追憶〈Side Subaru〉~ 見出された時
いつからだろう。
君を愛している、と思ったのは─
あの夏の日。
不快なまでに照りつける午後の陽射しの下。
不安と孤独に涙を流す南条を抱き締めた時、それは決してまだ彼女への愛と呼べるものではなかったように思う。
南条を助けることで俺自身が救われていた。南条に頼られることで自らの存在意義を実感していた。
それは愛に似せただけの、自身のアイデンティティのために彼女を利用した偽善に過ぎなかった。
そう思う。
じゃあ…
『君を愛している』
そう思ったのは…?─
あれは2学期の始め。
昼休みの教室に悲鳴にも似たざわめきが聞こえた。
覗いた廊下の先には長いストレートの黒髪に膝上丈のスカートの生徒の後ろ姿。それが南条だと認めるのに時間はかからなかった。
その向こうには数人の生徒達が取り巻く中央に中学3年の落合。よく俺に絡んでくる生徒だ。
なんで中学のフロアに南条がいる?
しかも落合ととか、組み合わせもおかしい。
幽かに聞こえたり消えたりするふたりの声に釣られるように俺が廊下に出ると、二人を遠巻きに見ていた生徒達の何人かがこちらに気付き、振り返りながらひそひそ話すのが見えた。
素知らぬふりで窓際の柱型の陰にそっと立って耳をそばだてていると、南条は言った。
「初原先生は私たちのことを妹のように思って下さってるわ。親身になって話を聞いて下さり、時間を割いて手助けして下さり、時にはそうして包みこんで下さる。そういう方じゃない?」
(俺…?)
南条の言葉に心臓が大きく波打つ。
生徒たちが俺と南条との夏休みの一件を噂しているのは知っていた。
しかもその大半は事実ではなく、中には南条を貶める者もあった。
が、俺は抗議のひとつもしても良かったわけだが、あえて聞こえないふりをしていた。
俺が口を出すことで噂が炎上するかもしれない。
言わないことが南条のためなんだ。
と言い訳をして…
にも関わらず俺のそんな胸の内も知らず南条は俺を信頼していた。
ましてや俺が自己満足のために南条を利用していたことなんて全く疑いもせず。
(南条…)
きゅっと胸が痛む。
きっと俺とのことで落合に吹っ掛けられたんだろう。
そんな状況でも俺を信じて庇って啖呵を切った彼女。
なのに俺は彼女のために何も出来ないのか?何もしないのか?
始業のチャイムが鳴り、それを合図にするように俺は南条の方へ一歩踏み出した。
ちょうどその時。
「おい、教室に入れ!」
階段を上がってきた他のクラスの先生達が廊下に姿を現し、生徒達に声を張り上げた。
生徒達は三々五々引き揚げていき、南条も神川に手を引かれて理科室に姿を消した。
俺は南条のいなくなった廊下に立ち竦む。
夢も希望もないと言いながら、君は強く美しい。
それに対して俺は…?
君にすがって、君のためと言い訳して逃げて…
決して『仕事』とだけ思って
『南条の夢を一緒に探す』
なんて言ったわけじゃなかったはずなのに、
『南条とは何もない。大丈夫』
なんて、自分にまで言い聞かせて…
『先生可愛い~』と言われて不服を言いながら、実際はそれに甘えていたのは俺の方だったんだ。
強くありたい…
君に適うように。
君が信じてくれたように。
「初原先生?」
隣の教室に来た先生に声を掛けられ我に返る。
「あ…すみません…」
慌てて教室に戻る。
その日の授業はもう何を喋っているかもよく分からなかった。
気付くと君のことを考えていた。
いや、それ以来俺は常に君のことばかりを考えてしまうようになった。
ねぇ、南条?
君は今何を思うの?
君の眼には俺のこと、どんな風に映ってる?
