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12月~「先生私のこと、好きですか…?」2


「せーんせ」


 英語準備室のドアから顔を出す。



「おう」


 先生が甘い笑顔で応えてくれる。



 当たり前のように準備室に入り、いつもの席に座る。



「ちょっと待って。ここだけ終わらすから」


 パソコンに向かって後ろを向いたまま先生は言う。


 先生の栗色の髪に照明が映り込んで艶々しているのを頬杖を突いて見つめていた。



『止めとけよ、お前のこと好きだって言えない奴なんて』


 清瀬くんの言葉が頭の片隅を掠める。



(…無理だよ)



「お待たせ。で、今日はどこだ?」


「あのね、これ。今日は赤本」


 取り出したのは一流私大の赤本。



「なんでこんな難しいとこのやってんの?」


「う…うん…」


 だって難しい方がいっぱい先生との時間を取れるもん…



「まぁいっか」


 先生は隣に座っていつものように丁寧にその難問を教えてくれる。



 穏やかな時間。

 先生の温もりを直ぐ近くに感じられる、大好きな時間。



でも─



 不意に清瀬くんの言葉が脳裏に閃き、心に陰を落とす。

 その陰は暗雲のように幸せな気持ちを少しずつ覆い尽くしてゆく。



『好きな奴のこと、忘れさせてやる』



 忘れなきゃいけないの?

 そんなこと、ないはず…

 ないよね…?


 先生。

 先生私のこと…



「ここを読めばcompletlyもallも違うのが分かるから、消去法で答えはAでしょ。

 後はない?」


「先生…」


「ん?」



 この質問は訊いても良いもの?

 でも、もう胸が苦しくて我慢できないよ…




「先生私のこと…



 好きですか…?」



 ずっと胸の内に抑え込んできた問いが唇から零れ落ちる。



「えっ?」



 赤本から顔を上げて先生を見つめる。

 先生もまた私を見つめている。


 先生の大きな瞳は更に大きく見開かれて、私の問いが先生を酷く驚かせたのが分かる。



 見えない糸のように視線が絡み合う。


 この糸を辿って、その瞳の奥にある先生の本当の気持ちが掴めたらいいのに…



『先生私のこと…


 好きですか…?』



 占いの応えを探して水晶玉を覗くように、私は先生の鳶色の瞳を覗き込む。


 でもそこにその応えはなくて、ただ私が映るだけ…




 時計の針だけが準備室に静かに響く。


 静かに見つめ合う時間がどれだけ続いたろう。

 先生が瞳を伏せた。




「当たり前だろ。



 教え子好きじゃない教師とかダメでしょ?」




「あ…」



 あぁ…


 そうだよね…。



 先生と私は─



「それに南条は妹なんでしょ?」



 先生は微笑む。

 優しい笑顔で、ふわりと。




「…そっか。



 良かった」




 だから私も精一杯の笑顔で微笑む。



「今日はもう終わり。帰るね」


「あ…あぁ」



 私は赤本とペンケースをぞんざいにバッグに放り込むと席を立った。



「さよなら」


 ドアに手を掛けると先生が背中に声を掛けた。



「南条、またいつでも来いよ」



 私は振り向いて小さく微笑む。



 廊下に出てドアを閉めると、景色が滲んで歪んだ。

 その場に崩れ落ちたくなる気持ちに鞭打って昇降口に向かう。



 分かってたことじゃない。


 先生が私を好きになってくれるなんて、所詮私の夢で。


 先生は先生、私は生徒─



 先生は私のこと妹と言ってくれるけど、でもそこまでのことで。


 それで良かったはずなのに、何か思い上がってたのかな…

 欲張りになり過ぎてたのかな…



 今はただ、胸が痛苦しい。



(泣かない!泣いたってしょうがない!分かってたことじゃない!)



