追憶〈Side Subaru〉~ 花咲く乙女たちの蔭に2
あれは確か雨がぱらつく日だったから、中間試験が終わった梅雨の頃の放課後のことだった。
英語教室から準備室の扉を開けて中に入ろうとした俺は、足元の『何か』に蹴躓いた。
「うわ…」
「キャッ!」
『何か』が悲鳴を上げる。
(人?)
慌てて体制を立て直すと、辛うじてその人を踏まずに済んだが、傍に積まれたDVDの山を蹴り飛ばした。
DVDはガシャンと音を立て、バラバラに散らばる。
「あ!ごめん!」
うずくまるその人にすぐさま寄り添う。
(映研の南条さんだ)
映画研究部の高校3年生で、話したことはないが顔見知りの生徒だった。
「大丈夫だった?南条さん」
「先生、私の名前…知ってるの?」
その人─南条舞奈は甚だ驚いた顔をした。
「映研の南条さん、でしょ?怪我はない?」
「…はい」
「ごめんな、蹴飛ばしちゃって」
俺がDVDケースを拾い集めると、南条がそれを順番に並べる。
「一番上?」
棚の上段にしまおうと立ち上がって手を伸ばすと、
「先生、届きます?」
と南条が言った。
「失礼だなー。届くよ」
どんだけ小さいと思ってんの?
机の上にはまだたくさんのDVDのケースが散乱している。どうやら南条が片付けてくれていたようだ。
「片付けてくれてるの?手伝うよ」
俺が言うと、意外にも南条は
「いいです」
と応える。
「なんで?」
「だって先生、忙しいでしょ?」
「忙しいは忙しいけど、でもそれ、授業の備品でしょ?」
「けど先生新人だからやること多いんじゃない?」
もしかして、舐めてる?
「君も俺を可愛い扱いか?」
そんな俺に南条はにやりと笑って言う。
「だって先生実際可愛いもん…」
(…またそれ?)
大人げないとは思いつつも毎度のことに小さく苛立つ俺の表情を南条は見逃さなかった。
「そういう顔するから中学生からまで「カワイー!」とか言われるんです。
正直、先生自分の見た目が可愛い系なの分かってて意識してやってんじゃないの?って見えますよ?可愛い弟キャラ狙ってるようにしか見えない」
立ち上がり腕を組む南条。
俺より10cm近く小柄なのに見下ろされている気分になる。
(なんで俺ここまで言われてんの?)
無意識に眉間に皺が寄り、溜め息が出る。
そこで不意に南条が言った。
「でもホントは見た目と裏腹に頼れる男だったりするでしょ?」
(え…?)
「外国人さんに声掛けられて困ってる女子高生を黙って見過ごせない、そんな人…じゃないですか?」
視線が宙を泳ぐ。
蘇る記憶。
春の朝の駅のコンコース。
「あー…はいはい…春休みのアレ…君か。南条さんだったのか」
オーストラリア訛りに応えようと奮闘する黒髪少女に再会するとは思わなかった。
「南条さんは『いいな』と思った。」
もっと日本の子供は外国語に恐怖心を持たなくなったらいい。そう思ってきた。
逃げずに相手の言うことを理解してあげたいと思うこと。
分かんなくても一生懸命聞いてあげたいと思うこと。
そういうのが大事だと思ってきた。
南条にはそういうマインドがある。あの時俺にはそう感じた。
こういう子が、この子が、俺の生徒として再会できてよかった。
それと。
俺のことを『可愛い』呼ばわりするだけじゃなくて、
『ホントは見た目と裏腹に頼れる男』
と言われたこと。
単純だけどきっと俺はこの時、自分のやってきたことを認められたみたいで、実はちょっと嬉しかったんだ─
* * *
それから南条は部活の度に準備室に顔を出して声を掛けてくれるようになった。
俺もまた南条が英語教室で宿題なんかやっている時には気に掛けるようになった。
そんなことが1ヶ月くらい続き、期末試験を終えると学校はいよいよ夏休みを迎えた。
海外在住時代、俺はラクロスをやっていたことがあって、ラクロスはないにしろ、いずれはここでも運動部の顧問をしてみたいと思っていた。
そんな話をしていたからか、夏休み前、宇都宮先生が自身が顧問している映研の合宿に見学かたがた来てみないかと誘ってくれていた。
夏休みは日々の雑用に追われることなく、普段出来ないことを手広く勉強と思ってやってみたいと思っていたので、俺は二つ返事で参加することにした。
その合宿が夏休みの早々にあった。
合宿では俺は特にこれと言ってすることがあるわけではないが、宇都宮先生を手伝って部員の撮影に同行して危険がないよう監督するのが主だった。
いつもは中学生の授業を担当している俺が珍しくいるので、高校生達は面白がって絡んでくれた。
合宿2日目の晩。
花火大会をすると言って、夕食の後宿舎の庭に生徒達が集まった。
俺はあくまでも裏方なので、はしゃぐ彼女らを遠巻きに見ていた。
(あれ?)
