追憶〈Side Subaru〉~ 花咲く乙女たちの蔭に1
紅茶に浸ったマドレーヌの香りに、幼い頃からの膨大な記憶が蘇る。
そんな話があった。
俺は…
マフラーに染み込んだ幽かな香り
白檀と仄かなベルガモットの柔らかで白いコットンレースを思わせるあの香りに
俺の心の全ては君の記憶に奪われる─
* * *
香りの記憶の始まりは、暑い夏の日の朝だった。
君は学校の最寄り駅の裏改札で一人立っていた。
まだ朝だというのに照りつける太陽。
夏空には、飛び乗れそうなほど大きく広がる入道雲。
君は白いコットンのワンピースにざっくりと纏めた長い黒髪。
避暑地のお嬢さんみたいだと思った。
俺と眼が合った君に声を掛ける。
「南条早かったなー」
君がにっこりと微笑む。
「行こうか」
そう言って隣に立つと、君は
「はい」
と俺を振り仰ぐ。
揺れる束ね髪と白いワンピース。
夏の風に煽られて香りたつ白檀とベルガモット。
(あ…)
胸の中が甘く波打つ。
それが記憶の最初だった。
ただ、その時は既に俺は…
君に心を奪われていたように、後になって思う。
* * *
キャリーバッグを引いて歩く朝の駅。
俺は今朝早くの電車で東京からこの街に来た。
今春大学を卒業し、これからこの街にある女子校で英語教師としてスタートを切る。
桜の季節。
円安機運も高まりこの街にも外国人観光客がちらほら見られる。
(あれ?)
ふと気付くといかにも東洋人らしい黒髪の女の子が観光客らしい大柄な外国人二人相手に電車の乗り場を案内しているようだ。
が。
(オーストラリアンか。あの子、分かるかな?)
オーストラリア訛りに思わず足を止める。
案の定、彼女は答えに窮している。
分かるのに見て見ぬふりは出来ない。
俺はそちらに足を向ける。
「May I help you?」
「Oh!」
俺が声を掛けると二人組は嬉しそうに下車予定の駅にラピッドが停まるのかとか、「Ekiben」を食べてみたいけれどその駅で売っているのかとか訊ねてきた。
俺は行ったことのない駅だけれど、日本の駅の大体の感覚でそれらに答え、彼らを見送った。
さて。
俺の後ろには取り残されている女の子ひとり。
俺は彼女を振り返る。
黒髪、白肌、黒い瞳。
(高校生…だな)
デニムシャツにカーディガン、膝上丈のフレアスカート。
ナチュラルな眉と粗のない肌からメイクが無縁なのが分かる。
今どきの高校生にしては少し地味な女の子。
でも分からないオーストラリア訛りに果敢に挑む様子は…
(グッジョブだよ)
彼女の勇気を称えたくて話し掛ける。
「君、いいね」
彼女は瞳を見開き、俺を見上げる。
若々しい穢れのない瞳。
「彼らのはオーストラリア訛りだね。分かんなくてもしょうがないよ、日本の学校では聞き慣れないから」
その瞳に釣られてつい日本の英語教育について熱烈に語りそうになってしまった瞬間、
「ありがとうございました!失礼します!」
と言うが早いか一礼して、改札口へと駆け出して行く。
「えっ、あぁ、うん…」
勢いに気圧されて、髪をなびかせて走る後ろ姿を見送る。
「ふふっ」
彼女の姿が改札の向こうへと消えると俺は思わず吹き出した。
「…面白い子」
この街にはあんな高校生がいるんだ。
分からなくても理解してあげたい、応えてあげたいと言葉に真摯に向き合える子。
俺の目指してることがこの街にはあるかもしれない。
(幸先良いな)
俺はキャリーバッグを引いて再び歩き出した。
* * *
でもそんな予感とは裏腹に、社会の荒波とはなかなか厳しいものだった。
ご多分に漏れず、新社会人の俺はその洗礼を受けることになる。
初めての仕事、初めての知らない土地、初めての独り暮らし。
先輩の先生方は親切でいろいろ助けて下さるけれど、授業の他に研修も多く、残業もしばしばで時間も長い。
慣れない土地での慣れない生活も相まって、俺は疲労困憊していた。
とは言え、教師という仕事は相手は子供。
ともするとその末永い人生を、未来を預かっているとも言えるわけで。ひとたび教壇に上がれば「新人だから」という甘えは許されない。責任は重い。
しかも生徒達の前で悲愴な顔は見せられない。
にも関わらず生徒達からの評価は
「先生可愛い~」で…
一生懸命やっているつもりなのに落ち込む毎日だった。
やっぱり研究室に残って研究者を目指せば良かった。
あそこは居心地が好く、思いっ切り好きなことが出来た。
教授も好い人だったし、仲間にも恵まれ、自分の成果も認められた。
でも今更逃げ帰れない。
教育実習の後、人より遅れて教員の就職先を探し始めた俺は思うように見つからず、伯父の知人が理事を勤めるこの学校を紹介されて就職に至ったのだ。伯父貴の面子を潰すわけにもいかない。
もしあの頃に戻れるなら、きっとこの選択はしない…
正直、日曜の暮れ時には薄暗い自分の部屋の中で独りベッドに座り込み、後悔することもあった。
* * *
「で、校内で迷っちゃったわけ?」
カウンターの俺の隣に座る宇都宮先生が腹を抱えて笑う。
学校帰りのある夜。
俺は英語科の先輩教師の宇都宮先生に誘われて、学校から2駅のターミナル駅近くにある雑居ビルの地下の店にいた。
そこは年配の常連客みたいな人ばかりが出入りするクラシカルな飲み屋だが、宇都宮先生の行きつけなのだと言う。
なぜこの店なのか訊いてみたところ、
「こういう店なら卒業生に鉢合わせすることがないから」
なのだそうだ。
(流石ベテランは考えが違うな…)
仕事以外でも見倣うことは多そうだ。
「笑いごっちゃないすよ…」
「確かに視聴覚室は分かりにくいけどな。で、どうしたの?」
「…生徒に訊きました」
先生が更に大笑いする。
「まぁいいんじゃない?初原君なら。見た目で得してるし」
「得してません!むしろそれ傷付きますから!!」
「そうか?何かやらかしても『可愛いからしょうがない』で済んだらラッキーじゃない?」
「やらかしちゃダメでしょう!」
息巻く俺を先生がまた笑う。
「あんまり真面目に考えるな。先は長いぞ」
そう言って先生は俺の背中をぽんと叩く。
俺は溜め息をひとつ吐いて、ジョッキの底に残ったビールを一息に煽った。
* * *




