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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第2幕 第4章 出会い
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4-4


1週間の始まりの日だというのに、妙なことを思い出してしまった。

気がつげば十分に、看板を拭き終えていて、ほこり一つ見当たらなくなっていた。

「にい」

看板拭きを終え、脚立から降りると、足下でニケがいつものように鳴いた。ご飯を食べたあとはすぐに眠ってしまうのにどうしてだろうと思っていると、ぽつりと額に冷たい感触がした。


「あら」

雨だ。

どうして、さっきまであんなに晴れていたのに。これじゃまた、汚れてしまうかもなあ。

ニケはさっと四本足で立ち上がり、店の裏の方へ駆けて行った。そちらの茂みが、彼のすみかなのだ。

急いで脚立をたたみ、倉庫に運ぼうと脚立を持ち上げた時だった。

そっと、誰かの手が脚立に触れ、私の頭上から「降ってきましたね」と声がして。

「あっ」

振り返って見上げた先に、彼の姿があった。


「こんにちは。1週間ぶりですね」

「芦田さん!」

思わず弾んでしまった自分の声に、自分で驚く。私、どれだけこの人を待っていたと思われるんだろう。

「営業で外回りをしていたんで、休憩ついでに覗きにきました」

「そうなんですね」

「重たいでしょうし、中まで運びますよ」

「ええ!? それは、さすがに申し訳ないです。私運びます」

「いいからいいから」

ひょいっと、道端に転がっている石ころでも拾うみたいに、彼は軽々と脚立を持ち上げた。

「……すみません」

「いえいえ。それより、どこに運びましょうか」

「あ、あちらです。お店の奥の倉庫に」

「分かりました」

勝手知ったる足取りで、彼はお店の中へとずんずん進み、「失礼します」とレジカウンターの奥に入って行った。

止める暇なんて全然なかった。彼は、重たいものを持つのは男の仕事だと言わんばかりに、店員と客の立場も忘れ、当たり前のように脚立を倉庫まで運んでくれた。

「ありがとうございます。助かりました」

「お安い御用ですよ」

確かに、背の高い脚立は、いつも運ぶのに苦労していた。偶然とはいえ、奥まで運んでくれてとても助かった。

「今日も、お一人で店番しているんですね。大変でしょう」

「いえ、平日はいつもこうなので。それに私、一応店長ですし」

芦田さんは「店長」という言葉に目を丸くした。そうか、前回来たときには伝えていなかったか。

「そう言えば、桜庭さん、でしたね。店の名前と同じですし、奥がご自宅のようですから、店長、確かに納得がいきました」

「名ばかりの店長ですよ」

「そんなことはありません。お若いでしょうに、ご立派なことです。私なんか、ずっと雇われ人のサラリーマンで良いのかとつくづく思います」

彼が、自分の身の上をそんなふうに思っていることは意外だった。こんな小さな書店で店長をやるより、将来安泰の一般企業でしっかりと働いている方が、堅実的だと思っていたからだ。

「何か、びっくりされてますか?」

「ええ……先週会った時から、スーツが似合うお方だなと思っていたので」

「ははっ。それはありがとうございます。スーツを着たら、みんな同じになってしまいますけれど、これはこれで楽なんです」

「いえ、営業のお仕事に精を出されてるんだろうなって」

本心から、感じたことだった。

私は友達も少ないし、数少ない友達はみな結婚や子育てで、「仕事」から離れている。大学時代の男友達は、もうほとんど連絡すらとっていない。だから、自分の中に「サラリーマン」というサンプルがそもそもなかった。

でもだからこそ、わざわざ本屋で営業トークの本まで買って、仕事に向き合う彼が眩しかった。


「……ありがとうございます。自分の中では、一生懸命やっているつもりなんですけれどね……」

そう言う芦田さんの表情に、少しだけ陰りが見えたのを、今でもはっきりと思い出せる。

「どうかされましたか」

彼は、周りに他のお客さんがいないことを確認すると、「携わっていたプロジェクトが頓挫したんです」と、訥々と話し始めた。


彼は、自分はプロモーション会社で働いていると言った。実店舗を持つ企業が新店を出した際にPRをしたり、新しい商品の販売促進を手伝ったりする仕事だそうだ。


「大手の、食品会社が実店舗を出すことになり、その企画を考えていたんです。その会社は今まで店舗など持たないメーカーだったので、初めての試みでした。もともと担当していた得意先だったので、私がリーダーになり、数人でPRの企画を練りました。いつも贔屓にしてくださるところでしたし、何より夜遅くまで何度も会議を重ねて考えた企画に、自信がありました」


