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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第1幕 第3章 私だけの居場所
23/59

3-3

桜庭書房は、昔馴染みの書店の、古臭くも落ち着いた雰囲気をした店だった。本はあまりよく読む方じゃないけれど、店内を眺めているだけでもちょっと楽しい。小説家からビジネス書、旅行雑誌、参考書まで、意外にもジャンル様々な本が並んでいた。狭い店だけれど、本好きには愛されそうな場所だな。


「こんにちは」

後ろから、誰かに声をかけられたのは、ざっと店内を見て、文庫本の前で立ち止まっていたときだった。

「こんにちはっ」

まさか、お店の中で突然声をかけられると思っていなくて、一歩たじろぐ。

声をかけてきたのは、30代くらいの女性。黒髪を後ろで一つに括っていて、自分と同じ髪型をしている。

エプロンをつけ、右手に短めのモップを持っているところを見ると店員さんに間違いなかった。よく見るとエプロンに名札がついていて、「芦田」と書かれている。心なしか、お腹が膨らんでいるように見える。妊婦さんかもしれない。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」

「えっと、いや、なんとなく入ってみただけで」

「そうですか」


彼女は、私の制服姿を見て、すぐに美山中学の生徒だと分かっただろう。多分、中学生が一人で店に来るのが珍しかったに違いない。そのまま手に持っていたモップで本棚を掃除し始めた後にも、何度か私の方を見てきた。その度に、学校の先生に報告されるんじゃないかって怖くて、いたたまれない。


さっさと出なきゃ……。

そう思うのに、どうしても、まだここから出たくないという気持ちがあった。店員さんに見られているということ以外、こんなにも居心地の良い場所はなかったから。普段、学校では私の居場所なんかなくて、それでも家に引きこもるのが嫌で、なんとか外に居場所がないか探したかった。


その願いが叶ったみたいに、桜庭書房の懐かしい香り、好きでもない本に囲まれているのに、なぜか湧き上がる心地良さが、私を離してくれないのだ。

今度は私の方からちらりと店員さん——芦田さんを見た。彼女はもう、私を見てはこないようだ。最初は中学生だと思って気になったんだろうけれど、彼女の様子を見ていると、特に私を学校に突き出してルール違反を告発しようなんて魂胆はないように思えた。

良かった。

もう少しだけ、ここにいよう。

これまで、あまり関心のなかった本にも、ちょっとだけ興味が沸いた。店内には児童書コーナーもあったけれど、もう中学生なんだし、児童書は違う気がする。とはいえ、どんな本が自分に合っているのか、面白いと思えるのか、さっぱり分からない。


迷いながらお店を歩き、ふと雑誌コーナーで立ち止まる。

雑誌ラックに置かれていたとある雑誌に、惹かれたからだ。

表紙に載っているのは、三毛猫。桜庭書房の店前に鎮座していたあの子に、とてもよく似ていた。その雑誌は猫の飼育の仕方が載っている雑誌らしい。うちは母親が動物嫌いでペットは飼えないけれど、そのあまりの猫の可愛さに、手を伸ばした。

「可愛い……」

思わず口からこぼれてしまうほど、愛くるしい瞳と、ふさふさの毛並み。目の前に存在するわけでもないのに、その子の頭や背中を撫でたときの感触を想像してきゅんとした。今、誰かに心を読まれたら絶対に変人だと思われる。いや、雑誌を前にじっと表紙を見つめて動かないだけで十分変な奴だと思われるだろうが、幸い今この店には私と店員さん以外に、お客さんがいない。

「その本、お気に召しましたか」

「ひゃっ!」

ぬっと、横から現れた芦田さんに、失礼だけど驚いておかしな悲鳴を上げてしまった。一体、どれだけ気配を消せるんだこの人は!

「……ごめんなさい。びっくりして」

「いえ、こちらこそ突然話しかけてごめんなさい。お客様が、あんまり嬉しそうにその雑誌を眺めていらしたから」

私は、そんなに嬉しそうな表情をしていたのだろうか。猫写真への心のときめきを顔に出した自覚がなかったので、心外だった。


「私、動物が好きなんです」

実際に飼ったことはないけれど、特に犬や猫を愛する気持ちは誰にも負けないと思う。小学校の頃、仲の良かった友達が犬を飼っていて、よくその子の家に遊びに行っていた。ゴールデンレトリバーで、体は大きいけれど大人しくて可愛い。何度も会いに行っていたから、私の匂いを覚えてくれて、全然吠えられることもない。慣れてきたら座っている私の膝にあごを乗せて甘えてくることもあった。でも、友達はよく些細なことで犬を叱っていて、どうしてそんなに怒るんだろう、と不思議でたまらなかった。私が見ていないところでは、デレデレだったのかもしれないけれど。


「そうなんですね。購入されますか?」

店員なのだから、お客さんに本を買うように勧めるのは当たり前といえば当たり前だ。ただ、芦田さんの聞き方は、どうしてか全然いやらしくなくて、「はい」とそのまま答えてしまいそうだった。

「欲しいけど、お金持ってなくて……」

中学では学校にお金を持っていくことも禁止されているため、こうして登下校中に寄り道した先で何かを買うことができない。それでもこっそり現金を持ち歩いて買い食いする生徒がいるから、時々生活指導の先生にばれて問題になっている。


私はそういう、「問題児」扱いされるのは御免だ。

優等生でなくてもいいから、せめて波風を立てない人間だと思われたい。

でも。

手にした雑誌の表紙を飾る愛くるしい三毛猫が「私を買って」と訴えかけてくるようでつらい。私だって、本当は買ってあげたい。う〜ん。

無理だということは分かっているのに、どうしても手放せない。そのまま目を瞑って雑誌ラックに戻せばいいのに、身体が動かない。三毛猫の大きな瞳に吸い寄せられているかのようだ。


「そういうことでしたら、お客様。私に考えがあります」

唐突に、店員さん——芦田さんが、張りのある声でそう言うと、すたすたとレジカウンターの奥の部屋に行き、小さな箱を手に持って戻ってきた。

「それ、何ですか?」

彼女が持っていたのは白い箱だったが、色褪せて茶色に変色していた。たぶん、だいぶ古いものなんだろう。

芦田さんが右手で白い箱の蓋を開けて、中身を見せてくれた。

これは、時計?

見る角度によって、黒光りする時計。多少キズが入っているところを見ても、年季ものなのだと分かる。

しかし、時計の針は今もなお、きちんと動いているから、十分に使えそうだ。

「見ての通り、腕時計です。“ブラック時計”と呼んでいます」

そのままじゃないか——と突っ込みたい気持ちは抑えて、それ以上に気になっていることを訊いた。

「腕時計と雑誌に何か関係があるのですか?」

そう。私が「雑誌を買いたいけれどお金がない」と言ったところで、なぜ急に腕時計が出てくるのか、不思議だった。

「つまりですね、雑誌をタダで差し上げる代わりに、一定の期間、この腕時計をつけていただけないか、というお願いのです」

つまり、というわりに、全くもって説明になっていない。

私は、おそらく自分の倍以上は生きているであろう店員さんを、胡散臭いなと目で疑った。

「うーん、あまり意味が分かりません」

正直な感想を述べさせてもらう。

自分よりもうんと年上の大人の人から、今みたいな説明をされたところで理解できる人の方が少ないだろう。というか、もしそんな人がいたら宇宙人に違いない。



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