追憶〈Side Subaru〉~ 花咲く乙女たちの蔭に3
合宿が終わると、またいつもの日常が還ってくる。
と言っても生徒達は夏休み。
俺はゆるゆると新任研修や2学期に向けての授業の準備をして毎日を過ごす。
(12時廻ったな)
英語準備室で仕事をしていた俺は、昼食を摂りに職員室に戻ることにした。
窓から見えるグラウンドは熱風に煽られて砂埃が立つ。
「暑そ…」
そう思いながらも俺は何となく校舎内の廊下を抜けず、準備室脇の非常階段から外に出て職員室に向かうルートを選んだ。
案の定外は人をも溶かしそうな熱気。一瞬にして汗が吹き出す。砂埃の上に更に陽炎が立つ。
あまりの暑さに加え、昼休みということも手伝ってグラウンドに人影はない。
職員室のある校舎へはグラウンドの周りを半周する形の通路を通って行く。
その半ばにはグラウンドに降りる階段があり、すく傍に欅の大木が立ち、砂漠の中の唯一のオアシスのように瑞々しく葉陰を落としている。
(あ…)
階段の脇の石垣の木陰に制服姿の生徒がひとり座っているのに俺は気付いた。
石垣から下に足を投げ出してぷらぷらさせている。
長い髪が邪魔をして後ろからでは顔ははっきりとは分からない。
けど。
(南条…かな?)
と俺は思った。
そう、思ったんだ。
思いはしたけれど、俺は声を掛けることもなくその後ろを通り過ぎた。
次の日の昼休みも俺は外回りで職員室に向かってみた。
はたして今日もそこに女生徒はいた。
女生徒はペットボトルのミルクティーを飲みながら、暑そうに肩に掛かった髪を後ろに掻き流す。
その横顔に俺の胸が跳ね上がる。
(南条…)
女生徒はやはり南条だった。
南条は俺に気付かずミルクティーを煽る。
一瞬声を掛けようか迷って、結局止めた。
それから毎日、俺は石垣の木陰に南条がいるのを確認するのが日課になった。
雨の日や、何か用事でもあって学校に来ていなかったりするのか、稀にいない日もあるもののほぼほぼ毎日南条は同じ時間、同じ場所でひとりで昼休みを過ごしていた。
毎日見ているうちに、どうやら南条はチョコパンとミルクティーがお気に入りらしいことまで分かっていた。
それでも俺は南条に話し掛けることはなかった。
君のその細い腕に守られたいと思う弱い俺を知ったら君はどう思うだろう?─
そう思うと、怖くて必要以上に関わることに躊躇してしまっていた。
ある日。
この日もいつものように激しく熱い日だった。
そして俺もまたいつものように南条の後ろ姿を眼の端に見ながら職員室に向かっていた。
(今日もいるな)
今日もどうせチョコパンとミルクティーなんだろうな…
そんなことを思いつつ南条の後ろを通り過ぎようとした時、南条が両手で顔を覆い項垂れた。
膝に肘を突き、がくりと頭を垂れる。
(え…熱中症か?)
「何してんだ、そんなとこで?」
思った瞬間にはもう声を掛けていた。
南条が振り向く。
「先生は何してんですか?」
(体調悪いわけじゃなさそうだな)
南条のきりりとした口調と視線に安堵する。
「俺?俺は仕事だよ。お前らは夏休みでも俺は毎日学校来てんの」
「私も夏休みなんてありません。受験生ですから。学校も毎日来てます」
「んー素晴らしいね」
他愛ない会話だった。
そして俺はその延長くらいの軽い気持ちで訊ねただけだった。
「南条はどこの大学受けるんだ?」
が、思いがけずその問いが空気を壊す。
「国大…」
「へー。優秀じゃん」
「…行く気ないけど」
「え?志望校でしょ?」
「親のね」
(え…?)
「じゃあ…南条が行きたい学校はどこ?」
「んー…ないかな?」
「ないの?」
「…うん」
更に続く南条の言葉は意外なものだった。
「国大も親の希望で受けるけど、上手いことギリギリで落ちるつもり。そのくらいのテクニックができるくらい国大の模試も点数良いし」
俺はようやく南条のあの大人びた冷めた憂いの正体が掴めた気がした。
あぁ、君は『良い子』過ぎたんだ。
期待に応えることが当たり前過ぎて、抗うことも疑問を感じることも教えられずに生きてきたんだ。
そして、誰かに頼ることさえも君は知らないままずっと耐えてきたんだね。
頼っていいよ。
誰を?
例えば…
俺…だったり…
「やっぱ、なんか夢があるとさ、人って頑張れたり、気持ちが救われたりすると思うんだよ、俺は」
俺は南条の隣に石垣の上に座る。
眼の前のグラウンドに熱風が駆けて行く。
「だから俺、南条にも何か
『これは好きだなぁ』とか
『やってみたいなぁ』とか
思えることがあって欲しいと思うんだ」
蝉時雨が煩い。
俺は少し声を張った。
「だからさ、俺…
それを南条と一緒に探したいと思う」
南条の瞳が大きく見開かれ、その中に梢から射し込んだ陽光が落ちてきらりと揺れた。
「もし南条がどんなことをしてでもやりたいと思えるような大切なものを見付けたのに、ご両親がどうしても認めてくれない。もしそういう時は、俺、一緒に話しに行ってやるよ。
だからまず一緒に探そう?