皆が花火に興じる庭でひとところだけ昼のように明るんでいた。
光に釣られるように近付くと、そこにいたのは南条だった。
南条の指の先で花火の白い閃光が瞬き、目映い光に映し出された彼女はとても美しく見えた。
彼女の黒い瞳がキラキラと揺らめいている。
「綺麗だね」
声を掛けると南条が顔を上げた。
閃きを一身に浴びて瞳に光を宿して佇む彼女は本当に綺麗で、この空間が夢の中にいるようだと思った。
やがて彼女を照らす光の花は緩やかにその生を終え、花弁を振り落とす。
ほんの刹那の静寂と共に闇が訪れる。
南条が俺に訊ねる。
「先生もやる?」
「いや、今向こうで打ち上げ並べようと思ってんだ」
「私も手伝うよ」
大した手間でもないので俺は断ったが、
「二人でやるともっと早いから」
と言って南条は楽しそうに俺の先に立って庭の隅に向かって行った。
「一番派手なの最後にしてさ、打ち上げ花火、盛り上げようよ!」
なんて、ポニーテールに束ねた髪をくるんと振れさせて振り返った南条が眼をきらきらさせて提案する。
なるほど。そういう演出とかも悪くないな。
「どれが派手かとか分かんなくない?
ほら、ここに時間は書いてあるから、長めなのを後に集めて一斉に火付けたらどうかな?」
「あ、面白いかも!じゃそれやろう!」
南条と俺は打ち上げ花火をひとつひとつ手に取りながら、どんな風にしようか話しながら花火を並べた。
「先生、こっちの方がいいよ!」
蝋燭の灯りの中で南条は満面の笑みを浮かべ、俺を振り仰ぐ。
初めて逢った時より、準備室で再会した時より、今夜の南条は遥かに晴々としている。
実のところ、逢う度にいつも気になっていた。
南条は若々しい輝きを纏う半面、時々どこか大人びた冷めた憂いのようなものを感じることがあった。
再会した時の挑発的な物言いとかがそうだ。
でも今夜の彼女はいきいきとして、青春の輝きを惜しみ無く放っていた。
そして、彼女の放つ煌めきのシャワーを浴びたように、俺もまた今は自身が輝いているように感じた。
最高の演出を考えながら南条と花火を準備するのは本当に楽しかった。いつしか俺は暑ささえも忘れて作業に没頭していた。
ここ数ヶ月のうちで俺はこんなに楽しいと思えたことはなかったと思う。そのくらい久々に心から笑った。
シュー…パァン!!
