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あなたが見た世界の端っこを、掴んで。  作者: 葉方萌生
第1幕 第2章 恋の刃
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2-5

ほっとしたように、彼女が口元を緩めた。不安そうだった表情が一気に年相応の大人の女性の自然な顔になってわたしも安心した。

「いえ。それより、わたしが買う本を悩んでるときに時計の話をされましたけれど、何か関係があるのでしょうか」

「うーん、直接的には“ない”かな」

あっさりと、わたしが本選びに迷っているのと時計をつける実験に関係がないことを認める彼女。

「じゃあ、どうしていきなり時計の話なんか」

「それは……確証はないけれど、もしかしたらその時計が、彩夏さんの悩みを解消してくれるんじゃないかって、思っていて」

「悩みを、解消?」

「ええ」


悩み。

わざわざ口にするまでもなく、わたしの悩みは一つに決まっている。

春人さんへの気持ちに、収拾がつけられなくなっていることだ。

もっと簡単にいえば、彼を好きすぎて仕方がないこと。

でも、サークルの先輩の香奈さんも、誰の目にもはっきりと分かるくらい、春人さんを想っている。さらに、気持ちを伝えるどころか、アピールさえできないわたしとは違って、周囲の目も気にせず春人さんにアタックしていて。

春人さんは春人さんで、分かりやすく気持ちを表現する香奈さんに、まんざらでもないふうに接している。

どこからどう見ても、わたしの恋に突破口はない。

そんな気持ちを少しでも慰めたくて——。ううん、あわよくば、恋を叶えたい。そのためのバイブルを探していたんだ。


「この時計が、本の代わりにわたしの悩みを解決してくれるんですね」

「はっきりと断言できるわけではないわ。もしかしたら、解決してくれるかもしれない、というだけで」


恵実さんも、『ブラック時計』を着けてもらった例が少なすぎて、「着けた人の悩みを解決してくれるかも」というのが憶測に過ぎないことを知って、確証が持てないのだ。けれど、もしこの時計がわたしの悩みを解決してくれて、さらに恵実さんにサンプルとして結果を伝えてくれるのなら、わたしも恵実さんも目的を達成できて一石二鳥だと言いたいのだろう。

「なるほど……」


この時計の実験に、それほど深い意味があるとは思ってもみなかった。でも、彼女の言うとおり、やってみる価値はある。そもそも、着けたところで、悪者に狙われるとか命の危険があるとか、そういったことはなさそうだし。

「それでももし、彩夏さんが本を読みたいのなら、これを貸してあげる」

彼女は今の今まで読んでいた『痴人の愛』をわたしに差し出した。何度も読み返しているため、色あせた表紙。

「いや、結構です……」

突然前のめりになって本を勧めてきた彼女に、わたしは思わず身を引いてしまった。というか、普通店員だったら、新しい本を進めるべきじゃないのか。まあ、そうしないところが彼女のいいところではある。

「そっか」

思ったよりも引き際あっさりの彼女は、また先ほどのように『痴人の愛』を手元に置いた。

「とりあえず、この時計着けてみます」

「ありがとう。効果はわりとすぐに出るみたい。何が見えるようになったか、また教えてくれたら」

「分かりました」

何はともあれ、日頃お世話になっている恵実さんのお願いを引き受けられて良かった。


「彩夏さん」

そろそろ桜庭書房から出ようかと考えていたとき、恵実さんが再びわたしの目を見つめた。

「はい。どうしましたか」

「あの、もし覚えていたら教えて欲しいのだけれど。夫と……最後に会ったとき、何か言ってなかった……?」

震えていた、完全に。

恵実さんの声と、口元。

目に見えない、けれど絶対に太刀打ちできない運命という敵に翻弄された彼女が、なんとか身を奮い立たそうと懸命に足掻いているのが分かって。

何か少しでもいいから、ヒントが欲しい。

なぜ、彼が消えなければならなかったのか。

起こったことだけを並べたてれば、恵実さんの夫、昴さんが亡くなったのは交通事故としか言いようがない。不幸な事故だった。

でも彼女は、そこに事実以外の真実を見出そうとしている。

昴さんが車で事故に遭ったとき、車には別の女性が同乗していたと聞いた。恵実さんはきっと、二人の関係が由々しきものだと信じているのだ。わたしも、昴さんとその女性のことは知らないが、二人の間に何もなかったに違いないなんて、簡単に慰めることはできない。

真実は、闇に葬られてしまったのだから。

「すみません。わたしは何も……。最後に会ったの、いつだったかな」

「そう……」

寂しげに目を伏せる彼女を見て、いたたまれない気持ちになる。

「力になれなくて、ごめんなさい」

「いえ。そうですよね。彩夏さんは何も、知らないですよね」

彼女が、そっとお腹に手を当てる。また、腹痛らしい。

つくり笑いをした彼女に頭を下げて、わたしはその場から早く消え去ることしかできなかった。




「うわー、雨最悪じゃん」

 サークルの練習がある日だから、自転車で大学に来たのに、あいにくの雨。三葉大学の学生は、電車通いの人と徒歩・自転車通いの人が半々だけれど、わたしは後者で気分によって自転車で行くか歩いて行くか変えていた。弥生に話すと、「なんで? 自転車の方が圧倒的に速いじゃん」と不思議な顔をされる。けれど、わたしは音楽を聞きながらのんびり歩くのが好きなのだ。自転車ですいすい大学まできて移動時間をとにかく惜しむという生活は性に合わないらしい。


