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その店の扉を開けるのには、抵抗があった。
何しろあたしは人生のうちの1%も「本屋に行く」という時間がない。
それだけならまだしも、自宅から朋藤高校までの道のりにある本屋は、普通のコンビニの半分くらいの広さしかなく、お客さんが中に入ってゆく様子をほとんど見たことがなかった。
「桜庭書房」。
剥げかかった看板。
店の扉の前で、三毛猫が丸くなって眠っている。
見るからに人の出入りがありそうなところで無防備に寝るなんて、警戒心のない猫だな。
でもまあ、この人の少なさだから、仕方ないのか。
桜庭書房の扉は、木製で店内が見えないようになっていた。
昔ながらの書店という感じで、店主はいかにも“おじいちゃん”みたいな人じゃないかと勝手に予想。
あたしはしばらく、その味のある扉の前で逡巡していた。
自他共に認める小心者のあたしは、お腹にぐっと力を入れないと、決心ができない。
「ふぅ」
よし……入りますか。
カララン。
まるで喫茶店にでも入るかのような涼しげな音がしたけれど、中に入ると昔嗅いだことのあるような、紙の匂いがブワッと漂ってきた。
「おお」
外見から想像される通りのレトロな内観。
木製の本棚が、いかにも「年季もの」って感じ。
その、年季の入った本棚に、びっしりと並べられた本。
たくさんある。本屋だから当たり前だけれど。
やはり、中に他のお客さんはいなかった。いつもこんな感じなんだろうか。
「参考書コーナーはっと」
店内はそこまで広くないため、目的の棚はすぐに見つかった。
しかし、参考書の棚の前に立つと、早速困るあたし。
高校に入ってから勉強という勉強を真面目にしてこなかった自分が恨めしい。
棚にざっと並べられた参考書の種類が多すぎて、ぱっと見ただけではどの参考書がいいのか、全く分からないのだ。
試しにいくつか手に取って、開いてみた。
とりあえず苦手な数学から。
「う〜ん」
どの参考書も、表紙を開けば基礎問題、応用問題、と並んでいる。
はっきり言って、違いが分からない。
白黒の参考書よりはカラーの方がいい? あ、でもこっちの白黒のは問題数多くて解きごたえがありそう……。でも、待てよ。あんまり問題多くても、途中で挫折しない? いつもの自分なら絶対に最後まで使えない。
本当に、どれが一番いいんだろうか。
精一杯悩んで、もういいや、これっ!
と手にした参考書は、それほど問題数が多くない、カラー印刷のものだった。
教科書のような参考書だから、バカなあたしにも使える——と、思いたい。
ひとまず数学の参考書を選び、さらに国語、英語も選んだ。
続くか分かんないし、今日は主要3科目だけにしよう。
参考書を3冊も抱えていると、なんだか賢い人の気分になった。
って、ダメじゃん、買うだけで満足しちゃ。
参考書以外に特に用のないあたしは、さっそくレジに本を持って行った。
レジカウンターの奥には、一人の女性が座って本を読んでいた。
お店の人、一人しかいないじゃん。
小さな店だから、全然不思議じゃないんだけど。
それにしても、店番をしてるのに本なんか読んで、大丈夫なんだろうか。この人、アルバイト……? ぱっと見だけど、30はいってそう。パートの人だろうか。
「あの」
カウンターの目の前まで歩み寄っても一向に顔を上げない店員さん。
恐ろしい集中力。一体何を読んでいるの? 普段全く本を読まないあたしにとっては、彼女が読んでいる本がどんなジャンルの本かさえ分からない。細長くて薄めの本。文字はちっちゃそう。あたしだったら、数分もしないうちに飽きてしまうだろうな。
声をかけてようやく、あたしの存在に気がついたらしいその店員さんは、はっとして「ごめんなさいっ」と慌ててあたしの差し出した参考書を手に取った。
彼女が立ち上がったから、エプロンの胸元に付けられた名札が見えた。
名札には、「芦田」という名前の上に、「店長」という肩書き。
「店長!?」
思わぬ発見をしてしまったあたしは、びっくりして声を上げてしまった。まさか、店長さんだとは思わなかった。
「7560円です」
「……」
「あの……」
しばらく固まっていたあたし、店長が遠慮がちにあたしの顔を覗き込むような格好をして、ようやく我に返る。
「すみません」
お金、お金っと!
財布の中を覗いた。
五千円札一枚と、小銭が数枚。
「あれ?」
足りない。
足りないじゃない!
