3-5
しかし、そんな私の諦めに反して、思わぬところで時計は効果を発揮した。
変化が現れたのは、その日の下校中のことだった。
「ご飯ちょうだい」
帰り道、突然誰かに声をかけられた。それが、あまりに奇妙な台詞だったから、「えっ」と思わず声を上げてしまったほどだ。まだ、「すみません」とか「こんにちは」とか挨拶ぐらいだったら、ここまで驚きはしなかっただろう。
「ねえ、くれないの?」
「だれ……?」
もっと奇妙だったのは、声のする方を振り返っても、誰もいなかったことだ。いたのは、足元に一匹の黒猫だけだ。
ん、猫?
「ごーはーん」
正直、顔がひきつって痺れてしまうんじゃないかと思った。だって、足下にいる黒猫の口から、はっきりとその言葉を聞いたから。
「どういうこと……」
最初、何が起こったのか全く分からなかった。聞き間違いかと思って、二度三度、周囲を見回した。けれど、やはり私に声をかけてきたと特定できる人物はいない。それに、いくらなんでも女子中学生に向かって「ご飯ちょうだい」はないだろう。
「僕の声、聞こえてるんでしょ」
間違いない。
足下から私を見上げてつぶらな瞳で訴えてくる黒猫は、私が自身の言葉を理解していると分かったのだろう。
「よく分からないんだけど……うん、聞こえてる」
「やっぱりねー」
黒猫は自分のしっぽを追いかけるようにその場をくるりと一周してみせた。
そうか。これが、『ブラック時計』の効果なんだ!
黒猫の声が聞こえるなんて、現実で絶対にあるわけがない。だから、時計をつけている私の特権なのだ。
動物が好きな私は、『ブラック時計』をつけていれば彼らの声が聞こえるということに、一気にテンションが上がった。
「あなたの言葉が分かるって言ったら、驚かないの?」
猫とまともに口を利いている自分が滑稽だと思いながらも、彼との会話はとても気になる。
「ちょっとびっくりしたけど、たまにいるよ」
「いる?」
「人間の子供で、僕たちの声が聞こえる人」
「それ、本当?」
「本当の本当さ」
そういうものなのか。
小さい子なら、私たちや大人には見えないものが見えるって聞くし、あながち嘘でもないかも。
「ふーん。なんか、納得できるような、できないような。まあ、どっちでもいいや。とにかく、時計のおかげであなたの言葉が分かるようになったんだね」
「時計っていうのが僕には分からないけど、そういうことさ」
黒猫は、単に私が小さな子供みたいに、偶然猫の言葉が理解できるのだと思っただろう。
「状況は分かった。でもごめん、私、猫の餌は持ち合わせてないの」
「そこ、一番期待してたことろなんだけどな」
頬を膨らませる黒猫がちょっと可愛らしい。
私がご飯を持っていないと分かると、もう用がないのだと言わんばかりに、ぷいっとお尻を向けて歩き出した。尻尾が垂れ下がっていて、しょぼくれたようだ。
『ブラック時計』のおかげで動物と話せるなんて、彼らが大好きな私は、一瞬胸の高鳴りを感じた。
でも、よく考えたら、動物の声が聞こえるという効果じゃなくて、誰かの心が見えるという効果の方が良かったかもしれない。例えば、人に言えない秘密を知って弱みを握ってやるとか。そうしたら田中理恵を始め、クラスで私を無視する人たちを懲らしめてやりたい。ははっ、なんだそれ。私、性格悪いじゃん。
動物との会話。
決して悪くはない恩恵だけれど、何かの役に立つかと聞かれたらそうではないかもしれない。
これから何が起こるのか、それとも何も起こらないのか。
全く予想がつかない。でも、動物と会話できるのはちょっとワクワクするので、しばらくは持っておこうと思う。
その日から、私の生活は変わった。
動物と話ができたって、生活は対して変わらないんじゃないかと思っていたけれど、決してそうではないらしい。
「おはよう、加奈」
「今日もご飯ちょうだい」
「学校終わったら遊ぼうよ〜」
中学校に行くまでの間に、こんなに動物がいたのかとびっくりするくらい、色んな動物に話しかけられる毎日。
鳥、野良猫、犬がほとんどだけれど、たまに山から降りてきたイタチやタヌキの声も聞こえる。タヌキなんて、この歳になるまで見たこともなかった。でも、考えてみれば私が彼らの存在に気づかなかっただけで、本当は自分の周りにたくさんの動物たちがいたんだ。中学校だけが、自分の生きる場所だと思ってたけれど、視界を広げてみれば、こんなにも自分と関わりを持ってくれる存在がいる。そのことが私の心を軽くした。
「おはよう」
「……」
2年3組の教室に入るとき、私は以前よりも明るく挨拶ができるようになった。相変わらず、クラスメイトからの挨拶は返ってこないけれど、登校中に動物と会話をして明るい気持ちになっている私にとっては、全然痛くない。
「……おはよう」
いつもと違うと気づいたのは、私が自分の席に座ろうと、窓際の列の横を歩いている時だ。列の真ん中に座っていた串間悟が、挨拶を返してくれた。
最初は、聞き間違いかと思った。
だって、悟とは今まで一度も挨拶を交わしたことがなかったから。私の方が一方的に彼の様子を窺うことこそあれ、彼が挨拶をしてくれるなんて。どんな心境の変化だろう。
気になったけれど、悟と話そうとすると、間違いなく理恵に睨まれるため断念。
悟は、私が席に着いた後も何か言いたげな目をしてこちらを見ていたけれど、ホームルーム開始を告げるチャイムが鳴って、反射的に前に向き直った。
担任の石原先生が「はい、座ってー」と教室にやってきて、いつもの朝に戻った。
いつもとさして変わらない朝のはずなのに、気持ちは少しだけ軽い。
クラスメイトの男の子が挨拶を返してくれたということが、私の胸に小さな灯火を点けた。
窓の外で、昇ったばかりの太陽が、窓際の席を暖かく照らす。隙間風の寒さも、忘れさせてくれるぐらいに。




