幼き日の思い出
当然のことながら、黙って仕事場に連行される俺ではなかった。
いかに月天丸が素早い身のこなしを誇るといえど、単純な実力ではこちらが遥かに上である。この俺を力づくで引っ張れる者がいるとすれば、父たる皇帝か兄姉たちくらいなものだろう。
「ええい! とっとと木から手を離せ! 往生際が悪いぞ!」
俺は道端に生えていた木にしがみつき、襟首を後ろから引っ張って来る月天丸に抗っていた。さしずめ猿の姿勢である。
全体重をかけ、歯ぎしりまでして俺を木から引き剥がそうとする月天丸だが、俺は固い意思を体現するかのごとく頑として不動を決め込んでいる。
「まあ落ち着け。確かに俺も働くことの尊さは理解しているし、いつの日か輝かしい舞台で存分に実力を発揮するのもやぶさかじゃない。だが、それは今じゃないんだ。物事にはふさわしい時期というものがある。俺はまだ能ある鷹として爪を隠さないと――」
「下らん言い訳はもう聞かん。そもそも貴様、元は市井の出なのだろう? ならば働いたこともあるはずではないか。いいから働け。そしてその腐った性根を叩き直せ」
意固地になる月天丸を背に、俺は(木にしがみついたまま)ふうとため息をつく。
「早合点が過ぎるな月天丸。俺が宮廷に迎えられたのは、今のお前よりもずっと小さい頃の話だ。まだ働くなんて発想とは無縁だったよ」
「幼子でも家計の足しに屑拾いくらいはするものだろう」
「そこは反省してる。その頃はお袋も元気だったし、いつも『元気でそばにいてくれたらいい』って言うもんだから、俺も甘えてたのかもしれないな……」
俺が神妙な顔になって哀愁に耽っていると、月天丸が俺の襟を引く力を弱めた。振り返ってみれば、なんともバツの悪そうな顔で頬を掻いている。
「そうか……。母君を亡くしていたのだったな……。まあ、あまり気にするな。確かに街の子供でも遊びほうけている者なんぞいくらでもいるしな。私も少し言い過ぎたかもしれん。許せ」
「ああ、気にしないでくれ。お袋が亡くなったのもずいぶん前だし。そんなに気を遣われることじゃない」
「そうか……いや、しかし母君はなかなか立派な御仁だったのだな」
「ああ。貧乏ではあったけど、最低限の飯はしっかり食えてたからな。大した博打打ちだったよ」
む? と月天丸が首を傾げた。
「博打打ち?」
「おう、なかなかいい腕だったんだぞ。都の賭場をあちこち巡って、少しだけ勝ってすぐ河岸変え――ってのを年中繰り返してたな。あんまり勝ちすぎると胴元の侠客に目を付けられて面倒事になるからな。匙加減が上手かった」
「う、うむ……。想像していたのと少し違うが、まあそれも一つの立派な仕事だな。私とて胸を張れる仕事ではないし」
まったくだ、と俺も頷く。
「だけど今にして思えば、少し過保護すぎた気もするな。なにしろ仕事中でも俺を近くに置くぐらいだったから」
「賭場に貴様を連れてきていたのか? 何歳ぐらいの頃だ?」
「よく覚えてないが、五つぐらいだったかな……?」
だんだんと月天丸の表情が怪訝になってくる。
確かに人攫いなんかもゴロゴロしている賭場に子供が出入りするのは本来健全といえないが、そこは俺である。たとえ五歳でもそのへんのならず者ぐらいは返り討ちにできた。
と、返り討ちという言葉で思い出した。
連れて来られた賭場で、何度か親孝行ができた場面があるのだ。
「そうだそうだ。俺がもうちょっと大きくなった頃……七つくらいか? そのころから、お袋の腕がちょっと衰えてきてな。相変わらず負けはしなかったけど、ついうっかり勝ちすぎることが何度かあったんだ」
「勝ちすぎる?」
「ああ。胴元の取り分すら掠め取って、賭場荒らし扱いされるくらいの大勝ちだな。そうなると、仕切りの侠客どもが刀剣持って勝ち分をチャラにしようとしてくるわけだ。そういうとき、決まってお袋はこう言ったもんだったよ」
俺は目を閉じて、幼き日の思い出を脳裏に思い浮かべる。今でも晴れやかな母の笑顔がありありと思い出せる。
「『――まとめてやっちまいな』って」
「貴様それ完全に用心棒の扱いだぞ」
素早く切り返された月天丸の指摘に「そんなまさか」と俺は笑う。
「あくまで緊急回避だろう。実際、優しい親だったしな。『いつも元気でそばにいてくれたらいい』っていうくらい……ん? 『いつでも動ける姿勢でそばに控えてな』だったかな……?」
「おそらく後者だろうな」
まあ、どっちにしろ意味合いに大差はない。
こうした偶発的な大勝ちのあとは、決まって三日三晩くらい豪遊したものである。こういう事件を何回か繰り返しているうち、皇帝の耳に『やたらと強い賭場荒らしの子供』という噂が入って、宮廷に迎え入れられた。
母は最後まで「賭場荒らしじゃないよ。うっかり手が滑って勝っただけさ。あとは正当防衛」と否定していたが。
「まあ聞いてのとおり、俺に似て高潔かつ人格者な母親だったわけだ」
「確かに貴様とよく似てるようだな」
「こんなお袋があの脳みそまで筋肉な皇帝と意気投合したってのが未だに不思議ではあるんだが……」
「私は大いに納得できたがな――というかアレだ。ちょっとでも同情した私が馬鹿だった。やっぱり貴様は働け。いいから仕事場に行くぞ。いい加減そろそろ木から離れろ!」
再び月天丸が気勢を取り戻して俺の襟首を引っ張り始める。
だが問題はない。俺がこうして全力で木にしがみついている限り、月天丸はどうすることもできない。
そのとき。
「おいおい、困ってるみてえだな月天丸?」
知性を欠いた馬鹿っぽい声が路地の裏から唐突に響いた。
警戒とともに視線を向ければ、そこには襤褸を身に纏った髭面の浮浪者――ではなく、一虎が立っていた。皇子らしさを毛ほども感じさせない小汚さである。
月天丸は俺を引っ張りながら、
「む……長兄か。ちょうどいい。こいつがまったく働こうとしなくてな、引き剥がすのを手伝ってもらえるか。兄弟喧嘩はお得意だろう」
「ああいいぜ。弟の社会復帰を促すのも兄の務めだからな。引き剥がすどころか木の根っこごとへし折ってやる。ただ――」
こちらにじりじりと歩み寄ってきていた一虎だったが、木に触れようとする前に突如として膝から地面に崩れ落ちた。
そしてうつ伏せで地面に顔を貼り付けたまま言う。
「宮廷追い出されてからもう何日も飯食ってねえんだ。四玄のアホをひっぺがすの手伝うから、その前になんか飯奢ってくれ」




