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教室という空間は、私以外の40名の生徒にとって、これ以上ないくらいに居心地の良い場所なのに、クラスの中で省かれている私にとって、絶望的に狭い社会だった。
吉原加奈という人間が、どうやら「動物と会話しているらしい」という噂は、あっという間にクラス中、いや学年中に広まった。噂の源は田中理恵に違いないけれど、他のクラスの人間にまで話が及んだのは、あの日理恵と一緒に帰宅していた陸上部の二人が原因だろう。
「聞いた? 吉原さんって、猫と話すんだって」
「カラスとも会話してるって聞いたよ」
「なにそれーウケる」
人間の耳というのは不思議なもので、普段誰かと誰かが話している話の内容が聞こえることなんてほとんどないのに、自分に関わることならいくらでも耳に入ってくる。しかもそれが、自分への非難となればいっそう大きく聞こえた。
こういうとき、見知った顔の人たちが悪口を言うのを聞くのが、まだマシだと感じる。一番怖いのは、いままで一度も話したことのないような人たちが、陰で私のことを話していることだ。しかも間の悪いことに、その場面によく遭遇してしまう。
こんなに「怖い」と感じたのは、初めてだった。
学校中の生徒たちが、敵になっているような気がして。
関係ないはずの1年生や3年生の視線まで、気になって仕方がない。
教室はねずみ取りの籠の中だけれど、教室の外は行き場をなくした鶏小屋も同然だった。
今日一日、隠れるようにしてなんとか一日を過ごし、残りは5限目の授業だけだった。
5時間目は理科の実験だ。教室を移動しなくちゃ。あと5分で、授業が始まる。クラスのみんなはもうほとんど移動を始めていて、私だけが動くこともできずに取り残されていた。
教科書とノート、筆箱を持って教室から一歩、廊下へ踏み出す。
途端、これまでの不安がよりいっそう大きく膨らんで、吊り橋を渡りきった先に、崖が現れたような恐怖を覚えた。
でも、行かなくちゃ。
あと少しで、始業のチャイムが鳴ってしまう。
一人きりの移動教室は慣れているはずなのに、今までとは違って、世界そのものが暗黒に染まったみたいに、暗かった。廊下に出ると、雨のせいで土の匂いが鼻をかすめた。
これからずっと、こんなどす黒い気持ちのまま、中学2年生を過ごすのだろうか。いや、もしかしたら3年生になっても変わらないかもしれない。そうなったらもう、諦めて不良にでもなってやる。
雲行きの怪しい残りの中学生活。
堕ちてゆく、私。
最初は、なんとなく息苦しい、という程度だった。合唱コンクールの練習をしている最中、周囲の人間に、罠にはめられていると気づいた。私をクラスの敵に仕立て上げることで、皆の団結力を高めようという魂胆。しかも、それが合唱コンクールで優勝するため、という理由ならまだ納得できなくもないが、決してそういうわけではなかった。
一人のクラスメイトを敵にすることで、弱い者いじめをする団結力を高めようという、とてもくだらない目的。
その、くだらない理由に、振り回されている自分。
これはもう、「息苦しい」を超えて、「生き苦しい」だ。
これまで何度、重たい気分で帰り道を歩いたか分からない。けれど、今日が一番最悪かもしれない。
「かーな」
頭上から、私を呼ぶ声がする。きっといつもと同じ、カラスの声。以前は、動物好きの私でも苦手だと思っていたカラス。彼らはしゃべってみると、実際お調子者だったり、人間の私をからかってきたりするけれど、決して悪いやつじゃない。
「元気ないね」
「どうしたの?」
「話聞くよ」
ハト、スズメ、ツバメ。
皆、私のことを心配してくれている。
学校社会ではいじめられている私に、優しい言葉をかけてくれる。彼らの言葉が聞こえるようになって、動物たちにもちゃんと心があることを知った。小さい頃、近所の人が散歩しているワンちゃんを見て、襲われるじゃないかと思って震えたのを思い出す。
空を駆けるタカやトンビに食べものを獲られるのが怖くて、彼らの姿をいつまでも目で追っていた。
野良猫は可愛いと思いつつ、引っ掻かれはしないかと、疑いの目を捨てられなかった。
これまでの私は、本当の意味で、彼らのことを好きでなかったのかもしれない。
それが今、声が聞こえるようになってようやく、心が通じた気がするのだ。
学校の同級生や先生以上に、私のことを考えてくれる仲間。同じ人間ではないけれど、同等の立場で理解しようとしてくれる心優しい動物たち。
ここ数ヶ月間、私が求めていたこと。
家族以外の誰かに、自分の存在を認めてもらうこと。特別じゃなくたっていい。ただ、ここにいていいと言ってくれさえすれば、それで。
「……ありがとう」
気がつけば、涙で視界が歪んでいた。前が、見えない。今日は雪なんか降っていないはずなのに、白いもやがかかったみたいだ。
私は、決して一人じゃない。
そう思えるのは、間違いなくあの日、桜庭書房の店員さんからもらった『ブラック時計』のおかげだった。