南条がひとつ目の花火に火を点ける。
皆が空を見上げるのを合図に南条と俺は花火に次々と火を灯し始める。
目映い光が吹き上がり、頭上には次々と色とりどりの花が咲く。
ギャラリーの歓声。
火薬の弾ける音。
ほとばしる炎は鮮やかに辺りを映し出す。
残り数本になった時、
「熱っ!」
離れて火を点けていた南条が声を上げた。
その声にはっとする。
「大丈夫か!?」
「平気!とにかく終わらす!」
俺の呼び掛けに南条か答える。
急いで火を点け終え、南条に駆け寄ると、南条は両手を重ねてぎゅっと握りしめている。
俺は慌ててその手を取った。
「これか…」
右手の甲が赤く腫れて、火傷をしていた。
「これ、冷やした方がいい。来い」
俺は南条の手を引いて煌めく光の中をくぐり、宿舎の建物の脇にある流し場へ向かった。
「ごめんな。やっぱ南条に手伝わせなきゃ良かった…」
花火の火付け役なんか南条にさせるべきでなかった。
なんで俺はそんなことをさせてしまったんだろう…
自分に腹が立って、唇を噛む。
「ううん、私が勝手にやったから」
「それを監督するのが俺の仕事なのにな…」
情けなくて深い溜め息が出る。
遠くから僅かに生徒達の黄色い声が風に乗って聞こえるばかりの静かな宿舎の陰。ひとつきりの電球の灯りに蛾が舞っている。
蛇口を捻るとコンクリートの流し台にパチパチと飛沫が跳ねる。
「ごめんな」
俺の監督不足で南条を火傷させてしまった。
腫れた白く小さな手を見つめる。
と、突然俺の掌の中を南条の手がするりと抜けた。
「!」
逃れた南条の手が俺の左腕を掴む。
「南条?」
背伸びした南条が俺の横顔に囁く。
「そんなこと気にしないで。不可抗力なんてよくあることじゃん。気にしてたらこの仕事やってけないよ?」
「!!」
咄嗟に南条に眼を向ける。
至近距離で交わる視線。
切れ長の潤む瞳。
きりりと大人びた彼女の表情。
元より綺麗な彼女の容貌が、いっそう大人の女性の美しさを醸して見えた。
「南条…?」
彼女の名を口にする声が掠れる。
「ね?」
ふわりと微笑んで俺から離れる南条を、俺は無意識にその左肩を掴んで引き寄せていた。
『そんなこと気にしないで。不可抗力なんてよくあることじゃん。気にしてたらこの仕事やってけないよ?』─
ずっと気にしてた。
これでいいんだろうか?って。
小さな失敗をする度に落ち込んでた。
こんなんじゃダメだ、って。
頑張っても頑張ってもその評価は『先生可愛い~』で、この仕事は俺に向いてないんだと思ってた。
いや、今でも思ってる。
でも。
頑張ってる中での失敗は不可抗力で、どうにもならないものは気にしてもしょうがないわけで。
気にしてたら前に進めないわけで。
だったら気にしてる暇があったら前に進むことを考えた方がいいわけで─
彼女の微笑みが全てを許してくれているように、その時の俺には見えた。
俺を許し、その全てを包み込んで安息を与えてくれる神のようだと思った。
彼女を引き寄せ、抱き締めそうになる。
否。
俺は逆に抱き締められたかったんだと思う。
神の御胸に抱かれるように、全ての悩み苦しみを許されて、守られていたいと願ったんだと思う。
今にも叫び出して泣き出してしまいそうだった。
胸の中で重く澱んだ何かが渦巻き膨らんで、張り裂けそうなのを、全て彼女に吐き出してしまいそうだった。
「せんせ…」
呟くように俺を呼ぶ甘く、それでいて不安げな声に脳が痺れ、理性の堰が決壊する。
いや、する瞬間だった。
「燃えるゴミの袋どこー?」
不意に誰かの声が近付き、慌てて離れる。
「…南条、早く冷やしとけ。保冷剤持ってくるから」
「…はい」
流し場を後にする。
(…俺…何やってんだろう)
まだ夢うつつのように痺れている頭を振った。
* * *




