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恵実さんの声や優しい言葉遣いが、わたしにとってどれほど心地の良いものだったか、彼女は知らないだろう。
何度も訪れるうちに、お客さんとしての一瀬彩夏ではなく、いち本好きとしての一瀬彩夏を見てくれているようで、嬉しかった。
こんなふうに店員さんと心を通わせた経験は今までなかったし、それこそ物語の登場人物にでもなった気分でいた。
「お、噂の彩夏さん、か」
通算で10回以上、桜庭書房の敷居を跨ぎ、恵実さんから「彩夏さん」と呼ばれるようになった、大学1年生の秋。初めて、恵実さんの旦那さんと遭遇した。
「はじめまして」
「ああ、初めまして。夫の芦田昴です。いつもうちの店に来てくれてありがとう」
最初に話した時から、とても紳士的で気さくな人だとすぐに分かった。控えめな恵実さんを守ってくれるような大人の包容力を持ち合わせている人だということも。
なんというか、昴さんの隣に並んでいる時の恵実さんは、「守られている」という安心感に包まれているようだったから。表情は今より穏やかで柔らかい。この二人に子供が生まれて家族が増えたら、きっと陽だまりみたいな温かい家庭になるんだろうなって、想像がついた。
けれど、そんなわたしの妄想も、恵実さんと昴さんの身に実現するはずだった理想も、2ヶ月とちょっと前に、潰えてしまった。
なぜなら。
夫の昴さんが、この世から消え去ってしまったから——。
谷崎潤一郎の『痴人の愛』を5回読んだという恵実さんは、小さく笑っている。昴さんがこの世を去ってから、彼女が笑うところを久しぶりに見た。それでもまだ全然だめだ。無理して笑っているという感じが、どうしても拭えない。
「今日も、暇つぶし?」
彼女は、わたしが普段から目的もなくここへ来ることが多いのを知っているため、またいつものように、ふらっと立ち寄っただけだと思ったんだろう。あながち間違いではないけれど、今日は自分の気持ちの中にとある決心があった。
「暇つぶしじゃないんです。今日は、本を買いに来ました」
本屋に来て、「本を買いに来ました」だなんて、あまりに当たり前すぎやしないか。ただ、よくよく考えてみれば、桜庭書房を訪れるとき、5回に1回ぐらいしか実際に本を買っていないということに気づいた。わたしはここに「本を買いにくる」目的よりも、恵実さんと話したり、なんとなく本を眺めたりするのを楽しみにしていたんだなと思う。
「そう。何の本?」
何の本、と聞かれてわたしは「あれ」と考え込んだ。
そういえばわたし、何の本を探しにきたんだっけ。求めているものは、春人さんへの想い、春人さんを好きな香奈さんを見ているとやきもきしてしまう気持ちを、どうにか鎮めてくれるような本。でもそれは、具体的に、何の本なんだろう、
「うーん、具体的に何が読みたいのか、分からないです。でも、気持ちが収まったらいいなって……」
おそらくだけど、自分の気持ちを人に伝えるのに、これほど分かりにくい言葉はないだろう。案の定、恵実さんも、わたしの言葉を真顔で受け止めて、数秒間、黙り込んでしまった。
店員を困らせる客にはなりたくないと思っていたのに、煮え切らないわたしの態度に恵実さんは呆れているだろう。
「それなら、ちょっと手伝ってほしいことがあるのだけれど」
何が「それなら」なのか、前後の文脈が分からない、唐突な申し出にわたしは「え」と恵実さんの顔を二度見した。
「彩夏さんに、頼みたいことがある」
とても真剣で、どう頑張ったって、この状況で頼みを断るなんてできっこなかった。日頃懇意にしてくれる桜庭書房の店長、芦田恵実が言うならなおさら。
「頼みたいことって、何ですか」
「これを、着けてみて欲しいの」
カウンターの奥の部屋に入っていった彼女が、しばらくして戻ってきたとき、その手にはあるものが握られていた。
腕時計。
何代もの人たちが使ってきたんじゃないかってすぐに分かるくらい年季の入った、黒い時計。
「腕時計ですか」
「ええ。これをね、彩夏さんに、実験で着けてほしくて」
「実験?」
一体何の?