答えの出ない問いを叫び続ける。
そんな日々の始まりだった。
* * *
9月も半ばを過ぎ、激しい暑さも次第に和らいできた頃。
職員室で仕事をしていると、時々南条が村田先生を訪ねて来るのを眼にするようになった。
あの夏休みの件で南条の進路指導から外されて以来、俺は未だ南条に声を掛けることはおろか、眼も合わせられずにいた。
『南条の夢を一緒に探す』
そう豪語したにもかかわらず、指導からあっさり手を退き、しかも英語準備室に逢いに来た南条を真っ向拒否してしまった。
弱くて情けない本当の俺を知ったら軽蔑されるんじゃないかと思うと怖かった。
ある放課後の、窓に夕暮れのオレンジ色が映る頃。
職員室でテストの採点をしていると、ふと正面から人の気配と視線を感じた。
顔を上げるとそれは南条だった。
南条は少し離れたドアの所に立ってこちらを見ていた。
(あ…)
久しぶりに眼が合った。
漆黒の瞳に胸が高鳴る。
けれど…
その無垢な瞳が俺を許さないんじゃないか─
同時にそんな不安も黒雲のように胸に押し寄せる。
俺はそれ以上眼を合わせていることが出来ず、再びデスクの上に視線を下ろした。
南条が職員室の奥に向かっていくのを眼の端で捕らえる。
俺の席からは振り返らなくては見えないけれど、きっと村田先生の所だ。
村田先生への羨望、嫉妬。
南条は村田先生と俺、どっちが信頼できると思ってるんだろう…
やっぱりベテランで経験値の高い村田先生だろうか。
南条は村田先生のこと…
胸の中を渦巻く重苦しくみっともない痛みに胸が焦がされる。
手元の答案用紙に採点を続けるけれど、意識は斜め後方の南条と村田先生にほぼほぼ集中してしまう。
ここに二人の声は届かない。
どんな話してるの?
進路、結局どうしたんだろう…
胸がざわつく。
不意に
「せんせ…」
南条のか細い声が聞こえた。
はっとして顔を上げると、南条が村田先生に腕を捕られて出入口に向かっているのが見えた。
ドキン、と胸が大きく鼓動する。
出来ることなら駆け寄って奪い取りたい、という衝動。
でも分かっている。
そんなこと出来る権利は俺にはないことを…
二人が職員室を出てカタンと音がしてドアが閉まった。
『南条のために力になりたい。俺に協力させてくれる?』
『俺に立ち会わせて?
南条が自分の大切なものを見付ける瞬間を』
南条…
南条!
この時俺は初めて自覚するんだ。
あぁ、俺は今、君を
愛している─
それは師弟愛なのか兄妹愛なのか、はたまた何か別の物なのかは分からない。
けど、何にせよこの想いは確かに君への『愛』だと思った。
気付くと俺は席を立って職員室を飛び出していた。
職員室から繋がる新校舎のエントランスホールに駆け込むと、幽かにホールに人の話し声がこだましているのが聞こえた。
俺は声のする方へと、階段を駆け上がる。
頭上でがらがらと引き戸を開ける音がした。
「お前の選択が親御さんや俺も含め学校に少なからず影響することを肝に命じとけ」
村田先生の声。
「村田先生!!」
俺は階段を上がり切って廊下に飛び出す。
「私が言える立場じゃないのは分かってます。でもそれは…学校に迷惑かかるとか、そんなのは南条には関係ないことです!」
「先生…!」
思いがけず現れた俺に南条が瞳を見開いて、呟くように呼んだ。
「若い人は理想や希望に溢れていて良いものだね。
でも初原先生。学校というものは理想と希望だけでは成り立たないんですよ」
村田先生は心の内が見えないような冷たい微笑みで言う。
「学校経営というものを考えたことはありますか?
学校の経営が成り立たなくなったら、これから未来ある若者たちを我々が育てることが出来なくなる。違いますか?」
「…っ!」
村田先生は正しい。
でも今は一般論の正しさなんかはどうでもよくて。
ただ南条を守りたい。
彼女が安心して夢を探せるように、ただ彼女を守りたい。
ただ、ただそれだけなんだ─
「生徒自身の将来のためにもなるわけですからなんら問題はないでしょう?」
「でもそれを南条は望んでません!」
「では南条はどうしたいんですか?」
村田先生が南条へ視線を向ける。
「それは…」
南条が俯いて口籠る。
華奢な肩を更に縮こませた様から彼女の緊張が伝わってくる。
無理しなくていいよ、南条。
お前が夢を見つけるまで俺が守るから─
村田先生の傍らで立ち竦む南条の小さく握り締められた手に自分の手を伸ばそうとした時、
「…私」
南条が呟いた。
「私…
東京の大学に行きます。
東京の外国語大学の英語学科で言語の変遷について研究します」
「!」
『ねぇ、先生。その研究の話、聞かせて?』
夏休みの英語準備室で、夜になるまで研究の話をして過ごしたあの日。
俺の隣で星が瞬くような瞳で見つめてくる南条が、今も鮮やかに蘇る。