 ただ、平日サークルのある火曜日と木曜日は、体育館に行く必要があるため、決まって自転車だった。それなのにこうして雨が降るとせっかく自転車に乗ってきたのに、と思う。しかも、降るなら降るで、朝から降っていてくれれば、潔く大きい傘を持ってきたのにね。

 放課後、いつものようにわたしは弥生と待ち合わせをして体育館に向かった。二人とも、潔く大学に自転車を置き、傘を差して歩き出す。結構な雨で、隣を歩く弥生の声が聞き取りにくいぐらいだった。

 自転車だと10分で着くのに、歩くと30分もかかる距離。足や腕が極力濡れないように、傘でかばいながら歩く。

「彩夏、その時計、今まで着けてたっけ?」

 わたしが右側に、弥生は左側にいたからすぐに気づいたんだろう。

 わたしの腕に、黒光りする例の時計が、彼女の目に不自然に映っても、仕方がない。

「ううん。今日から着けてる」

「へえ。どうしたの、急に。見たところ新品という感じはしないけど」

「昨日、知り合いの人に貸してもらったの」

 本屋の店長を「知り合い」というのは正しい表現なのか否か分からなかったが、まあ、お客と店員を超えた関係であるというのは認識としてある。

 恵実さんの顔や声色を思い出しながら、わたしは弥生と一緒に、自分の左腕にはめられた『ブラック時計』を見た。

「貸してもらったの? それはまた、古風な趣味だね」

 ははっと、軽く笑みをこぼす弥生。

 子供のころ、友達と肩を寄せ合って、集めていたシールを交換したり、本やCDの貸し借りをしたりしたことはあったけれど、確かに「時計を貸し借りする」なんてことはしたことがない。マニアの領域だ。

「そう言われれば、そうかなあ」

「何か、変わった理由があるのね」

 察しの良い弥生は、傘を持ったまま身体をくるりとわたしの方へ向け、今までになく聡明そうな瞳を向けた。

 さすが、弥生。

 話すつもりはなかったのに、そこまで察知されたらもう、話すしかない。

「わたしが通ってる本屋さんがあってね」

「ああ、確か『桜庭書房』だっけ」

「そうそう」 

 桜庭書房のこと、これまで何度か弥生に伝えたことがあったか、と思い出す。

「そこの店長さん——芦田恵実さんというのだけれど。その人とは顔見知りになって、知り合いとして普通にお話しする仲なんだけど。昨日お店で本を買おうか迷っていたら、この時計を着けてみて欲しいって言われて」

「ほう。なかなか、珍しい展開」

「変だよね。大体わたし、本を探しに来たのに。『もしかしたら、この時計がわたしの悩みを解決してくれるかも』って、恵実さんが」

「お悩み解決? なんで?」

 頭の中に「?」がいっぱい出現しているであろう弥生。でも、ごめん、わたしも同じなんだ。

「その辺の詳しいことは分かんないけど、時計を着けたら『何かが見えるようになる』んだって」

「何かが見える? 小説か何かの設定なんじゃない?」

「うーん、確かに小説でも書いてるのかなあ」

 恵実さんは読書家だから、確かに小説を書いていたとしても不思議ではない。でも、昨日彼女と話して、この時計をそんなに単純な理由でわたしに貸してくれたとは思えなかった。最後に見た恵実さんの切なげな表情が忘れられない。眉を寄せ、何かを思い返して辛くなっている。その“何か”は、言うまでもなく、亡くなってしまった旦那さん——昴さんのことだ。


 昴さんが亡くなって、彼女には何度か会っていた。もちろんお葬式にも出たし、その後数回お店を訪れていたのもある。

 昴さんが亡くなって2ヶ月以上経ったけれど、まだ一度も恵実さんが心から笑っているところを見たことがない。それも、仕方ないことだとは思っている。誰だって、こんな状況に陥って、すぐに回復できるわけがない。

 だから、恵実さんがこの『ブラック時計』で何かが見えるようになるというのなら、それは昴さんに関わることなのかもしれない。完全に憶測だけど。

「何か、が見えるようになったら教えてよ」

 完全にわたしの話を信じていない弥生が、若干わたしの方に向けていた身体をくるりと正面に向き直したから、水滴が飛んできて思わず顔を拭った。

 大雨の中、二人で並んで歩く。黙々と進む。お互いの声が聞こえづらいから、結局ひたすら歩みをすすめることに必死になった。

 地面を跳ねる雨粒を眺めながら、体育館で勢いよく跳ねるバスケットボールを思い浮かべた。

 ボールを操っているのは紛れもなく、春人さんだ。想像の中でだって、思い出すのはいつも彼。

 彼は今、体育館にいるのだろうか。着替えを済ませ、準備運動でもしているかもしれない。

「弥生、急ごう」

「え、ちょっと!」

 時計を見ながら、練習が始まる十八時半を超えていることに気が付く。マイペースに歩く弥生の前に出て、先ほどより1.5倍速ぐらいのスピードで歩く。大学のサークルだし、特に遅刻という概念はないけれど、早く行きたかった。

 早く、会いたかった。


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