 駅までの道を走る。


 そしてホームを端まで駆け、来た電車の一番先頭の車両に乗り込んだ。



 人の少ない車両の空いたボックス席に一人座ると、次々と涙が溢れ出した。

 それが制服のスカートを濡らしていく。


 手の甲で涙を拭う。



 窓の外では既に暗くなりつつある空に冬の夕陽の紅い光輪だけが残りキラキラと揺れていた。


       *   *   *



「一番線、ドアが閉まります」



 自宅の最寄り駅で電車を降り、ホームをのろのろと歩く。


 お母さん、帰ってないといいな…


 泣いた顔は見られたくない。

 階段を降りる足取りも自然と重くなる。



 どこかで時間潰して帰ろうか…


 そんなことを考えながら俯いたまま改札を抜ける。



 駅舎の外に出ると、西の空だけが幽かに紫色がかるだけで頭上はすっかり黒々と暮れていた。

 その夜空を冷たい北風がひゅうと舞う。



「舞奈」



 その時、不意に誰かが私を呼んだ。



 反射的に声の方へ顔を向けると、真正面にガードレールに寄り掛かる清瀬くんの姿が見えた。



「…え、なんで?」



 思わず足が止まる。


 すると清瀬くんの方がこちらに歩んできた。



「遅っせーよ。ここ、意外と寒いんだけど」



 言葉とは裏腹に清瀬くんの顔は笑っていた。



「なんで…?」


「どーせ駅一緒だし、帰る方も一緒じゃん」


「待って…」


「たよ」


「……!」



 清瀬くんが私の顔を覗き込む。



「あれ?」



 あ…


 泣き顔が、ばれた…?



