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8月~解放教室 1

 合宿が終わると私と揺花は部活を引退した。


 ここからは受験生としての夏休みが待っている。



 と言っても私の場合、国大受験に失敗する方向なので他の同級生たちのように熱心に勉強する必要はない。センター試験で国大受験に足りるギリギリの点数さえ取れればあとは問題なし。

 あとは両親に一生懸命やっているように演技すれば良いだけ。



 とは言え、家にいても気が滅入るだけなので、塾の夏期講習のない日はほぼ毎日学校に行っていた。



 学校は3年生だけ教室を自習のために解放している。


 こんなやる気のない受験生の私が出入りしているのは他のクラスメイトに対して心苦しい気もしたけど、結局ここに来て、教室でセンター問題集をパラパラ捲ったり、図書室の開室時間はそこで本を読んだりして過ごしていた。



 8月に入り、お盆休みの数日間は学校も完全に休みになるのでその間だけは自宅で過ごしたけど、それを過ぎるとまた学校通いを再開した。



 その日もまた午前中は図書室で本を読み、昼には外に出て校庭に下りる階段脇の石垣の上の木陰に一人座る。


 ここから誰もいない校庭を見渡しながらコンビニで買ってきたパンをかじって昼休みを過ごすのが日課になっていた。



 午後1時を回って、


(教室に戻らなきゃなぁ…)


と思ったけど、今日はその気力が入らない。



 蝉時雨を聞きながら眩し過ぎる太陽が注ぐ校庭を眺めていると、時々吹く風も熱風なのに、その暑ささえもが心地良い開放的なものに感じた。



(私は毎日何してるんだろう?)



 ただ座っているだけでも汗が滲んでくる。

 それでも教室に行きたいと思えなかった。



 自分の我慢に限界が来てる?



 いや、そんなことない。



 そうだとしても気付いてはいけない。



 両手で顔を覆う。

 顔も掌も汗ばんで心地が悪い。



(大丈夫…きっと大丈夫…)




「何してんだ、そんなとこで?」



 やにわに背後から声がした。



 私の胸が大きく鼓動する。



 その声の主が誰かは、顔を見なくたってその声だけで分かった。



(先生!)



 合宿以来だからもう3週間ぶりくらいになる。



 逢いたかった…



 学校に自習しに来ていたのも、先生に会えるかもしれない、という気持ちが本音だった。



 自分では認めないようにしていたけれど…




「先生は何してんですか?」



 逢いたかった気持ちを悟られないように、平静を装って先生を振り返る。



「俺?俺は仕事だよ。


 お前らは夏休みでも俺は毎日学校来てんの」



 半袖のポロシャツ姿の先生が腕組みをして見下ろしている。



「私も夏休みなんてありません。受験生ですから。学校も毎日来てます」



 顎を上げて返す。



「んー素晴らしいね!」



 その言い方が英語の先生っぽい表現だな、となんとなく私は思った。



「南条はどこの大学受けるんだ?」



 先生が尋ねる。



 正直あまり訊かれたくなかった。



「国大…」


「へー。優秀じゃん」


「…行く気ないけど」


「え?志望校でしょ?」


「親のね」



 私の言葉に少し驚いたように、先生の大きな瞳がぱちぱちと瞬く。



「じゃあ南条が行きたい学校はどこ?」


 先生が言葉を変えた。



 でも私の答えは…



「んー…ないかな?」


「ないの?」


「…うん」



 先生が首を傾げて私を見ている。


 その瞳は夏の陽射しが反射して煌めいて見えた。



 私は胸の内まで透かして見ようとするような先生の澄んだ視線に抗えず、なんとなく今まで揺花以外には話したことがないことが口をついて出た。



「国大も親の希望で受けるけど、上手いことギリギリで落ちるつもり。

 そのくらいのテクニックができるくらい国大の模試も点数良いし」


「勿体ないな」


「やりたくないことやって生きる人生の方が勿体ないと思ってるから」


「そういう意味じゃないよ」



 そう言って先生は少し笑った。



「南条はさ、やってみたいこととか、好きなこととかないの?」


「んー…それもない、かな?」


「ひとつも?」


「…うん」


「小さい頃とかは?」


「親の言うように学校の先生になるものと思い込んでたから」


「そうか…」



 先生は顎に手を当て、何か考え込んだ。



 二人で黙り混んでしまうと急に蝉時雨が大きくなったように思える。

 それは激しい耳鳴りのように私の思考を停止させる。



 ひとところを見つめて何か思案している先生に対して、私はぼんやりと先生の長い睫毛が美しく瞬くのをただ見つめていた。



 やがて先生が口を開く。



「やっぱ、なんか夢があるとさ、人って頑張れたり、気持ちが救われたりすると思うんだよ、俺は」



 先生は私の隣に来て、私と同じように石垣から下に脚を投げ出して座った。



「だから俺、南条にも何か



『これは好きだなぁ』とか



『やってみたいなぁ』とか



思えることがあって欲しいと思うんだ」



 先生が優しい笑みを浮かべて私を見る。



「だからさ、俺、」



 言葉を切った先生の美しい瞳に、真剣さが宿る。




「それを南条と一緒に探したいと思う」




「!!」



 先生の言葉は優しく手を差し伸べるようであり、でも決して逃がさないような強さがあった。



(私と?一緒に?)



