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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第2幕 第4章 出会い
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4-3


芦田さんがお店に来てからというもの、店番をするときには決まって彼の顔を思い出すようになってしまった。特に、ビジネス書の棚の前に来ると、彼が気に入りそうな本がないか、無意識に目で背表紙を確認する。

「あの、これ買いたいのですが」

休日以外、店にいるのはほとんど私だけなので、彼のことを考えては時々ぼうっとしてしまい、お客さんに呼び出される始末だ。

あの日以来、雨の降る日が続いていた。雨の日は客足がぐっと下がる。それに、外の掃除もできないので、必然的にやることがなくなり、考え事をする時間が多くなるのだ。

 

あれから1週間、また月曜日がやってきた。久しぶりに晴れたので、外の掃き掃除と看板猫の餌やりを少々。ほとんど毎日のように店の前で寝ている三毛猫のニケは、うちが飼っている猫ではない。初めて会ったとき、私が餌をやってしまったが最後、また餌がもらえるんじゃないかと企んでここに来ている。

ニケという名前は私が勝手につけただけで、彼は自分の名前がニケだということをきっと知らない。


餌をやるのは、1週間に一度程度。毎日あげているとさすがに住みつかれる。まあ、もうほとんど加減する意味がないくらいには、彼はここにいる。

「みゃあ」

私が店の扉を開けると、彼は甘い鳴き声を上げる。他のお客さんのときは、こんなふうには鳴かない。せいぜい、あくびをするか通常のトーンで「にい」と鳴く。

「はいはい、餌の時間ですよー」

家の中から持ってきた生温いミルクを彼にくれてやろう。

私がミルクのトレーを置くや否や、可愛らしい舌を出してミルクをペロペロと舐めた。


彼に餌をやるためだけに、気がつけばトレーを買っていて、自分は普段飲まない牛乳を買っている。結局のところ、私はニケがご飯を食べている姿を見るのが一番好きなのだ。無防備に背中を丸め、目の前の餌に食らいつく貪欲さがたまらなく可愛い。


「さてと」

外に出てきたのは、もちろん店の前の掃除をするためだ。

入り口のところに葉っぱや石ころが溜まっていたので、ほうきで掃いて、植木に水をやった。

それから、脚立を持ってきて「桜庭書房」という看板を雑巾で水拭きする。

何十年も前からお店に掛けてあるため、随分と汚れていた。

桜庭は、私の苗字でもある。うちの家系が始めた書店だから、桜庭書房。安直な名前過ぎて逆に気に入っている。




街の小さな書店で、私の祖母が開業した。祖母はいわゆる「本の虫」で暇さえあれば、孫の私に好きな本の話を聞かせてくれた。おかげで私は、小学校を卒業する頃までに、夏目漱石や太宰治、宮沢賢治といった有名な作家の話をほとんど知っている状態になった。


祖母が店頭に立っている当時は、周りに大型の本屋さんがなかったため、お客さんもたくさん来ていた。学校の帰りに桜庭書房に遊びにくると、祖母と常連のお客さんが楽しげに話している。そんな小さな街の温かい光景が大好きだった。


祖母が引退すると母・知恵(ちえ)が店番をすることになったが、開業当時よりもだいぶ人が減ってしまって、母は他の会社に勤めることになった。

私も、大学を卒業したら母と同じように一般企業に就職しなさいと勧められたが、結局就職はせず、こうしてこの書店で働いている。私がここで働かずに、誰がお店のことを見るのだという不安もあったが、それ以上に昔から引っ込み思案な私は、普通の会社で多くの人たちに揉まれながら生きていくのが、向いていないと思ったのだ。


私は自分の読み通り、桜庭書房で働いて良かったと思っている。

だって、毎日大好きな本たちを整理して、新しい本がくれば新たな楽しみができる。おまけに上司だの部下だの、面倒な人間関係に悩まされなくて良い。仕事はできるだけ多くの仲間と汗水垂らして頑張りたいという人には不向きかもしれないが、人間関係を構築するのに時間がかかる私にはぴったりだった。


母も、楽しんで桜庭書房の店番をしている私に、もう一般企業にいきなさいとは言わなくなった。母もなんだかんだ、私が幸せならそれで良いと思ってくれているのだ。


だけど、一つだけ、母を悩ませていることがあるの知っていた。

私が、今年で31になるというのに、未婚であることだ。

もっとも、単に未婚だというだけでは悩んだりしないだろう。あえてそういう選択を取る人もいるし、交際相手はいるけれどまだ結婚していない、キャリアウーマンでまだ仕事に専念したい、という思いがあって結婚しない人も世の中にはごまんといる。


でも、私は違った。

私が、というか、母は違った。


「恵実、ちょっとこっちに来て」

何か大事な話がある時、昔から母は決まって私をこんなふうに呼んだ。普通に切り出してくれれば良いのに、わざと明らかに「今から深刻な話をします」という振りを入れる。

久しぶりに母に呼び出されたのは、先週末の夜だった。家族で夜ご飯を食べたあと、私と父はそれぞれテレビを見たり、本を読んだりしていた。いつもの、日曜日の夜だ。

母は、台所で洗い物をしていたのが、落ち着いたらしく、私にダイニングテーブルの椅子に座るように言った

「あのね、分かってると思うけど」

「なに?」

「そろそろ、相手は見つかったの?」

「相手って」

「決まってるでしょう。結婚相手」

そんなこと、聞かなくたって母の顔に描いてあるから分かった。

「うーん、まあ、ぼちぼち」

「それ、この間も同じこと言ってなかった?」

「そうだっけ」

しらばっくれる私に、「はあ」とため息をつく母。父は、寝転んでテレビを見ている。私と母の会話が、聞こえないフリをして。

「あんただって、したくないわけじゃないでしょう。結婚」

「そりゃもちろんしたいよ」

誰かに言われるまでもなく、私も母と同じように結婚というものをしてみたい。けれど、それは今すぐじゃなくていい。したいと思う人が現れた時だ。それなのに母は、とにかく「結婚」というものを押し付けようとしているだけに聞こえて、私は顔を歪めてみせた。

「とにかく、もう30なんだし、見合いでも何でも、見つける努力をしなさいよ。あんたが動かないなら母さん、今度良い相手がいないか紹介してもらうわ」

「余計なことしなくていいよ」

ここ数年間で、母から同じ話を何度されてきたことだろう。20代後半になったばかりの時は、「良い相手いないの? できたら紹介してね」と軽く言われるくらいで、まだましだった。


でも、30になる手前から、結婚の話をする母の顔つきが一気に険しくなった。「早くしてよ」という無言の圧力。それに気圧されて、少しだけ焦った。母の言うとおり、私だって結婚はしたい。けれど、どうしたら、出会えるのか分からないのだ。

「好きな人って、どうしたらできるの……」

今まで誰にも言えていないけれど、実はこの歳になって一度も、私は誰と付き合った経験どころか、好きなったことさえなかった。

母が、これ以上言っても無駄だと悟ったのか、「待ってるからね」と念押しだけして父の横のテレビ席に向かって行った。


母は私と違って、はっきりした人だ。

父とは学生時代に一目惚れして交際し、結婚までこぎつけた。桜庭書房で働きたくないと言った時だって、一般企業で働きたいという確固たる希望があったからだ。

母のように、なんでもシャキシャキ決められたら、どんなにか楽なことだろう。

もちろん、母の人生が楽だったなんてそんなことは思っていない。

けれど、自分の道を自分で決められない私は、限られた命の時間を、無駄にしているように感じる。


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