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11月~文化祭休暇前夜

 11月1週の週末。


 私の学校は文化祭がある。



 文化祭の主役は2年生。


 3年は勉強しろとばかりにノータッチで、文化祭前日の準備日の朝に出席を取るためだけに登校すると、その後は文化祭当日の土日と代休、それにくっつけてある創立記念日のお休みでほぼ6日間の大型連休になってしまう。



 となると、開放教室もない文化祭休暇は私は完全に学校に来ることはなくて。


 それはすなわち先生に逢えないということで…



 僅か6日間の休みだけれど、こうも毎日会うようになるとその僅かが寂しいと思うようになるのだとまざまざと気付かされる。




 文化祭直前の木曜日。


 いつもの時間、いつもの英語準備室。



 ただひとつ違うのは、いつもは校庭から聞こえる部活の掛け声が静かなことくらい。

 きっとみんな文化祭準備が大詰めでそちらに掛かりっきりなんだろう。


 唯一風に乗って幽かに演舞の練習をするチア部の音楽が聞こえてくる。



「そろそろ帰るね」



 先生も生徒も文化祭にかまけて誰もここに来ないのをいいことに今日はつい遅くまで居座って、長文問題集の読み込みに没頭してしまっていた。


 気付くと外は夜の帳が下り始め、すっかり生徒たちの声も聞こえなくなっている。



「あぁ、俺も帰ろうかな。なんせ土日も出勤だしな」



 ワイシャツの上に羽織ったパーカーの相変わらず長い袖を捲って腕時計に眼を遣った先生が言う。



「そっか。先生は文化祭来るんだよね」


「南条は…あぁ、高3は休みか。いいなぁ」



 いいことないよ。


 先生に逢えないもん─



「…明日からしばらく先生に逢えなくなるね」


 私が呟く。



 大した期間じゃないだろ、と笑われるかと思ったけれど、先生は優しい眼差しを私に向けて


「あぁ…そうだな」


と答えてくれた。



 それから私が帰る支度をしていると、先生は何か思い立ったように自分のデスクに向かい何か書き始めた。



「南条、これ」



 先生が振り返る。

 その手には小さなメモが握られている。



 先生が差し出したメモにはメアドと電話番号が書かれていた。



「先生、これ…」


「休みの間分からないことがあったらいつでも訊いて。メールだから時間とかも気にしなくていいからさ。メールじゃ難しいことなら電話してくれていいし」



 私は遠慮がちにそのメモを受け取る。



 好きな人のメアドとか…


 嬉し過ぎる!

 嬉しくて、嬉し過ぎて、上手い言葉が見つからないくらい。



 でも…



「…先生、いいの?生徒に個人情報とか」


「お前にだけだし」


「それ、余計まずいんじゃない?」


「…まずいかな?」



 先生は顎に手を当てて端正な顔をきゅっとしかめ、


「岩瀬先生にバレたらまた怒られちゃうかなぁ…」


なんてぶつぶつ言っている。



 そんな先生が可愛らしくてつい、


「先生可愛い」


と笑ってしまう。



「そういう言い方するなって」


 先生が不機嫌そうに眉を寄せる。



「中学生だって言ってるもん」


 私が反論する。



「中学生はいいんだよ」


「なんで?」



 私がその不服げな先生の顔を覗き込むと、先生は反射的に眼を逸らした。



「…言っても良いヤツと悪いヤツがいるだろう?」


「何それ。私、言ったら悪いヤツなんだ?」



 わざと唇を尖らせてみせる。



「いや、そういう意味じゃ…」


「じゃどういう意味?」



 今度は膨れっ面をしてみせる。


 もちろん本気じゃない。先生を困らせてみたいだけ。



 先生は次の言葉を探すみたいに、柔らかそうな髪をくしゃくしゃと掻いている。



「嘘。怒ってないよ」


 先生にふふっと笑う。


「だからそういうトコ、可愛いって言われるんだよ?」



 私がくすくす笑っていると、先生は大きな瞳を伏せて盛大な溜め息を吐いた。



「先生、諦めなよ。先生は何やったってやっぱ可愛いから」



 先生は可愛い。


 見た目の可愛さ以上に、私は人として可愛いと思っている。


 素直で、優しくて、ひたむきで、少年のような情熱を持っている人。


 そして。


 知ってか知らずかその可愛さで私をドキドキさせる人─



「…南条」



 先生が私を呼ぶ。いつもよりトーンが低い。



(え…)



「お前さ、大人おちょくんのもいい加減にしろよ」



 やにわに先生が私の左肩をぐいと掴む。


 その拍子に私はバランスを崩して背後の壁に寄り掛かる格好になった。

 壁際に追い詰められた私の顔の真横で先生が左手を壁に突く。



 眼前に先生の鳶色の瞳。


 でも、いつも穏やかにキラキラ輝くそれは、今は翳りの中に刺すような鋭い光を帯びて見えた。



(先生、怒ってる…?)



「俺、お前より年上だし、大人だし、それに教師だし?

