2-7
ずっと、求めていた声だった。けれど、今は一番聞きたくない声かもしれない。子供みたいに、ううん、子供よりも情けない姿で地面にうずくまる女子大生のわたし。格好悪すぎて、彼の目を塞いでしまいたい。
「どうして、先輩」
わたしは、春人さんのこと、いつも「春人さん」としか呼ばない。先輩と呼ぶには少し遠いと感じていたのと、男の先輩を「さん付け」で呼ぶのが、大学生の嗜みだとばかり思っていたから。大人になりたかったのだ。まだ、立派な子供のくせに。
「どうしてって、彩夏ちゃんが心配だったから」
いつもと同じ、そっと傷口に触れるような口調だった。その優しさが今の自分にはとても痛い。
「でも、先輩が好きなのは、わたしじゃない」
突然「好き」という言葉を口にしたわたしを見て、春人さんは困ったような表情で数秒間固まった。
「先輩が好きなのはわたしじゃなくて、弥生でしょ」
こんな時にこんなことを口にすべきでないということは分かっている。恋愛感情の有無に関係なく、春人さんはただ、苦し紛れに急に駆け出した後輩を心配して追いかけてきてくれただけなのだ。それなのに、心配した当の相手から、怒られる。理不尽極まりないだろう。
それなのにわたしは、彼を責めたかった。
いくら心配しているとはいえ、あまりに女心を知らなすぎる。別の女の子のことを——わたしの親友のことを好きなくせに、どうしてこんなことするの。わたしが春人さんを好きなことだって、彼は気づいているはずだ。わたしだけじゃなくて、香奈さんが自分を好きなことだって、絶対に知っている。それでもなお、香奈さんと仲良しのフリをする。そんなの、卑怯だ……!
「先輩は、ひどいです」
一方的にわたしに責められる春人さんは、けれどずっとその場から動かずにわたしの言葉にじっと耳を傾けていた。
春人さんの顔が見られない。顔を上げて、彼が今どんな表情をしているのか、確認することができない。歪んでいるのか、泣いているのか。いや、さすがに泣いてはいないだろうけれど。
「彩夏ちゃんは、知ってたんだね。誰にも、ばれてないと思ってた」
雨が、地面を打ち付ける音が、急に聞こえなくなる。
と同時に、頭や肩、腕、膝から、冷んやりとした刺激がなくなった。
春人さんがうずくまるわたしの身体の上で、傘を差してくれているのだと分かった。
「ばればれですっ……。見たら分かりますよ」
違う。
本当はわたしだって、気がつかなかった。
春人さんはずっと、香奈さんが好きなのだと思っていた。だって、彼女から分かりやすいアピールをされても、嫌な顔なんて全くしなかったから。それどころか、二人で仲良くすることに、居心地の良さを覚えているような、満足そうな表情をいつも浮かべていたから。
だからね、気づかなかったよ。
びしょびしょに濡れてしまった、桜庭書房の『ブラック時計』を右手で触る。桜庭家の、恵実さんの大事な時計。これがなければ、春人さんの真意なんて、知らないままだった。今は香奈さんのことをちょっと良いと思っているけれど、諦めないで想っていれば、もしかしたらいつか、わたしにも目を向けてくれるんじゃないかって。
でも、だめじゃん。
相手が弥生だなんて。親友だから分かる。
香奈さんとは違って、人の気持ちを真っ先に察して応えてくれる弥生。
彼女が相手で、わたしが敵いっこない。
「……」
春人さんは答えない。
無言のまま、それでもわたしに傘を差してくれている。
優しさが、痛い。
傷つけて、やりたかった。
これ以上、わたしだけが痛くなるなんて、そんなの理不尽だ。こんなにたくさんの女の子から想われて、自分は選び放題で、女の子の誰かが傷つくレースだということを知りながら、わたしじゃなくて弥生が好きなのを自覚しながら、こうして優しくするなんて。
春人さんなんか、ぐちゃぐちゃに傷ついて、同じ痛みを思い知ればいい。
「……わたしは、春人さんが好きなのに」
最悪のタイミングを測り、わたしは決定的な言葉を口にした。
もう、自分の恋が成就するなんてこれっぽっちも思っていない。どうせ届かない気持ちならば、せめてその想いで、先輩が傷つけばいい。昇華しきれないわたしの気持ちを、刃に変えて。
見なくても分かる。
春人さんが、わたしの告白に驚いて、何も言えずにいるということ。わたしの気持ちを知っていたか知らなかったかは分からないけれど、きっと今このタイミングで想いをぶちまけたわたしを、自分勝手なやつだと思ってるんだろうな。
ああ、もう終わりだ。
春人さんへの恋は、ここで終わり。
彼はこの先、当分の間わたしに話しかけてこなくなるだろうし、わたしも春人さんともう、話せなくなるかもしれない。
止まない雨。さっきまで、冷たくて痛くて、雨なんか大っ嫌いだったけど、この雨に紛れて、私の涙も負の感情も垂れ流すことができるから、ありがたかった。
お互いに言葉を発しない。わたしたち二人の側を通り過ぎてゆく通行人。傘をさしながら自転車を漕ぐ人たち。通り過ぎたあと、自転車のせいで跳ねた水が、わたしの身体に降りかかった。けれどもう、雨でびしょ濡れのわたしは、何も動じない。痛くも痒くもないよ。
「ごめん」
ぽつりと、頭上から降ってきた彼の言葉。
春人さんの口から、一番聞きたくなかった言葉。
「……謝らないでください」
「ああ。でも、ごめんな」
その言葉が、ちっともわたしの心を癒してなんかくれないこと、分かってるくせに。むしろ、余計にかき乱されることを、知っているくせに。春人さんはわたしに謝ることで、自分が楽になりたいんだろう。その気持ちも分かる。多分、わたしが春人さんと同じ立場でも、同じことをしていたと思う。
「ばかばかばか……」
背を向けたまま、わたしの身体の上に傘を差してくれている春人さんに、無意味な抵抗をぶつけた。
「ああ」
その言葉も、何もかも、春人さんは受け止めるつもりだ。それが彼の覚悟なんだろう。
「先輩なんか、早くどっかいっちゃえ」
「うん」
「弥生に、早く気持ち伝えればいいんだ」
「そうだな」
「わたしのことも香奈さんのことも、知らんぷりして、自分の気持ちをぶつけてきてよ」
「……ああ」
痛いのは、春人さんの言葉じゃなかった。
自分自身の言葉。
片思いのくせして彼に怒りをぶつけている自分自身が、痛い。
もう、やめよう。
彼に投げかける言葉は、嫌味や罵倒ではない。わたしが彼を好きなように、彼は弥生のことが好きで、苦しんでいるのかもしれない。弥生と彼がどこまでの関係なのか知らないけれど、もしかしたらわたしなんかよりもずっと、弥生は春人さんと関係が深いのかもしれないけれど。
現在のところ、春人さんと弥生が恋人なわけではないのだから。あとは春人さんが弥生に気持ちを伝えるかどうかの問題じゃないか。
わたしは、振られたんだ。
香奈さんも、いずれはわたしと同じように振られてしまうだろう。
そうしたら春人さんは、弥生に気持ちを伝えにいくんだろう。
「寒いから、帰りましょう」
固まっていた足に、ようやく感覚が戻ってきて、のらりと立ち上がった。膝もコートもびしょ濡れで、髪の毛からは水滴が滴って、とても人に見られても大丈夫というような状態ではなかった。




