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追憶〈Side Subaru〉~ 魂の中の死2

 あれは10月のこと。



「舞奈ちゃん、捕まらなかったの?」


 カフェに戻ってきた俺に夜璃子が言った。


「…あぁ」


 溜め息混じりに応えると、俺は元の席にどかっと腰を下ろした。



 南条を夜璃子と引き合わせて、カフェで話をしたあの日。

 突然南条は「明後日模試があるから」と席を立ち、店を出ていった。



「南条ちょっと待て!送るから!!」


 慌てて後を追うも、混み合う街に既に南条の姿は見えなくなっていて、元来た道を南口まで戻ってはみたがとうとう逢うことが出来なかった。



「昴が『授業がなかったら舞奈ちゃんとお泊まりする』なんて言うからー」


「それ言ったのお前だろ!俺じゃねぇよ!」


 ただでさえささくれ立つ気持ちを夜璃子が逆撫でする。



「あはは、冗談。

 多分あの子、私達のこと勘違いしたんだと思う」


「勘違い?」


「例えば『付き合ってる』とか?」


「いや、ないない!」


「私に否定したってしょうがないでしょ。否定なら舞奈ちゃんにしなさいよ。


 端から見たら『男と女の友情』なんてあり得ないと思われてんのよ。

 ましてや『同志』とか言われても誰もピンと来ないわね」


「にしたってなぁ…」


 俺は深い溜め息を吐き頭を抱える。



「なんで帰る必要ある?」


「気ぃ遣ったんでしょ?」


「はぁ…気ぃ遣われちゃうか…」



 夜璃子と付き合ってると思って気を遣われるってことは…

 やっぱり南条は俺に対してそんな気持ちは全くない、ってこと…



 いや、分かってる。

 それが正しい関係なんだって。


 それでいい、その方がいい…



「昴、何よその顔?」


「…何でもねぇよ」


 南条のことも、もやもやと燻る気持ちが顔に出てしまってることも、更にそれを夜璃子に指摘されたことも面白くなくて、ふて腐れた物言いで返す。



「ふぅん」


「何だよ?」


「好きなんだ?あの子のこと」


「なっ…!」



(南条は生徒!南条は妹!!)


 胸の内で呪文のように繰り返す。



「なわけねぇよ!言ったろ、南条は妹だから」



 夜璃子がじっと俺を見る。


 不審に見えた?俺はなんとなく居ずまいを正す。


 夜璃子は見透かすように俺を見つめた後、ゆっくりと口を開く。



「舞奈ちゃんてどんな子なの?」


「え?」



 夜璃子の言葉に南条の澄んだ瞳が頭を過る。


『先生!』と俺を呼ぶ透き通った声とストレートの黒髪を揺らして振り返るきらきらした微笑みが胸を埋める。



「…真面目で…勉強熱心で…優秀で…」


「……」



 ぽつりぽつりと話し出す俺の言葉を夜璃子が黙って聞いている。



「それから…思慮深いところがあるって言うか…人のことよく見てたり、気に掛けたり…優しいところもあるし…

 素直で可愛いし…そのくせ強がり言って甘え下手で寂しがりやで…

 でも俺には頼ってくれたり…天然なお嬢様かと思いきや小悪魔だったり…


…そんな女の子」


「ふぅん…で?」


 一通り聞いた夜璃子が問う。


「で、好きなの?」



「だから!アイツは生徒で!妹みたいなもんで!!」


「そうやって自分をも誤魔化してんだ?」


「!」


「私アンタとどんだけ付き合ってると思う?女の子のことそんな誉め方したことないアンタがそこまで言うとか、ベタ惚れ確定でしょ」


「……」



 南条に惚れてるとか…


 自分でも気付かないようにしてきた気持ちを夜璃子は簡単に口にしてしまうと、冷めたソイラテに口を付けた。



「それにしてもまぁ…私が知ってる限りでだけど、昴が女の子に本気になってるの初めて見たわ」


「いや、そんなことは…」


「え、じゃああの頃付き合ってた子で本気で付き合ってた子一人でもいた?

 て言うかそもそも何人いたの?彼女」


「え…と…」



 そう言われて思わず指を折り、更に開いて数えてしまう。


それを呆れ顔で見ている夜璃子が続ける。



「しかもどうせ海外に住んでた頃はブロンド美女と付き合ってたんでしょうよ」


「いやさすがにブロンドは…


 ……」



 否定しかけて言い淀む俺に夜璃子は


「昴、チャラ過ぎ」


と言い放った。



「面目ない…」


 なんで俺、夜璃子に謝ってるんだろう…?



