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追憶〈Side Subaru〉~ 失われた時を求めて


「初原」



 3学期が始まり1週間ほど経った日の放課後。

 英語科の職員会議が終わって職員室の自席に戻ると、待ち構えていたようににっしゃんが呼んだ。



「何?」


「今日ちょっと付き合えよ」


「えぇ…俺じゃなくてもいいだろ。宇都宮さん誘えよ」


「お前に用がある」


「俺はないし…」



 すげなく答えたつもりなのに、にっしゃんはこちらにずいと身体を寄せる。


「なんだよ…」



 怪訝な顔をする俺の耳元ににっしゃんは声を潜めて言う。



「南条のことだ」



「!!」



(…気付かれてるよな、そりゃ)



 岸先生のコンサートの帰り、にっしゃんを置き去りに南条を追いかけたんだから気付かないわけがない。



 でも、それにしてもなんで今頃?



「仕事終わり次第いつもの店で」



 にっしゃんはそれだけ言い残して職員室から出て行った。




 『南条のことだ』



 ざわつく気持ちを抑えて手っ取り早く仕事を片付けると学校を出た。



 1月の空は瞬く間に夜を連れてくる。

 ひゅうと音を立てて宙を切る木枯らしが一層寒く、コートの襟を合わせる。



 プラットホームのいやに煌々と明るい青白い灯りに晒されて電車を待ちながら考えていた。


 あの時直ぐににっしゃんが南条との関係に気付いたことは明白で、それでも説教どころかからかいもしなかった。クリスマスイブに南条と逢うために車を借りた時でさえ、にやりと笑んだだけで何も言わず貸してくれた。

 にもかかわらず、一月も経って今更、ましてやあのにっしゃんがあんな真顔で呼びつける、その意味が分からない。



(何なわけ…?)



 上り電車が冷たい突風を連れてホームに滑り込み、前髪が風に煽られる。



(週末は南条のセンター試験だな)



 何をしていても思い出すのは君のこと。



(まぁ、にっしゃんが何て言おうが俺の気持ちは変わらないけど)



 ドアが開き数人の客が吐き出され、入れ替わりに車内に乗り込む。


『発車致します』


 電車は俺を乗せ軽快に走り出す。



(何言われたって好きな気持ちは変えようがないんだから)


なんて俺の軽々しい気持ちを代弁するみたいに。


           *


 店に着くとにっしゃんがカウンター席にいて、既にビールのジョッキを傾けていた。



「お疲れ様です」


「おー」


 コートを脱ぎ、にっしゃんの隣に腰を下ろす。



「生ビール」


「もう一つ」


「ありがとうございまーす」



 にっしゃんがカウンターに置かれたスマホを手に取る。



「何?用って」


「……」



 にっしゃんは問いに答えずスマホを操作すると、俺の前にごとりと置いた。



「……



 え…」




 何気なく覗き込んだ画面に映された写真に背筋がぞくりとした。



「…これ…どうして…」


「どうしたと思う?」


「……」



 何か答えようとして、でも何も出てこなくて、ただ唇が震える。



「生徒の間で廻ってた」


「え…」


「「その写真俺にも送って」って、お陰でJKのライン、ゲットできたけど」


「……」



 廻ってた、って…


 背中を嫌な汗が伝い、頭の中は真っ白になる。



 恐る恐る、もう一度写真を覗く。



 まるで映画のワンシーンのように上手いこと撮られた写真だった。


 澄み切った空に滲む紅梅をバックに、口付けを交わす男女の写真─



「お前、いや、『お前ら』だよな?これ」


「……」



 彼女の肩に腕を回して引き寄せる男は紛れもなく俺で、自分でも呆れるくらい節操なく物欲しげに唇を寄せる卑しい表情まで見て取れる、言い訳のしようもない代物だった。



「最近はスマホもカメラがめちゃめちゃ良くなってるからなぁ」



 にっしゃんが新しく運ばれたビールに口を付ける。 



「誰が撮ったかはもう分からんけど、学年関係なく相当廻ってるみたいだったな。

 南条の方ははっきりとは写ってないけど、それでもお前ら夏休みの一件もあったからどうも南条じゃねぇかって噂になってるらしい。いや、今時の子供のネット社会怖いわ」



 南条の方は白いマフラーと長い髪に遮られて横顔の頬骨の辺りと長い睫毛がちらりと見えるくらいで、勿論俺にはその頬と睫毛だけでだってそれが南条のものだってことは紛うことなく分かるわけだけれど、他人には見て取れない程度なのがせめてもの救いだった。


