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1月~夢のあとさき1

 先生とのあの電話から1週間が経った。


 毎日していたメールはもう送ることもないし、届くこともない。

 当然声を聞くことも、顔を合わせることもない。


 それは辛くて悲しくてしょうがないことなのだけれど、私には嘆いている時間がなかった。

 こんな時でもただ淡々と受験勉強をしていつものように日々を過ごしている。



 そういう意味では自分でも驚くほど吹っ切れていた。


 泣いたのは泣きながら眠ったあの夜だけで、迎えた朝にはもういつも通り、いや、いつも以上に勉強に打ち込んだ。



 私に残されている先生との絆は、外大に行って研究をする、それを叶えることだけだったから。



 そうしたら先生とまたやり直せるかもしれない、とか、そんな甘い気持ちもそこにはなくて。

 ただ先生と一緒に過ごした時間を、先生を愛した事実を形にして遺したかった。


 その為にも今の私のすべきことは決まっていたから。


           *


♪~


 昼頃、スマホの着信音が部屋に響いた。



(あ…!)



「もしもし?」


「舞奈ちゃん?」


 夜璃子さんからの電話だった。



「夜璃子さん!もう大丈夫なんですか!?」


「あはは、ごめん。心配かけちゃったわね。

 まだ入院してるけど、もう一般の病室にいるし、手術が上手くいったからこれからは心臓のこと気にしながら生活しなくてもよくなるし大丈夫」


「ほんとですか?でも身体大事にして下さいね。私夜璃子さんと一緒に学校行きたいって思ってるんですから」


「うふふ。ありがと」



 夜璃子さんが柔らかく笑う。もう大分体調が良いみたいだ。



「それでね、電話したのは受験の時のことなんだけど」


「あっ、はい」


「私ね、このまま合併症とかもなく回復すればもうしばらくで退院できそうなんだ」


「あ、じゃあ夜璃子さんちに…」


「うん、それなんだけどね…退院しても一人で東京にいるのを両親が心配してさ。それで春休みの間だけ実家に帰ることにしたの」


「そうなんですね…」


「でも安心して。私はいないけどうち、泊まってもらっていいから」


「えっ?」


「入試の前の晩、うちに泊まって、家のものとかも自由に使ってもらって全然構わないからさ」


「いいんですか?」


「もちろん。

 それでね、家の鍵をそっちに送りたいんだけど、昴に送っとけばいいかな?」


「あ…」



 不意に先生の名前が出て戸惑う。



「ん?」


「あっ、もしできればうちに直接送って頂いてもいいですか?あの…今学校行ってないので…」


「OK。じゃ舞奈ちゃんちに送るわね」


「ありがとうございます」


「あと、乗る電車が決まったら教えてね。うちに着く頃にガスや家電の使い方、誰かに教えに行ってもらうから」


「分かりました」




 電話が切れると無意識に深い溜め息が出た。


 先生と私のことをあんなに応援してくれていた夜璃子さんを欺いてしまったようで心苦しかった。



 受験勉強に打ち込んで先生のことはなるべく気に留めないようにしていた。

 出来ることならこのまま忘れてしまいたかった。


 でも、ほんの些細な契機で先生のことを思い出してしまう。

 その度に胸はときめき、決意はぐらついてしまうんだ。



(先生に…逢いたいなぁ)


 そんなこと、思っちゃいけないのに。



『南条』


 私を呼ぶ優しい声。鳶色の瞳。柔らかな笑顔。温かい掌。



 忘れられるわけない、離れられるわけない─



 分かりきってるのに、それでも私は受け入れた。


『別れよう』って言葉を─ 



 嫌、って言えなかった。

 どうして、って訊けなかった。



 ベッドに座り込んで呟く。



「逢いたいよ…」



 逢いたいって、思うだけなら許される?


 逢いたいって、独り言だけなら許される?