 私は恥ずかしくて慌てて下を向く。



 何か言われるかな…


 そう思った時、



「寄り道して帰っか」


 清瀬くんは言った。



 それから清瀬くんと私は昨日と同じようにふたり隣り合って歩いた。


 家に向かうのとは別の道を選ぶ。

 言葉もなくのろのろ歩く私に清瀬くんは合わせてくれる。

 家の近所の見慣れた街並み。



「ちょっと待って」


 20分ほど歩き、国道に出る少し手前のドラッグストアを過ぎたところで清瀬くんが言った。


 それから煌々と明るい自動販売機に向かい、


「何がいい?」


と私を振り返る。



「え、いいよ私は」


「別にこんなんでお前の気ぃ惹こうとか思ってないから遠慮すんな」


「そんな意味じゃ…!」


「何でもいい?」


「…うん」



 清瀬くんはしばらく自販機を眺めてから、あったかいロイヤルミルクティーの缶を買って手渡してくれた。


 清瀬くんはスポーツドリンクを買い、


「こっち」


と私を促して国道の方へ歩く。



 国道の角を曲がると直ぐにバス停があり、清瀬くんはそのベンチに座った。


 清瀬くんが自分の隣を叩く。

 私は清瀬くんの隣に腰を下ろした。



 清瀬くんがスポーツドリンクの蓋をカチッと開けて煽る。


 私は瞳を閉じてミルクティーの缶を瞼に当てた。泣いて火照った瞼に温かさが心地よい。



「何があったか知らないけどさ、」



 清瀬くんの声に眼を開ける。


 ひっきりなしに国道を走る車のライトを見遣りながら清瀬くんは言う。



「泣きたい時は泣けばいいよ」


「!」


「俺邪魔?」


「…ううん」


「じゃあ傍にいるから。

 大丈夫。舞奈は間違ってねぇよ」


 清瀬くんが薄く微笑む。



 優しい微笑み。


 先生とはまた違った…



『当たり前だろ。


 教え子好きじゃない教師とかダメでしょ?』



『良かった』



 一度は止まった涙がまた込み上げる。



 私がどんなに好きでも、先生にとって私は生徒で。


 それでいいと思っていたはずなのに、現実に突き付けられるとそれはやっぱり切なく苦しくて。



 一筋の涙が頬を伝うと、そこからは次から次からと止めどなく流れ落ちてゆく。



「…ふっ…う…」



 清瀬くんは何も言わず指の背で私の頬を撫でてくれた。


 その僅かな温もりが今の私にはあまりにも優し過ぎて。


 優しさに甘えて私は胸の内に湧き出す言葉をそのまま零す。



「…先生は」


「ん?…あぁ」


「私のこと、好き、だって…」


「…へぇ」


「生徒、だから…」


「え?」


「生徒のこと、好きじゃない教師は…ダメだ…て」


「……」



 そこまで言うとぽろぽろと溢れる涙に言葉が続かなくなる。


 こんなこと言われても清瀬くんだって困ることは分かってる。


 けれど抑え切れず涙はどんどん溢れてくる。



「泣けよ」


 清瀬くんが私の肩に腕を回す。


「我慢しても苦しいだけだろ?」


「清瀬、くん…」



 清瀬くんの腕の重みと体温が、氷塊を溶かしていくように胸につかえる何かを溶かし、そしてそれは涙となって滔々と流れていく。



「…ごめん、ね。こんな風に、清瀬くんに甘えるの、間違ってるの分かってる…」


「だから止めとけって言ったのに」


「……」


「なぁ、舞奈」


「…うん」


「付け込んでるの分かってるけどさ…


 俺と付き合ってよ」



「……」


「一週間、いや、傷が癒えるまででいいから。俺のところに来いよ」



 気付いたら清瀬くんの傍は温かくて、どこか居心地が良くて。


 でもこんな時にだけ頼ってしまっているようで申し訳なく思う。



「お前の今考えてること、何となく分かる。けど、全然いいから。

 お前に頼られるなら嬉しいし。利用してよ、全然」


「!!」


「だから、な?俺と付き合う?」


「……」


「舞奈、好きでいても苦しいだけなの分かってるんだろ?」


「…うん」


「じゃ分かったら返事。俺と付き合う?」


「…はい」



 清瀬くんが腕に力をこめて私を抱き寄せた。


 私は清瀬くんの胸に頬を寄せる。



 多分もう恋はしない。


 でも先生にさよならとは思わない。


 だって今も、これからも先生は先生。先生にとって私は生徒…



「ごめんね…」


「なんで?俺、チャンス貰えたと思ってっし。舞奈がソイツのこと忘れるまでに振り向かせるから覚悟してて」



 清瀬くんがにやりと笑う。



 今はその笑顔に救われる。

 今はその笑顔に甘えさせて…



 私は涙が止まらないまま、凄く無理して多分きっと凄く不細工な笑顔を返した。


       *   *   *

 翌日の放課後。


 私は英語準備室に向かっている。



 本当は今日は先生に会いたくない─



 けどこんな日に限って朝一先生から


『受験の件で聞きたいことがあるから放課後準備室に来て』


とメールがあり、私は今、重い足取りで準備室へと向かっている。



 いつものドアが今日は砦の門扉のように思える。

 私はドアの前で一呼吸してノックをし、重々しく聳えるそれを開く。



「…失礼します」


「あぁ、南条。待ってたよ」



 今日は先生の笑顔が眩し過ぎて見ていられなくて、視線をさっと床に落とした。



「ま、座って」


 先生に促され、のろのろといつもの席に座る。



「夜璃子から電話が来て、願書の受付始まるけど書面とネットどっちで出願するんだ、って」


「あ、それ私もメール頂きました。ネットにするから願書送って頂かなくても大丈夫、って返したけど…」


「あれ?行き違いになったかな?」


 先生は首を傾げ、腕を組む。



「あの…それだけなら今日はもう…」


「ん?今日は訊いてくとこないの?」


「…うん」


「…そっか。


 あ。じゃあ、俺も帰ろうかな」


「え…」


「一緒に帰ろう?」



 先生が机に手を突いてずいと私を覗き込む。



(なんでよりによって今日…)



 一昨日までなら嬉しかったことが、今日は世界が一変している。



 傍にいるのが、辛い─



 生徒としてここに居なければならないのに、今もやっぱり先生が好きで、好きで。


 それじゃ駄目だと思えば思うほど、今にも『先生が好き!』と叫びそうな衝動に駆られてしまう。



 もしも今私がここで涙を流したら、またいつかの夏の日のように熱い胸に私を抱き締めてくれるのだろうか…


 ふとそんな狡い想像をしてしまう自分が憎らしくて、ますます私を苦しめる。



(清瀬くん…)