もしかして恵実さんは、これから時計職人にでもなるつもりなんだろうか。わたしが時計を着けたら、女性の腕に合う腕時計のサイズが分かるから、それを知りたくてこんなことをお願いしているのかな。
でもそれなら、どうしてわたしが買う本を悩んでいると言った矢先なのか。
腕時計職人になりたいなら、時計をはめられるタイミングなんていつでもあったし、あえて今この瞬間である必要はない。
これまでの恵実さんとの会話、二人の関係を思い返しながら、彼女の思惑を考えた。が、一向に答えは出ない。彼女の行動は不可思議だ。優しい奥さん像を纏う彼女の普段の様子からは考えられないくらいに。
「実験というのは、その時計が普通じゃないからなの」
またも、一言では理解できないことをおっしゃる。
「どう普通じゃないんでしょうか。わたしには、いたって普通の腕時計に見えますけれど……」
まあ、とんでもないくらい使い古されているという点は別として。
「この時計はね、着けている人だけに、あるものが見えるようになると言われているわ」
彼女の話は、どんどん摩訶不思議な方向へ進んでゆくばかりで、思わず「はい?」と心の声が漏れそうになった。わたしの中で恵実さんは、トップ・オブ・ザ・常識人だったので、何か悪いものに取り憑かれたとしか思えない。そうでなければ、旦那さんを亡くしてしまった心の傷が、急に広がってきたのだろうか。
「この時計は『ブラック時計』といって、この店に昔からある腕時計なの。私のお父さんもおじいちゃんも、時計のことを知ってる。桜庭家に——あ、桜庭っていうのが私の旧姓で、失くさないように、皆で大事にしてきたわ。今は私が『ブラック時計』を守らなくちゃいけなくて」
彼女はその時計を、両手でぎゅっと包み込んで、胸に当てた。その姿は、親鳥がかえる前の卵を必死に温めているようだった。
それから瞳を閉じて、一呼吸置き、彼女は語った。
『ブラック時計』を着けた人は、その人しか見えない「何か」が見えるようになること。
何を見るかは、その人の心理状態に関係するとも言われているが、実際のところはよく分かっていないということ。
にわかには信じがたい話だったけれど、恵実さんが不必要に嘘を言うとは思えない。嘘でもなく本当でもないなら、この時計には人の心を惑わす魔力みたいなものが潜んでいるのかもしれない。
「ええ。でも、私はまだ納得できていなくて」
「納得?」
「この時計が、本当は何を見せてくれるのか」
「恵実さんは、それを知りたくてわたしにこんなことを頼んでいるんですか?」
「……うん」
幼い子供のような声だった。
そうしなければならない理由が彼女の中には確かにあって、だけどそれを正直に伝えることはできなくて。
友達が持っているおもちゃやゲームが欲しくて、「お母さん、買って」とせがんでいた自分の幼少時代を思い出す。「仲良しのいっちゃんが持っているから欲しい」のだけれど、それを母に正直に伝えたって、「いっちゃんちはいっちゃんち。うちはうち、でしょ」と真っ当なことを言われるだけだと分かっていた。だから、いっちゃんが持っているからなんて、絶対に言えない。彼女が持ってるから欲しいに違いないのだけれど、他人に通用する理由と自分の中にある確固たる理由は、必ずしも一致するとは思えない。
きっと、「ブラック時計の効果を知りたい」恵実さんの本当の理由も、彼女の中では明確で絶対に知らなければならないものだけれど、わたしたち他人には言えないんだ。
ううん、もしかしたらいつかは言えるようになるのかもしれない。
でもそれは、「今」じゃない。
「恵実さんの気持ちは分かりました」
流行りのゲームが欲しいと駄々をこねて母親の下す判定を待っていた子供のようなまなざしで、彼女はわたしを見た。
「着けてくれるの?」
「はい」
彼女の本当の目的が何なのか、わたしには分からない。でも、彼女が心底ブラック時計の真相を知りたがっていることだけは分かる。
「ありがとう」