           *


 茜色の夕陽が射し込む小さな部屋。


 長テーブルの向こう、逆光の窓際にこちらに背を向けて立つ人影ひとつ。



 その後ろ姿の背格好。


 あぁ、知ってる。


 私の好きな…



「……」



 呼び掛けたくても呼べなくて、私はただ見つめる。

 パーカーの背中から伸びるすらりとした脚やさらさらと柔らかな髪の陰影を。



 ねぇ、振り向いてよ。


 逢いたいよ。



 届きそうで届かなくて、もどかしくて切なくて。



『南条』



 声が聞こえた気がしてはっとした瞬間、窓辺の彼が振り返る。



 窓から零れる夕映えが瞳に映り、鳶色の水晶みたいにきらりと光る。




「先生…!」



 自分の声に眼が覚めた。


 茜色の部屋も先生の翳もどこにもなくて、そこはただ冷えきった自分の部屋のベッドの中だった。

 毛布の中でのろのろと起き上がる。枕元の目覚まし時計は朝5時を指していた。



(夢…)



 脳裏に焼き付く夕暮れの英語準備室。

 先生の後ろ姿。振り返りざまの煌めく瞳。


 そのひとつひとつがいやに美しく、現実でないことを思い知らされる。



(なんだ…夢なんだったら声掛けておけば良かったな)



 毛布に包まりながら自嘲する。



 先生…


 夢の中で逢うのなら、ねぇ、許される?



 それなら私、このまま眠り続けていたいよ。永久とわに目覚めることなく…


           *


 黒いセーラー服に身を包んだ私は、3階の廊下の窓に頬杖を突き外を見下ろしていた。


 窓外は冷たい風が吹き荒び、髪が煽られる。



 キーンコーンカーンコーン…


 チャイムが鳴ると隣の校舎から少女たちのざわめきが聞こえ出す。

 やがて移動教室や体育の授業に行く生徒達が校舎から出て来て見下ろす階下に行き来する。



(あ…)


 胸がとくんと跳ねた。



 視線の先に、授業を終えて職員室に戻る先生が栗色の髪が風になびき、寒そうに首を竦める姿。



 ほんの数秒。隣の校舎からこちらの校舎に渡るまでの一瞬。



 この僅かな幸福のために今日は朝から学校に来てしまった。



(逢いたかったの。夢に見るほど逢いたかったの。


 今日は貴方に、逢えた…)



 ねぇ、先生?遠くから見るだけなら許される?


 先生の邪魔はしないから、ねぇ?

 遠くから想うだけなら許されるかな?


           *


 それから私は翌日も、その翌日も学校に行った。


 休み時間のその僅かな刹那、遠くから先生を見つめるために。



 もう外大の入試まで2週間で、こんなことをしている余裕なんて一秒だってないのは分かっているのに、先生を想うと矢も楯も堪らなくなって後は衝動で家を飛び出していた。



 今日も先生は教材を抱えて姿を見せる。

 校舎から出るとたちまち冬の午前の冷たい陽の光を浴びて凛と輝いて見えた。


 そして私はそれをただただ眼で追う。



(先生…)



 と、その時不意に先生が足を止めた。



「初原先生ー」


 校舎から数人の中学生が飛び出してくる。


 そのうちの一人がノートを掲げ、それを先生が指差しながら何か話している。



 先生が微笑む。優しい眼差しで。


 いつかは私に向けられたあの瞳で。



 話が終わったらしく中学生は先生にぺこりとお辞儀をすると元来た校舎に戻っていった。

 先生はこちらの校舎に歩を進める。



 久しぶりに見た。あの笑顔。

 今日はほんの少しだけ長く逢えた。



 幸福な一瞬。


 ただ先生がこの世界にいるだけで、私は生きる意味を貰える。


 それでいい。


 それだけでいい。



(それだけでいい、って、思わなきゃ…)



 先生を好きって思っていられるだけで、今の私には贅沢なんだから。


           *

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