 私はなるべく清瀬くんのことを考える。


 にやりといたずらっ子のように笑う笑顔、腕の中の温もり…



 でも…



『利用してよ、全然』



 ふと浮かぶ彼の言葉に、自分の狡さが紛いのないものであることが裏付けられるようで、さらに苦しくなる。




「あのさ、実は帰りにちょっと話したいことあるんだ」


 先生は言いながらてきぱきと身の回りのものを片付けていく。



 好きなのに、傍にいたいのに、こんなに辛い─



 もう何も考えたくない…



 私はもう清瀬くんのことも考えるのを止めた。




「準備室の鍵返してくるから正門で待ってて」


 職員室に向かう先生とエントランスで別れる。



 正門までの道は人気がなく、ただ落ち葉が舞っているばかり。

 葉を振るった木立にひゅうと寂しげな音をたてて風が抜ける。



「寒…」


 襟元のピンクのギンガムチェックのマフラーを押さえる。



 一緒に帰ろう、って…


 無意識に胸が高鳴る。けど…


 でもそんな気持ちは本当は許されないの、分かってるから。



(辛いんだよ、凄く…

 先生にはどうせ分かんないだろうけど)



 正門を潜り、門柱の脇で足を止める。


 俯くと、早々と点いた街灯の灯りで足元に落ちる影が眼に入る。



「舞奈」



「!?」



 不意に名前を呼んだその声に聞き覚えがあった。


 いや、聞き覚えどころじゃない。



「清瀬くん!」


「ったく。遅ぇよ」


「こっ!こんなとこで何してんのっ!?」


「お前のこと待ってんの。だってほら、俺時間ねぇし」


「時間?」


「お前の心の傷が癒えるまでに落とすって言ったろ?

 元気になったんでもう結構です、って言われる前に攻めて攻めて攻め落とさないと、な」


「!」



 清瀬くんの紅茶色の髪が北風になびき、いたずらっぽい瞳がきらりと光る。



「行こ、舞奈」



 清瀬くんが私の右手を取った瞬間、



「南条」



正門から先生が姿を現した。



「先生…」



 どきりと心臓が嫌な音を立てる。


 咄嗟に退こうとした右手を清瀬くんが強く握り締めた。


 そして…



「あ、舞奈の先生っすか?

 いつも『彼女』がお世話になってまーす」



 清瀬くんが人懐っこい笑顔を先生に向けた。



「清瀬くんっ!」



 繋がれた手を離そうとすると、逆に引き寄せられ、身体を清瀬くんの胸に収められる。



(あ!)



 先生はどう思ったろうか。


 反応が気になる。


 でも…


 怖くて先生の方を振り向くことが出来なかった。



「えっと…あぁ…」



 先生の声。

 そこに先生の気持ちは何も読み取れない。



「南条、俺明日使うプリント、コピーしてかなきゃならなかったから、先帰って」


「あ…はい」


「じゃ、また明日」



 先生は清瀬くんに会釈して踵を返す。



(先生…)



 胸が痛い。


 先生は私のこと、そして清瀬くんのこと、どう思ったろう…



「舞奈。帰ろう」



 先生の姿が見えなくなった門から眼を離せずにいると清瀬くんが手を引いた。



「あ…うん…」




 そうだ、先生は私のことも清瀬くんのことも何とも思ってないんだ。



 私はもう先生を追いかけてちゃいけない。


 今私が見つめるべきなのは眼の前にいる清瀬くんなんだ。



「…清瀬くん」


「何?」



 私は繋がれた手に力をこめる。



「こうしてて…いい?」


「いいよ」



 清瀬くんが私の手を握り返す。



『大丈夫。舞奈は間違ってねぇよ』



 清瀬くん、私は本当に間違ってないのかな?


 私は凄く自分本意で狡い人間だと思うよ?


 先生のこと忘れられないのに、今もこんなに心は先生を追い掛けているのに、それなのに貴方に甘えて…



「舞奈は間違ってねぇよ」



 まるで私の心を読んだかのように清瀬くんが言う。


 それに私も返す。



「…うん」



       *   *   *

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