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1月~夢のあとさき2


「はぁぁぁ…」


(弱いな、私…)


 自己嫌悪に溜め息が出る。



 分かってる。

 もっと近くで逢いたい、とか、その瞳に映りたい、とか、思っちゃいけない。



 分かってるのだけど…



「……」



 職員室のドアの前に立つ。



(職員室に用事があるものは、仕方ないよね…?)



 いや、今無理矢理用事作ったけど…


 私はもう一度溜め息を吐く。



 キュッ…


 不意に後ろで靴が鳴る音がして振り返った。


 ちょうど授業から戻ってきたらしいジャージ姿の仁科先生だった。



「お、失礼。…って、えっ!?南条?」


 仁科先生は私の顔を見ると何かひどく驚いたような顔をした。



「ど、どうした、何か用か?」


「えっと、あの、村田先生に古文聞きに…」


 予め用意してきた小道具の問題集を眼の前に掲げて見せる。



「あぁ…村田先生ね。入れよ」


「…失礼します」



 職員室の先生の席は入口正面の奥にあるのを知ってる。


 前を行く仁科先生の大きな背中の陰から先生の席を覗き見た。



(あ、先生いない…)


 なんだ…折角用事作ってきたのに残念…



 小さく溜め息を吐くと、聞き付けたように仁科先生が振り返る。


 見上げると、仁科先生は眉間に皺を寄せて難しい顔をして私を見下ろしていた。



「?」


「…や、なんでもない」



 仁科先生は小さくそう言うと、職員室の奥に行ってしまった。



 それから私は村田に急拵えの古文の質問に行く。


「一応国語も勉強してるようだな」


と、村田はにやりとして私を迎えた。



(あ、嫌味言われた…)


 確かに英語ばっかり力入れてたけど…



『風すごく吹き出でたる夕暮れに、前栽見たもうとて、脇息に寄りいたまえるを、院渡りて見たてまつりたまいて…』


「御法か。源氏物語みたいな大作でも入試に出る箇所というのは大体限られてくるからな、後半、この辺から宇治十帖はやっといて損はない」


「はい」



 御法─紫の上が亡くなる場面。



(紫の上かぁ…)


 光源氏が生涯最も愛した女性。



(好きな人に愛されるのは…幸せだよね)



 私も好きな人に愛されていたい。


 いや、いっそ紫の上みたいに、好きな人に愛されたまま、命尽きてしまえたら良かったのに─


           *


「南条!」



 職員室を出て教室に戻る途中のエントランスホールで、後ろから仁科先生に呼び止められた。



(なんだろう?)


 仁科先生に呼ばれる覚えなんてまるでないのだけど。



 足を止めると、仁科先生は辺りを憚るように見回す。既に授業の始まっているホールには誰もいない。それを確認すると仁科先生は声を潜めて話し出した。



「『アイツ』から何も聞いてないんだろう?」


「!」



『アイツ』が誰かなんて訊かなくても分かった。

 先生と仁科先生は仲が良いから何か聞いてるんだ、きっと。


 仁科先生の次の言葉を待ちながら、胸の拍動はドキドキと早まっていく。



「俺が出しゃばる話でもないんだけどさ、アイツ何も言わなかっただろうから誤解のないように言っとくけど、決してアイツの個人的な感情で『こんなこと』になったわけじゃないんだ。

 分かるよな?俺らには所謂『大人の事情』でやむを得ないことってのがあるって」


「!?

 もしかして…何か、あったんですか?」


「…何もない、って言ったら嘘になるな。


 ただ、お前に余計な心配掛けたくなくて敢えて何も言わなかったんだろうから、今はただ受け入れて、アイツのこと信じて待ってて貰えないだろうか?」


「先生、まさか…辞めちゃうの…?」


「いや、まだそんな話にはなってな…」


「だったら私も一緒に学校辞める!」


「っ!ちょ、待て!


 だからそれ。お前がそう言うこと言うの見越してアイツ何も言わなかったんじゃない?


 自分の気持ちを裏切ってでも守りたいもの、守りたいヤツの為に振り切ったアイツの気持ち、汲んでやって?」


「!……」



(先生…)


 仁科先生の話は本当なんだろうか?

 そうしたら先生はまだ私のこと…



(私のこと、好きでいてくれてるって…信じてもいい…?)



「アイツ、こんな時期にお前の力になってやれないのが申し訳ない、ってそれはそれは悲愴な顔して言ってたぞ。

 それこそお前に何かあったら、仕事なげうってでも駆け付ける勢いだった」


「せんせ…」



 胸がいっぱいで、リボンの上から両手を重ねて押さえ付ける。



 ねぇ先生?


 私を守るために『別れよう』って言ったの?

『私も一緒に学校辞める』なんて言い出しそうな私の性格、全部分かってて何も言わずに別れようと思ったの?


 それって…


 私のこと今も…愛してくれているの?



「逆に言うと、お前がホントにヤバい時はアイツが必ず助けに来るってことだから。安心しろ」



 にっと笑って言った仁科先生の言葉に、私はリボンの上で握り締める両手に更にぎゅうと力がこもる。



(先生…先生!)



 今は離れてしまっているけれど、でも気持ちは、気持ちだけは傍にいる。それがどんなにか私にとって心強いか。


 離れてみて余計に分かった。


 もう、貴方なしでは生きれない、って─



「…仁科先生」


「ん?」


「先生に伝えてください。

 南条はセンターの出来も凄く良くて、今本試験の追い込み頑張ってる、って」



 私は顔を上げて、仁科先生を真っ直ぐ見上げた。


 ホールの入口の欄間に嵌め込まれたカットガラスが陽の光にキラキラ輝くのを背にした仁科先生が、満面の笑みで満足げに笑う。



「御意!」



(仁科先生、ありがとう)



「ねぇ?仁科先生は私と先生のこと、いけないことと思わないの?」


「あー…」



 仁科先生は天井を見上げてちょっと考えると、ゆっくり口を開いた。



「教師と生徒の前に、人間と人間じゃん?人間と人間が出逢えば気が合ったり合わなかったり、ましてや男と女なら恋に落ちることもあるのは自然だろ?」


「!!」



 仁科先生って、産休代理だし他の先生に比べて真剣さが足りないと思ってたけど…


(ホントはなんか凄い器が大きいのかも…)



「それに俺、頑張ってるヤツ見ると無条件に応援したくなる質なわけよ。


 くぅー!いいなぁ、道ならぬ恋!燃えるね!俺もJKと恋に落ちたいーッ!!」


「……」



…うん、やっぱり教師としては真剣さが足りないよね。



 それから仁科先生は


「頑張れよ!」


と親指を立てて見せると、「あー!青春だなぁ」なんて言いながら職員室の方へ戻っていった。




 一人になったエントランスホールで、私はカットガラス越しに外を見上げ眼を細める。

 瞬く陽光は白く冷たく、まだまだ長い冬が終わらないことを冷淡に告げている。



 冬の間は先生に逢えない。


 でも、春が来たら…


 春が来たらその時は─



『南条、俺はね、春になったらお前を迎えに行くし、その後もずっと傍にいるよ』



 先生が迎えに来てくれるって、信じて待っていても良いですか?─



 稜角のプリズムを通った光が床に虹を落とす。私はそれを拾うみたいに手を伸ばす。

 虹は私の手をすり抜けて、掴もうとしてきゅっと握ったそれを七色に染めた。


 まるで白い冬が早く終わるのを願うみたいに。


        *   *   *

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