「あの、どうされました?」
店長は、なかなかお金を払わないあたしを、面倒臭がりもせず見つめている。
もしこの店が行列のできる評判の店だったら、店員さんをイライラさせていたことだろう。
「すみません。お金が足りないみたいで……」
本、一冊返してきます。
と、言おうとした。
言おうとしたんだけど。
あたしが言うよりも先に、「それなら」と店長の芦田さんが口を開いた。
「その本、あげます」
「え?」
どういう意味だろう。脳内で「あげる」という単語を検索し、「渡す」以外の意味を探そうとした。
上げる。
挙げる。
揚げる。
違う。絶対にどれも違う。
ぐるぐると、ない脳みそをフル回転させて必死に言葉を探したけれど、やっぱり彼女の言う「あげる」は一つしかないと分かった。
つまり、本当にくれるんだと。
代金を払わずにもえるのだと。
分かった。けれど、本当にそんなことしていいのか? あげるってことは、芦田さん自身が代金を肩代わりするの? どれだけお金のないあたしからしても、それはとても申し訳ないし、店長がそんなことしていいのかと、若干不安になる。
芦田さんは見るからに無愛想な感じの人で、さっきから少しも真面目な表情を崩さない。それが一層、彼女の真意をくらませた。
「あの……、それって、店長さんがこの本を買ってくださるってことですか……?」
なるべく失礼のないように、下から、下から。
「はい。ただ、一つお願いがあるんです」
芦田さんは、「お願いがある」という時も、硬い表情のまま。
「お願い?」
なんだろう、これ。おかしな本屋。でも、このよく分からない状況を楽しんでいる自分がいた。
「はい。その本を差し上げる代わりに、あなたに試していただきたいことがあるんです」
そう言うと彼女は、一度レジから離れ、店の奥の方に姿を消した。ガサガサ、という音がして、再び現れた彼女は右手に何か握っていた。
黒くて一部きらりと光るそれは、よくある「腕時計」だった。
「こちらを、つけていただきたいのです」
差し出されたその腕時計を見ると、年季ものなのか、ベルトの部分がところどころ剥がれていて、くったりと力尽きた人形のようだった。
しかし電池は切れていないのか、針は普通に動いている。
「これは、腕時計、ですよね」
図らずも日本語を覚えたばかりの小さな子供みたいな口ぶりになってしまう。
「はい、腕時計です」
にこりとも笑わない芦田さんは一問一答式人間なのか、なかなか真意を見せてくれない。
「これをあたしがつけたら、何になるんですか?」
「“何か”が見えるようになります」
「はい?」
ダメだ。
質問の答えに対して、また疑問が浮かぶ。
これじゃ、いつもあたしが授業中にやってることと一緒じゃない!
「“何か”って、具体的に何が?」
「それは私にも分からないんです」
「はあ」
「その時計は、昔からこの店においてあるちょっと変わった時計で。つけると“何か”が見えるようになると言われています。けれど、時計をつけて見えるものは人によって違うんです。私はまだ、つけたことがありません」
「なるほど」
と、口では言いながら、頭はもちろん追いついていない。
何も納得していないし、彼女の言うことはにわかには信じられない。
掌に収まる時計をちらと見れば先ほどと変わらず、見た目は古いながらもしっかりと時間を刻んでいた。
「つまり、実験ってことですか?」
「そうですね。実験、です。私には、その時計が本当は何を見せてくれるのか、分からないので」
その瞬間芦田さんはどうしてか、寂しそうに目を伏せた。
彼女が少しでも表情を崩すのを初めて見た。前向きな感情ではないが、良かった、ちゃんとこの店長さんにも感情はあるんだ。
得体の知れない存在から少しだけ人間らしさが垣間見えてほっとした。
「分かった。でも、どうして店員さんはつけないんですか? もしかしてこれつけたら不幸なことになるとか?」
「いえ、決してそのようなことは起こりません。腕時計をつけて、命の危険に晒されるとか、危険な目に遭うことはありません。ただ私は勇気がないだけです」
「ふーん」
いまいち腑に落ちないが、まあ危険なことがないならいっか。
それに、芦田さんの話が本当だとも思えないし。
ひとまずこの時計を付ければ参考書をもらえるし、ここは彼女の言うことを聞いておこう。
「分かりました。この時計つけてみます」
「ありがとうございます。では、代金いただけない分の本は差し上げます。その代わり、その“ブラック時計”をつけて起こったことを、また報告に来てください」
「“ブラック時計”?」
「その腕時計の名前です」
いや、見た目のまんまじゃん!
と突っ込みたい気持ちは抑えて、私は彼女との取引に応じることにした。
「あ、その時計、つけている間は効果が現れます。それ以外は普通の時計と同じように使ってください」
「分かりました」
参考書を三冊、紙袋に入れてもらってお店を出た。
二冊は自分で買い、一冊は芦田さんからもらった。
左腕につけた、不思議な黒い腕時計。
今のところ特に何も変わった様子はないけれど、とりあえず彼女の言うことが本当なのか、確かめることにしよう。
<つづく>