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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第2幕 第4章 出会い
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4-1



彼と、初めて出会ったのはまさにここ、桜庭書房だった。


今でも覚えている。4年前。冬の日の、月曜日の夕方。その日は他のお客さんがおらず、ひたすら本の整理や返本作業をしているうちに、閉店時間が迫ろうとしていた。


やることがなくなり、レジ奥でそっと本を開いて読んでいると、店の扉が開き、一人の男性が中に入ってきた。

顔を上げなくても、サラリーマンだということはすぐに分かった。カツカツという革靴の音が響いたからだ。


お客さんが入ってきたとて、本を買ってくれるかどうかは五分五分だ。さっと立ち読みして帰る人もいれば、目的の本がなくて諦めて出て行ってしまう人もいる。大きな書店じゃないから、配本は不十分。大型書店に慣れている人からすれば、欲しい本が見つからなくてがっかりする人も多いだろう。

「何か、お探しですか?」

他にお客さんがいなくて、やることもなかったので例のサラリーマンに声をかけた。歳は、たぶん私とあまり変わらない。30代くらいで、会社で言うと中堅社員くらいの人だろう。男性は、不意に声をかけられて驚いたのか、はっと私の方に顔を向けた。


「ああ、店員さんか」

「すみません、突然話しかけたりして」

「いや、こちらこそびっくりしてすまない」


随分と紳士的なサラリーマンだ。男性はポケットから紺色のハンカチを取り出して頬やおでこを拭いた。冬だから、汗をかいていることもないだろうに、きっと癖なんだろう。

「もし、何か探している本があれば、承りますが」

「ああ、ありがとう。でも、ちょっとふらっと中に入ってみただけだから大丈夫ですよ」

手をひらひらさせて私の申し出を軽く断る彼の左腕には、黒い腕時計がはめられていた。

最初は、何の変哲もない腕時計だと思って特に気に留めてはいなかった。一つ気になることがあるとすれば、それは彼の見た目の年齢にしては、その時計がかなり古そうだということだった。


ベルトの部分は年季が入っていおり、所々革が破れている。誰かのお下がりなのだろうか。サラリーマンといえば、身につけるものは常に格好良く見えるように手入れしてるものだと思っていたので、違和感を覚えたのだろう。もっとも、サラリーマンをしたことがないので、それも勝手な偏見かもしれないが。


彼が本を見ている間、私は普段通りお気に入りの本を読むことにした。

今読んでいるのは、重松清の『きみの友だち』。中学生の時に初めて読んで以来、好きすぎてもう五回は読んでいるのだけれど、何回読んでも心に沁みる。


「これください」

しばらくして、彼はレジに一冊の本を持ってきた。『一流の営業トーク』というタイトルの本。いかにも、営業マンが読みそうな本だと思いつつ、そんなことは微塵も考えていないふりをして、お会計をする。

「1980円です」

正直、本が一冊売れた程度では、ほとんどこちらの利益にはならない。だから、商売人としては最低3冊はまとめ買いして欲しいなあと思うけれど、さすがにそれも顔には出せない。


男性は、財布から二千円札を取り出して、トレーの上に置いた。会計をしていると、彼の左腕の時計に、なぜか目がいってしまう。

「二千円、お預かりします」

どうして、と不思議だった。

なぜこんなにも、彼の黒い腕時計に目が吸い寄せられてしまうんだろうか。

普通の男性が持っている、普通の腕時計のはずなのに。

一つのことが気になりだしたら、永遠に気になってしまう性分だったため、思わず彼に「格好良い時計ですね」と言ってしまった。


男性は、「お」と私の言葉に素早く反応し、じっと自分の左腕を見た。

「ありがとうございます。古びていて、格好良いなんてものじゃないですけどね」

ははっという彼の笑い声が、静かな店内で以上に大きく響いて感じられた。

彼の口ぶりからして、おしゃれ目的ではめているのではないのだと分かった。てっきり、本人にしか分からない魅力があるのだと思っていたのに。古びた時計は誰が見ても古びた時計なのか。

「正直、かなり年季が入っているんだとは感じました。でも、古いものをつけるのにも、何か理由があるんじゃないかって、気になりまして……」


その時ばかりは、自分と彼が「店員とお客さん」だということを忘れていた。書店でひたすら本と向き合う生活をしていたら、たまにはこうして誰かと込み入った話をしたいと思うのだ。従業員もアルバイトが二人いるだけだ。

「なるほど。なかなか、観察力がありますね」

彼も彼で、私のつまらない疑問によく、嫌な顔一つせずに答えてくれたものだ。営業という職業が、彼にそうさせたのだろう。愛想が良い人でよかった。もし逆の立場だったら、「さっさと会計を済ませて欲しい」とちょっとイラついていたかも。


「いや、ただ気になっただけで」

「これは、私の父から受け継いだ時計でね。父が、若い頃につけていてよっぽど気に入っていたみたいなんです。でも、父が昨年亡くなってしまって。一緒に燃やしてしまってもよかったんですけれど、なんだかそれももったいなくて、今は僕が使っているというわけです」

「まあ、お父様から……」


彼が、瞳を少しだけ下げて、一瞬だけ物憂げな表情をした。時計を意識すると、お父さんのことを思い出すんだろう。私も、最近祖母を亡くしたから分かる。この書店は祖母が開業したお店だから。店の中で本を眺めていると、ふと思い出すことがあるのだ。祖母に、よく子供向けの本を選んでもらったことを。

彼が、お父さんの形見である時計をはめているという切ないストーリーも心を揺るがしたが、それ以上に、彼の時計がお父さんから「受け継がれたもの」であるところが気になった。


私はその話を、聞いたことがあったからだ。

というか、まさに彼がつけているのと同じような時計を、この書店で目にしたことがある。だから、先ほどから彼の腕時計が気になって仕方なかったのだ。

私は記憶をまさぐって、それが何であったかを思い出そうとした。

どこにしまったものなのか、誰からもらったものなのか。いや、そもそも貰いものなのか、彼のように、ただ私の親族の誰かが身につけていたものだったか。

「少しだけ、待っていてくださいませんか」

もう、ほとんど手前まで出かかっている記憶を、どうしても引きずり出したくて、思わず彼にそう言ってしまった。


目の前のお客さんは、両眉を上げて私を見た。ふらっと立ち寄った店で店員からこんなかたちで引き止められたのが初めてだからだろう。かくいう私も、商売とは関係のないところでお客さんを引き止めたのは初めてだった。

「ええ、構いませんよ」

相手が奇跡的に紳士な方だったことに、ひたすら感謝した。一度気になりだしたら、やっぱり答えが分かるまで止まらない。普段はそこまで社交的だったり、会話好きだったりするわけでもないのに、時々こんな発作(・・)が起きる。

「良かったらこちらにお掛けください」

 レジカウンターの中から、普段自分が使っているちゃちな椅子を差し出して、彼に腰掛けてもらった。


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