 先生が一緒なら何でも出来そうな気がする。



 でも…



 そんな甘い思いを簡単には信じられないくらい私は既に傷付いていた。どうせ力で抑え込まれてしまうんだ…



「…そんなの見付けても、うち、親が認めないから。」


「うん。確かに10代の南条が何かやりたいと思ったら親御さんの許可がいるよな。


 でもさ、本当に好きなことのためだったら何もしないで最初から諦めないでしょ?」



 先生が少し顔を寄せ、私の顔を覗き込む。

 先生の透き通るように輝く瞳に私が映る。



「例えば、まずご両親を説得してみようとか、条件を出してもらってそれをクリアしようと頑張る、とか、何かするじゃない。


 まずね、そのくらい頑張ってでも手に入れたい大切なことを見付けるんだ」



 先生の瞳も声も優しく美しいのに、それは熱意に満ち満ちていた。



「南条がそうまでしてでもやりたいことを見付けたのに、ご両親がどうしても認めてくれない、もしそういう時は、」



 優しかった先生の表情が一瞬きゅっと険しくなる。


 それからもう一度柔らかい笑みを湛えて続けた。



「俺、一緒に話しに行ってやるよ」



 大きな欅の葉陰からキラキラと木漏れ日が落ち、先生の顔に髪にと降り注ぐ。


 陽光と先生の優しい笑顔が眩しい。



「だからまず一緒に探そう?


 そんな風にやりたくないことから逃げるために無気力になって生きてる、その時間が『お前には勿体ない』よ」


「…私でも…見付かるのかな?」


「私でも、じゃない。南条だから見付かるんだ」



 先生はきっぱり言い切って、私の頭に掌を優しく乗せた。



 先生の言葉ひとつひとつが胸に染みる。



 私でも見付かるのかな?



 半信半疑。



 でも、今は、今は先生を信じてみたいと思った。



 そして私だから見付かると、私を信じてくれた先生に応えたいと思った。



「どうしたら…見付かるかな?私、何からやったらいいんだろ?」


「ゆっくりでいいんだよ。考える時間も価値があるから。


 無気力でやり過ごす時間より何倍も尊い時間だから」



 そう言って先生は微笑む。


 心に染み込んでくるような微笑みで。



「南条のために力になりたい。俺に協力させてくれる?」



(私の、ために…?)



 思わず私の瞳に熱いものが溢れそうになる。


 だって、今まで誰も私に言ったことのない言葉を、今一番愛おしい人が言ってくれるのだから…



 慌てて頭上を見上げると青々とした葉の向こうに夏の太陽が煌めき、私に降り注ぐ。


 それが瞳に滲んで視界が真っ白な光で満ちた。



「眩し…」



 眼を閉じた拍子に涙のひとしずくがキラリと零れて落ちる。



「南条…?」



 続けて落ちそうな涙に耐える私に先生がゆっくりと手を伸ばす。

 そして触れるか触れないかくらいの幽かな手触りで、指の背で私の頬を拭った。


 その瞬間、耐えていた私の涙が堰を切ったように溢れだす。



「ごめん」



 先生が言う。



 私は涙を散らしてかぶりを振る。



 先生のせいじゃないもの…



 そして涙で声にならない声で、まとまらない言葉で先生に伝えようとする。



「今まで誰も、私の夢なんて、考えてくれたことなかったの。



 私…自身でさえも」



 更に涙は溢れ、止まらなくなる。



 諦めて流されて生きればいいと思った。


 嫌になったら生きることをも捨てればいいと思った。



 でも先生は唯一そんな私にも光があることを教えてくれた。



 先生が私の肩に手を回す。


 掌の温度が制服越しに伝わってくる。


 熱い、でも、心地好い。


 その熱で氷が溶け出したかのように、私は押し込められていた感情が溢れ、一人では抱えきれなくなった。



「先生…」



 私は先生の胸の中に崩れ落ちた。



 先生は嗚咽する私の背に手を回し、優しく抱き締めてくれる。



 思いのほか広く、熱く、力強い胸の中に包み込まれる感覚に、今までに感じたこともない大きな安息を感じる。



 このまま時の流れをも塞き止めて、包まれていたい。



 光を探す勇気を充足出来るまで─




 ただ夏の昼下がりの熱い風だけが私たちを撫でていった。



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