若々しく穢れのない輝き。
希望に満ちて真っ直ぐな瞳。
「東京の外国語大学の英語学科…」
村田先生が俺に眼を向ける。
「私の母校です」
俺が答えると、先生は南条に視線を戻した。
「親御さんは了承するのか?」
「します!させてみせます!」
南条の声は凛としていた。
一分の迷いもないように。
村田先生が大きく溜め息を吐く。
そして─
「初原先生」
「…はい」
「南条の指導、頼みます」
「え…」
「岩瀬先生には俺から話しておくから。」
「は、はい!」
「村田先生!」
俺の上擦る返事に南条の声が被る。
「ここまで毒されてたら俺の手には負えねぇよ」
村田先生は溜め息混じりにそう言い残して、階段を降りて行った。
村田先生の足音が遠ざかる。
いつしか窓の外は暮れ、廊下は静けさに満たされていた。
外から忍び込む木々の枝葉が風に揺すられる音に重なって幽かに南条の呼吸が聞こえるほどに。
「ごめん、南条」
静寂の中に俺の声が響く。
「先生…」
「もう…離さないから」
「先生…!!」
南条の両手を取り、小さく震えるそれをしっかりと握り締める。
(ごめん…弱い俺で。
でももう、逃げないから。南条の傍で一緒に夢を叶えられる強い俺でいるから)
彼女の無垢な瞳に誓うようにしっかりと見つめる。
熱い光を帯びた、漆黒の瞳。
静けさがこの地球上にふたりきりになってしまったような錯覚を起こさせ、時を忘れて瞳を見交わす。
南条ありがとう…
俺の傍に帰ってきてくれて。
もう離さない。
君を、
愛してる。
君は俺の希望。
君は俺の一条の光─
窓の外には秋の始めのひやりとした風が舞う。
でも俺たちは今、間違いなくさっきまでより温かな光に照らされている。
君の未来が煌々たるものであるように。
その一翼を担えるように、俺は君への精一杯の愛で包みたいと思ったんだ─
* * *
ブブブブッ…
ポケットの震動に俺は慌ててスマホを取り出す。
ポップアップには南条からのメールが届いたことが示されていた。
待っていたレス─
直ぐにそれを開く。
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Date: 201x 12/xx 16:11
From: 南条 舞奈
〈maina-et-petitkumachan…xx@……〉
Sub: ありがとう♡
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心配かけてごめんなさい。
でも一人で大丈夫だよ!
また夜連絡します♡
-END-
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(『♡』とか…使うか…?)
可愛いメールに心臓が鷲掴みされた。
英語準備室の殺風景な天井を仰ぎ、右の手で口元を覆う。そうでもしないと口から心臓が出てきそうだ。
そう言えば初めてのメールの時もそうだった。
南条にアドレスを渡してからメールが来るまでの数日間、恥ずかしながら、いつ来るかいつ来るかと寝ても覚めてもスマホばかりが気になっていた。
4日目、待ち焦がれたメールにどんなにか胸が高鳴ったか。
(ホント俺、中学生みたいだな…)
自分の冴えないぶりに溜め息混じりに苦笑する。
それにしても…
もう一度メールの画面に眼を遣る。
『一人で大丈夫だよ!』
(南条、ホントに大丈夫かな…)
今日彼女はこれから塾に行く。
そして『彼』に会うことになる。
「別れてくるから」と言う彼女がやっぱり心配になって、
『一緒に行って謝ろうか?』
と提案した。
どんなに彼女を愛していたとしても、教師という立場でありながら教え子に手を出して、生徒と同じ年頃の少年から奪い取ったという事実は変わらない。
南条だけの問題ではなくて、俺に十二分に責任のあることだ。
けれど彼女が『大丈夫』と言う以上、それを信じて待つことしか出来ない。
メールの差出人欄を指でなぞる。
「舞奈…」
彼女の名を呟いた時、
ガラガラッ!
「!」
いきなり廊下に面した引き戸が開き、俺は手にしていたスマホを咄嗟にデスクに広げていたテキストの下に隠した。
準備室に入ってきたのは岩瀬先生だった。
「…あぁ、岩瀬先生、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
(や…ヤバかったぁ…)
メールにはばっちり南条の名前が書かれている。
もしも岩瀬先生に見られてしまうようなことがあったら、また厄介なことになる。
いや、それどころか南条の進学に差し支える事態にだってなりかねない。
(これは何か考えないとだな…)
岩瀬先生の見ていない隙にこっそりテキストの下からスマホを抜き取ると、デスクの下のバッグに放り込んだ。
* * *