そんな風にやりたくないことから逃げるために無気力になって生きてる、その時間がお前には勿体ないよ」
南条が俺を真っ直ぐ見ていた。
夏の陽射しが宙から大地に降り注ぐように、真っ直ぐに向けられる眼。
あぁ…これだ。
若々しく穢れのない輝き。
希望に満ちて真っ直ぐな瞳。
「私でも…見付かるのかな?」
「私でも、じゃない。南条だから見つかるんだ」
南条の頭にそっと掌を乗せる。
まるで夜が深まるに連れて空に見える星の数が次第に増えていくときのように、南条の瞳に光が増してゆく。
「ゆっくりでいいんだよ。考える時間も価値があるから。
無気力でやり過ごす時間より何倍も尊い時間だから」
南条の瞳に俺が映る。
きっと、瞳の中の俺の瞳もきっと真っ直ぐに輝いていたと思う。
「南条のために力になりたい。俺に協力させてくれる?」
君の輝きを守りたい。
君の瞳が憂いで曇ることのないように俺にできることがあるならば、惜しみ無く手を差し伸べよう。
君をその淵から救いたい。
君は俺の希望。
君は俺の一条の光─
「眩し…」
そう言った南条の眼から涙の一しずくがキラリと落ちた。
「南条…?」
俺は無意識に彼女の頬へ手を伸ばしていた。
そしてそっと指の背で濡れた頬を拭う。
フラジャイルな物に触れるように、そっと、そっと…
南条の瞳から涙が溢れ出す。
溢れた涙は木漏れ陽を受けておびただしい光の欠片となって散り、彼女のスカートの上に落ちて濡らしていく。
「ごめん」
泣かせてしまったことを謝ると、南条は黙ったまま首を振った。涙の粒が振り散らされる。
南条は掠れる声でぽつぽつと言った。
「今まで誰も、私の夢なんて、考えてくれたことなかったの。
私…自身でさえも」
俺は南条の肩に手を回した。
華奢な肩。
こんな華奢な肩にどれだけのものを背負っていただろう。
南条の涙は更に溢れ、止まらなくなる。
ひとたび溢れた感情はもはや一人では抱えきれなくなっていた。
「先生…」
南条が俺の胸の中に崩れ落ちる。
俺はそれをしっかりと抱き留めた。
今日は俺が君の神であろう。
何を差し置いても君を苦しめる全てから君を守ろう。
君の吐き出した苦しみを全て俺が受け止めよう。
南条を抱き締めた胸が熱い。
この熱で君の涙が乾いたらいい。
俺は南条の背に回した腕に力を込めた。
* * *
それから俺は南条のためになればと、中学生向けの職業紹介本を買い与え、自己分析のために市営図書館に誘った。
南条を助けることは俺自身を助けることでもあった。
なぜなら南条は俺の救いだったから。
そしてまた、南条に頼られることが俺がここに存在している価値を確認できる唯一の手立てでもあった。
俺は『南条のため』と言い訳しつつ、もしかすると『俺自身のため』に南条を助けていたのかもしれない。
南条への愛のようであり、ただの馴れ合いのようでもあり、はたまた自己愛のようでもある歪んだ関係だったように思う。
ふたりで図書館に行ったあの日の白い『避暑地のお嬢さんワンピース』は、いかにも高校生の女の子がデートに着そうな雰囲気が俺には新鮮だった。
「彼氏いるの?」
と訊くと、真っ赤な顔で
「いないですよっ!」
と否定する南条は今まで何度となく彼女を見てきた中で最もキュートだった。
ワンピースは例の白檀とベルガモットの香りで、その香りは俺の中で『南条の香り』としてインプットされた。
あの香りが鼻孔をくすぐると、風に翻る白いスカートとキュートな南条の笑顔が今も蘇る─
* * *
「先生…?」
マフラーにほんのりと香る移り香にふと過去の記憶に陶酔していた俺は、背中に呼び掛けられてはっとする。
「あ…ごめん。ぼーっとしてた」
不思議そうに見つめる南条に慌てて微笑む。
「帰ろうか」
部屋の電気を消して廊下に出る。
ふたりで夕暮れの廊下を歩く時、年甲斐もなく心が躍る。
「先生、具合でも悪かった?大丈夫?」
南条が顔を覗き込む。
その綺麗な瞳にドキリとする。
(…あんまり大丈夫じゃ、ないけどな)
大丈夫じゃないと言ったら君は困るだろうか?
本当の気持ちを言ってしまったら君は困るだろうか?
だって今の俺はあの夏の日以上に君のことが─
「大丈夫。何でもないよ」
君に嘘を吐く。
君は気付いているだろうか?
どんなにか俺が君を想っているかということを。
生徒としてとか、妹としてとか、そんな枠じゃ飽きたらないくらい俺が欲張りになってしまっていることを。
そして君は言う。
『先生やっぱり私、妹でいたいな』
『兄と妹』なんて、いつか君が大人になったらそれぞれの道を生きていかねばならない関係じゃなくて。
出来ることならそれ以上…
『だって妹じゃなくて、先生と私が『先生』と『生徒』なだけだったら…
私が卒業しちゃったら先生と私を繋ぐもの何にもなくなっちゃうもん』
知ってか知らずか、でも君には『それ以上』なんて選択肢は端から存在してないんだろう。
「先生」
君は艶やかな髪をふわりと揺らして振り返る。
「塾、英語は申し込まないから、また難しいとこ先生に聞きに行くね?」
「…あぁ。いつでも」
本当の気持ちを言ってしまったら君は困るだろうか?
俺が教師である以上、君が生徒である限り、決して口に出すことの出来ない想い。
真面目な君のことだ。
口に出してしまったら、もうきっと俺に逢いには来ないだろう。
何も知らず君は無邪気に微笑む。
そして俺は何事もないように君に微笑み返した。
* * *




