと言えてしまうところが、彼らしい。言われた私は恥ずかしくて彼の顔を直視できなかった。
「行きましょう。二駅ほど、電車で」
「分かりました」
今日は金曜日だからか、開放感に満ち溢れた若者たち、おじさんたちが数人で集まって電車を待っていた。これから飲みに行くのだろう。会社に勤めていれば、私も退社後に友人たちと飲みに行くことが普通だったかもしれない。家族経営の書店の仕事をして暮らしている私にとっては、全然別世界の生活という感じだけれど、今日だけは違う。私も、人並みに誰かと一緒に食事の時間を過ごせる。
その相手が、芦田さんだということが今だに信じられず、電車の中で幾度となくぼうっとしてしまった。考えすぎて、緊張して、しまいに何も考えられなくなるのだ。
「降りましょう」
「はい」
言われるがまま、二駅先で電車を降りる。
たった二駅。それなのに、駅から出るとキラキラと輝くイルミネーションが眩しくて反射的に瞼を閉じた。出不精で、隣町でさえ買い物に行くとき以外ほとんど出ない。だから、駅前に並んでいる飲食店や薬局、コンビニに集まる人たちを見るのも久しぶりだった。
「こっちです」
芦田さんはとても慣れた足取りで駅から北に向かってずんずん進む。ちなみに、私たちが出発した駅はここから南にある。北へと進むほどに、田舎の景色から都会の街並みに変わってゆく。
私は彼に置いていかれないように、いつもより早く歩いた。
「あっ」
途端、左足をぐりっと捻って、変な声が出てしまう。
「大丈夫ですか!?」
半歩前を歩く彼が振り返り、手を差し出した。
「……すみません。大丈夫です」
慣れないヒールなんて履くからこんなことになるのだ。ちょっとお洒落をしただけなのに、みっともないところを見せて恥ずかしい。
「いえ、僕の方こそ歩くペースが速かったので、ごめんなさい。緊張してしまって」
ポケットからハンカチを取り出し、額を拭った。よっぽど緊張していたのだろう。冷静だと思っていた人が慌てているのが、おかしい。でも、ちょっと安心した。彼も私と同じだ。私相手に緊張してくれているのかと思うと、愛しいとさえ感じた。
「大丈夫です。行きましょう。私、お腹ペコペコなんです」
今度は私が右手を差し出して、彼の手を掴んだ。すれ違う人たちに一瞥されて恥ずかしかったけれど、今はそうしたかった。
彼が連れて行ってくれたお店は、駅から十分ほど歩いたところにあるイタリア料理の店だった。
「この間通りかかって、来たいと思っていたんです」
聞けば、彼は街歩きが好きで、営業の最中も道中では飲食店をチェックしているそうだ。
「おかげで昼飯には困らなくなりました」
真面目で実直な人だと思っていたので、仕事中にご飯屋さんのことを考えていると思うとおかしかった。今日は、彼の意外な一面を知るばかりだ。
私たちはお互いにメニューを見合って料理を注文した。私はズワイガニのトマトクリームパスタ。彼はボロネーゼ。
普段はほとんど飲まないお酒も一緒に頼む。せっかくのイタリアンだからと、二人で赤ワインを嗜んだ。
「そういえば、芦田さんって、おいくつなんですか」
お酒が回っていた。いつもよりも快活に喋れるようになったのをいいことに、出会ってからずっと気になっていたことを訊いた。
「33です」
「そうなんですね。失礼ですけれど、もう少し上かと思っていました」
「はは。こんな性格なんで、確かにちょっと上に見られますね。もしよければ桜庭さんも教えていただけませんか」
不思議と、芦田さんから年齢を訊かれることに、嫌悪感は全くなかった。自分が先に聞いてしまったのもあるが、彼の誠実そうな表情と声色がそう感じさせたのだろう。
「30です。今年31になります」
「お若い」
「そんなこと、ないですよ」
彼から見れば、私の歳が若いというのは世間一般の目線からしても正しいのかもしれない。
けれど、最近母から「良い人いないの」「結婚しないの」と急かされるうちに、自分はもう若くないんだと嫌でも思い知らされてきた。
「……てゆーか、なんなんですか、良い人って」
つい、酔った勢いで心の声が漏れた。
芦田さんの「えっ」という驚きの声が耳をかすめる。
だが、一度スイッチが入ってしまった私はもう、彼がどんな反応を見せようがお構いなしだった。
「言われなくても分かってますよ。頑張らなくちゃいけないって。努力しないと何も変わらないって」
「うん」
「でも、怖いんです……。いままで、何かに死ぬほど頑張ったことがないから。頑張って、失敗したらどうしようって……。そう思うと、今のままがいいって思っちゃうんです」
「うん、うん」
「芦田さんはそう思うことないんですか? 毎日お仕事頑張って、失敗して……怖くなったりしないんですか?」
言ったあとで、しまったと思った。
つい4日ほど前に、彼が関わったプロジェクトのコンペが失敗してしまったと聞いたばかりなのに。
最悪だ。それくらいは酔った頭でも分かった。私は右手で左腕をチクッと捻った。頭の後ろの方で、店員さんや他のお客さんが訝しげにこちらを見ているのを感じる。大の大人が半泣きで話をしているのだから、気になるのも仕方がない。
せっかく、お洒落をしてきたのに。
せっかく、彼が誘ってくれたのに。
せっかく、普通の良心的な女性でいられたはずなのに。
これじゃ、全部台無しだ……。