私は、一般企業で働いたことがないため、出来る限りの想像力を働かせて、深夜にオフィスで話し合いをする社員さんたちを思い浮かべた。

「企画は、コンペで決められることになりました」

「コンペ?」

「私たちと同じようなPR企業が、同じように企画を提案して、一番良かった提案を食品会社が採用するというやり方です」

「なるほど。それは、プレッシャーでしょう」

「そうですね。競合も、同じように案をしっかりと練ってきますからね。でも、提案の日を迎えて、私たちは確信しました。自分たちの提案が受け入れられたと」

「どうしてですか」

「提案のプレゼンをしているとき、得意先の担当の方が『御社の提案を採用したい』とはっきりと口にしたんです。普通はそんなふうにはっきりと断言されることはありません。だから、今回も勝ったと思いました。それまでも、何度かコンペに参加したことがありましたが、8割はうちがとっていました。それほど、相手方の会社には懇意にしてくださっていたのです」

「確かに、そこまで言われると自信を持ってしまいます」


「コンペ」の雰囲気がどんなものか想像がつかないが、提案をしたあとで先のような反応があったら、私でも舞い上がってしまうだろう。

「はい。その言葉に、油断していたんです。でも」

芦田さんがお仕事の話をしている間、数人のお客さんが出たり入ったりしていった。側から見れば、出版社の営業マンと店員が本の話をしているようにしか見えないだろう。


私は、彼の次の言葉を待った。苦い表情をしているところを見ると、その先に良い話が待っていることはないと簡単に分かったけれど、彼の一連のストーリーに、いつしか私は釘付けになっていた。

「結局、提案が通ったのは、競合会社でした。うちと1,2を争う会社です。名前くらいは、一般の人も知っているかもしれません」

「どうして、でしょうか」

私がそう訊くと、芦田さんは眉根を寄せて悔しそうに笑った。胸が締め付けられるような表情。

「上の判断でしょう。営業担当の方は、間違いなく私たちの案を気に入ってくれていました。けれど、彼らの上司——つまり、今回のコンペの決定権を持つお偉いさんが、競合の案を推した。だから、私たちは負けたのだと思います」

「そんな……」

「こればっかりは仕方ないですね。サラリーマンの性みたいなもんです。得意先の担当の方も、参っている様子でした」


分からなかった。私は、これまでずっとこの小さな書店でしか働いたことがない。しかも、従業員はおろか、私を指導してくれる上司は身内だけ。


営業の担当者が、芦田さんたちの案が良いというのに、他の案が選ばれてしまうのか。だったら、何のために“担当”なんて人がいるんだろう。結局は、上の立場の人の良いように物事は進んでしまうのだ。


「……悔しい、ですね」

思わず、口から漏れた。一般の会社員として働いたことはないけれど、芦田さんの立場で同じ経験をしたら、さぞ悔しいことだろう。精一杯出来る限りのことをして、先方にも認められたのに、「権力」には勝てない。

「ええ。悔しくて、今日はちょっとやる気が削がれています。だからこんなに話してしまったんですよね。すみません、お仕事中なのに」

「いいえ。私はただ、聞いていたいだけなので」

「全くです。桜庭さんといると、色々と話したくなるんですよね。聞き上手だからでしょうね」


私は、はっと彼の顔を見た。今この瞬間、芦田さんがこれまでよりもずっと近い存在に感じた。まだ出会ってから2回しか話していないのに。しかも、どちらも私は店員で、彼はお客さん。私は仕事の合間に、彼の話を聞いているだけ。それなのに、こんなにも近い。

「どうかされました?」

「い、いえ。なんだかちょっと、不思議な感じがして。こうして芦田さんと時計の話やお仕事の話をしてるのが。私たち、店員とお客さんなのになあって」


それでも、私はもう少しだけ、あなたと話がしたい。

お互い仕事中だし、良くないことは分かっている。

でも、知りたい。

あなたという人間を、もう少しだけでも知りたいのだ。


「ははっ。確かにそうですね。あなたと話していると、時間を忘れるんですよ、僕」

「今、初めて自分のこと“僕”って言いましたね」

「あ、本当だ。プライベートではこっちが自然なんですよ」

「それはちょっと、嬉しいです」


初めてだった。他人と、言葉のキャッチボールが止まらないことが。私は、昔から友達が少なかったし、数少ない友達は自分と同じで、決しておしゃべりではなかった。それでも居心地が良いから友達なのだけれど、出会って間もない人とこれほど話せるのは、芦田さんが人の話を引き出したり、自分の話をしたりするのが上手だからだろう。


「雨、もう止みそうですね」

「あら、本当に」

芦田さんに言われるがままに、窓の外を見た。どうやらにわか雨だったようだ。日が暮れて、外は薄暗い。

「桜庭さんと話していると、雨が降るんですね」

「それだと私が雨女みたいじゃないですか」

「いいんですよ。僕は雨が好きなんです」

「じゃあ、私だって良いです。雨、好きですから」

中学生みたいな言葉遊び。胸が躍った。こんな気持ちになったのは、いつぶりだろう。


「桜庭さん、よかったら今度、夜ご飯でも食べに行きませんか」

嫌な感じは、全くなかった。むしろそれが自然だというふうに、私には聞こえた。心のどこかで、きっと私も望んでいたんだろう。

「はい、ぜひ」

古ぼけた書店の中でだって、新しい物語には出会えるのだ。


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