「でもなぁ!俺だって別にいい加減な気持ちで付き合ってたわけじゃない」



 そう。


 一度だっていい加減な気持ちで付き合ってたわけじゃない。


 俺にはそれまで特別な感情を抱くような女の子がいたことがなかった。だから、ただ単純に俺を好きだと言ってくれる女の子に応えてあげたいと思った。

 それで俺もその子を好きになれればお互いにとってベストだと思った。

 俺はその時その時の彼女に尽くしてきたつもりだし、本気で好きになろうと努力してきたつもりだった。


 けど。

 それはどれも実を結ばなかった、というだけで。



 しかし結果として、片手に収まらない数の恋愛をしてきたつもりだったけれど、今となってはそもそもそれらは『恋愛』だったと言えるかどうかさえも疑わしい。


 だって俺は今まで一度たりとも女の子に恋愛感情を感じたことがなかったんだから。




 だけど南条は─


 南条はその誰とも違った。



 夜璃子の言うようにそれは『初恋』なんだろう。


 彼女を想うと今までに感じたことのない感情が込み上げる。

 それは幸福でありながらどこか苦く切なく、甘く胸を締め付ける、言い得ぬ感情。

 君に触れたい、ともすれば抱き締めたい、という孤独で身勝手で、それでいて心地好い感情。


 きっとこれが『愛おしさ』なんだろう、と俺は彼女と出逢って初めて知った。




 それでも、彼女と俺が『教師と生徒』である限りそれは許されぬ想いなのはよく分かっている。



 自分で自分を騙し、誤魔化してきた想いだった。


 決して彼女には言えない、隠し通そうと思った想いだった。



 それでも想いを振り切って彼女から離れることが出来なくて、常に理性という防波堤を高く高く築いて、そうまでしても彼女の傍にいたかった─




「その代替えが『妹』ってことね」



 そう。妹という名目ならやましいことなくこれからもずっと傍にいられるから…



「まぁね、大切な同志が折角就職したのに一年足らずでクビになっちゃ困るしね。そういう風に自分を誤魔化すのもアリかもしれないわねぇ」



 自分から誰かを好きになったこと、誰かを欲しいと思ったことはただの一度もなかった。


 まして、こんなにも狂おしいほど。



 自分の、自分だけのものにしてしまいたい。


 誰にも渡したくない。


 出来ることなら宝石箱に入れて鍵を掛け、俺だけの場所にしまっておきたい。


 そんな欲望さえ過ることがある。


 もちろん純真な彼女にそんなこと出来るわけもないけど。



「あなた達、教師と生徒として出逢わなければ良かったのにね。そしたら昴も舞奈ちゃんも倖せだったのに」


「……


 いや…そんなことないよ」


「なんで?」


「南条は俺のことなんて、教師としてしか見えてないから」


「……」



 夜璃子は少し首を傾げて俺を見遣り、


「…ふぅん」


と何か困ったように薄く笑った。



「これからどうするの?」


「どうもこうも…教師として見守ることしか出来ないからな、俺は」


「…そうね。でも…昴、それで良いの?」


「…良いとか良くないとかじゃないだろ」


「優等生過ぎて悔しいわね」


「どういう意味だよ」


「例えば…ねぇ、見守るしか出来なくても、でも少しでもあの子の心の中に昴のこと焼き付けるとか、してもいいんじゃない?

 あの子が卒業する時には『ただの妹』でいたくないんでしょ」


「……」



 俺のことだけ見てて欲しい、なんて、そんなことは言えないけど…


 でもせめて、教師としてだけじゃなくて、俺のこと少しでも男として見て欲しい。



『好きだ』なんて、とても言えないけど…


 でも、俺の気持ちに気付いて欲しい─



 そんなことを思ってしまうのは、エゴイズムじゃないのかな…



「教師だからって好きなものを好きだと思っちゃいけない、ってことないでしょ?誰も心の中に想うことを咎めることは出来ないわよ。

 そしてそれを表現することは許されなくても、溢れ出てしまう想いは止められないもの」


「…うん」



 夜璃子に指摘されたのは癪に触るけれど、今日は夜璃子の言葉が酷く心に染みて…



 でも。


 夜璃子の言葉に甘えて、溢れる想いをそのままに、あわよくばその想いが南条に伝わってしまえば…


 ともすると、逆に自分の立場を利用しても南条を振り向かせようすることも出来る、なんて…



 ぼんやりとそんな邪なことが過ってしまう、最低な俺もそこには確実に存在していたんだと思う。


       *   *   *



『今日放課後、準備室に来るように』



 夜璃子に預かった手紙の裏にこっそり貼った付箋。



 そんな言葉で君を呼び出し、茜色に染まる準備室で君の腕を取り、耳元に囁く。


 君が照れるのを分かっていて敢えて背中越しに勉強を教えたり、意味深な台詞を口にしてみたり。



 夜璃子が『初恋』と言うのも頷ける。


 俺から女の子にアプローチを掛けるという経験は実は初めてで。


 それも歳下の、しかも生徒。


 どうしたら君に気付いてもらえる?興味持ってもらえる?


 みっともないくらい余裕なんかなくて…



 でもそれでも。


 君と過ごす準備室の夕映えの時間はとても幸せで、何物にも代えがたいと思っていた。



 はずなのに…



 いざその想いが君に伝わったとたん怖じ気づいた。



『先生私のこと…好きですか…?』



 その問いにもっと相応しい応えがあったはずなのに、俺の応えは…



『当たり前だろ。教え子好きじゃない教師とかダメでしょ?』─



 いっそのこと初めから真っ直ぐな気持ちで君に向き合っていれば良かったんだ。


 そうしたら君を他の誰かに奪われなくて済んだかもしれなかったのだから。



(何やってんの、俺…)



 おずおずと空を仰ぎ見る。


 すっかり葉の落ちた欅の枝々の隙間から冬の月が冷ややかに俺を見下ろすのが見えた。


       *   *   *

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