 それでも南条の名前が囁かれているとは…



「なぁ、お前らヤったの?」


「!…そういう下世話な言い方するなって…」


「あ、純潔な愛なわけね。いや、それならいいんだけど。


 いちおー教師としてここのガッコに来てる以上は犯罪を見過ごす訳にはいかんから」



(犯罪…)


 ビールを口にする気にならず、ジョッキの水滴を指で撫でる。



「俺が口出しすることじゃねぇとは思うけどさ。


 別れた方がよくね?」


「……


 そんなつもりないから」


「だけどなぁ…あんだけ出回ってるといつ上のセンセーの目に届くかわかんねーぞ?」


「その時は俺が辞めるよ」


「……


 馬鹿なの、お前」


「は?」



 ジョッキをなぞる指を止めてにっしゃんに不愉快な視線を送ると、にっしゃんは呆れたような表情で俺を見ていた。



「お前はいいよ。仕事途中で投げ出して東京帰ってまた学生気分で面白可笑しく暮らせばいいんだから。


 けど南条のこと考えてみ?


 アイツかなり優秀らしいじゃん。大学もかなり良いとこ狙ってんだろ?

 それがお前とのことが学校にバレて退学でもなってみろよ。高校卒業資格がないから受かった大学も入れないんじゃん?


 そんで逃げ帰ったお前と違ってアイツは地元で『オッサンと如何わしいことして高校退学になった娘』って後ろ指指されて生きるんだぜ?」



「……」



「ホントにアイツのこと愛してんだったら、どうしてやるのがベストなのか自ずと知れてんじゃんね」




 愛してる─


 当たり前だろ、ホントに彼女のことを愛してるよ。



 何時でも何処でも胸を張って『愛してる』と言える関係でないことは分かってた。


 それでも俺は間違いなく彼女を愛しているし、それは紛れもなく純粋なもので、例えば若い娘をたぶらかすような如何わしいものとは真逆の、決して後ろめたい気持ちを抱えて逢瀬を持たねばならないものではないと思っている。



 好きになった相手がたまたま生徒だっただけ。


 なんでそんな単純なことが許されないんだろう─




 にっしゃんが席を立つ。


「悪ぃな初原。不味い酒になっちまって」


「いや…」


「じゃ、また明日」



 にっしゃんが出て行っても俺はまだジョッキの中をぱちぱち立ち上っていく泡をぼんやり眺めて立ち上がれずにいた。



 南条の為にどうしてやるのがベストなのか─



(そんなの…


 こんな立場だからこそ傍に寄り添うのがベストに決まってんだろ…)




 始めこそ勢いよく弾けていた泡も、やがて微細な粒ばかりになって、ゆらゆらと底を離れては大気に消えていく。


 すっかり温くなった琥珀色を口に運ぶ。



 南条は、卒業を控えてこれからまさに飛び立とうとしている。

 でもそれはうたかたのように小さくて、ゆらゆらと頼りなくて。


 だから俺は彼女の傍に寄り添っていたい。そして彼女の夢を、共に叶えたい。



 否。


 ただ彼女と共に生きていたい─



 それだけで良いはずなのに、教師だとか生徒だとか、そういう枠の中に当て嵌められて、窮屈になっていく。



 教師と生徒、なんてそんなんじゃなくて、もっと違う場所で君と出逢えていたら、俺たちは幸せだったんだろうか─



(ねぇ南条。俺は君の為に何が出来る…?)



 ジョッキの中の泡沫が店の電球色のランプにきらきら反射する。



 君が飛び立った空で輝くために、今俺は何をすべきか…


 その答えはもしかしたら俺が思っている以上に単純で、辛辣なものなのかもしれない。



 俺はいやに甘く感じる温いビールを口にしながら、ただただ途方に暮れた。


        *   *   *

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