 可愛いとか言われんの筋違いだから」



 どんなにか私が先生の魅力を『可愛い』と表現したとしても、でもやっぱり年上の大人の男の人、しかも先生に『可愛い』は、ないよね…


 そんなこと言わなきゃよかった。



 先生は更に、突いた左手を壁に沿って上方にずらし、肘を突いた。


 先生の整った顔が、更に近い。


 胸を打ち付ける鼓動も激しさを増して、感じたことのないくらいの脈動に目眩がする。



 先生の腕の中に捕らえられてどうすることも出来なくて、先生の瞳をただ見つめていた。


 綺麗な二重瞼と長い睫毛。


 でもその視線は私を咎めるよう。



 先生が再び口を開く。



「それに俺、男だし」



 先生は私にぐいと身を寄せ、少し掠れた声で耳元に囁く。



「自分の状況分かってる?」


「え…」



 その一言にはっとする。


 こんな時間の、それも英語準備室なんて誰も気に留めることもない。大好きな先生だけど、でも男の人とふたりきりでこんな状況、危うすぎる。


 先生のこと大好きだけど、信じてるけど、私『可愛い』なんて侮って先生に火を付けて、あまりにも無防備過ぎる…


 胸の中を渦巻く不安と羞恥。



「…せん、せ」


「今更そんな可愛い声出してもダメ。ていうか余計状況まずくなんの分かんない?」



 先生の髪と吐息が私の頬に触れる。


 熱を持つ頬。


 破裂しそうな心拍。


 手にしていた先生のメアドが書かれたメモがはらりと落ちた。



でも…



 先生にならいいかな、なんて心のどこかで少し思っている冷静な自分もいて。

 それがまた恥ずかしくて…



 ぐしゃぐしゃと交錯する思いに何も出来なくて、私はきゅっと眼を閉じる。


 ただそれしか出来なかっただけ…




 暗い瞼の裏を見つめてしばらく時が経った。

 長く感じられたけれど、本当は数秒だったのかもしれない。


 不意に眼の前が明るくなる。


 私は恐る恐るゆっくりと眼を開けた。



 先生は壁から離した手をポケットに入れ、私から少し距離を取って正面から私を見遣っていた。



「嘘。んなわけないだろ」



 先生がにやりとする。

 いたずらっ子みたいに。



(え…)



「分かんないよなぁ。お嬢さん学校育ちのお子様には。


 俺だから良かったけどさ、あんまり男、可愛いとか思ってんなよ?

 お前みたいなお嬢、大学なんか入ったらあっという間に悪い男に喰われるぞ」



 そう言って先生は落ちたメモを拾って私の手の中に押し込み、それからくるりと背を向けてデスクの上を片付け始める。



 先生のグレーのパーカーの背中が不意にぼやける。



 私、泣いてるの…?


 なんでだろう?


 怖いの?寂しいの?切ないの?


 モザイクみたいに複雑で自分でも捉えどころのない気持ち…



 思わず私は先生の背中に抱き付いた。


 先生が驚いて振り返る。



「ごめん!怖かったか?」



 怖かったわけじゃない、多分。


 名前の付けられないこの感じ。


 なんだろう?


 自分さえも分からない、ただ胸の奥がきゅっと痛くて苦しくなる感じ…



 込み上げた涙が瞳に滲んで、私は先生のパーカーのフードに額を押し当てた。


 先生のお腹に廻した私の手を先生が握ってくれる。


 先生はしばらくそのままそうしててくれた。



 準備室に時計の針の音だけが響く。



 やがて少しずつ気持ちが落ち着いてきて、私はそっと先生から額を離す。



「ごめん…冗談が過ぎた」


「うぅん…そうじゃないの」


「じゃあ…大学入ったら悪い男に、なんて、脅し過ぎた」



 先生が私の腕をそっと解き、こちらに向き直る。

 そして私の頭にふわりと掌を置いて、顔を覗き込んだ。


 いつもの優しく煌めく瞳。



「大丈夫、南条は。

 大学行っても俺がちゃんと…」



 そこまで言って先生の唇が止まる。



「先生?」



 先生がふふっと笑う。


 そして少しだけ私の耳元に顔を寄せて言った。



「今度可愛いって言ったらホントに襲うぞ?」



「!!」



 先生はあははっと笑い、私の髪をくしゃくしゃと撫でた。



「なんて、お前にそんなこと出来るわけねぇだろ」



「え…?」



 先生は自分のデスクのバッグを肩に背負うと明るい声で


「さ、帰るぞ!」


と言ってドアに向かう。



「あっ、待って!私まだコート着てない!」



 私は慌てて大切なメモをポケットに入れ、机の上のコートとバッグを引っ掴み、先生の後を追って準備室を出る。



 最近私、先生のことが分からないよ?


 先生は私を『妹』だって言ってくれる。


 けど。


 言いかけてやめる意味深な台詞も、いやに密接なアプローチも、壁に追い詰めて言う脅し文句も、全部全部、勝手な期待をしてしまいそうになるよ…




 外は秋の終わりの冷たい夜風が舞う。



「南条、寒くない?」


「うん。マフラー持ってきたから。先生は?」


「俺は平気。また遅くなっちまったな。送ってこうか?」


「えっ!全然いいよ!先生電車違うもん!」



 私は顔の前で両手をパタパタ振る。


 一緒にいられるのは嬉しいけど、勝手に遅くなったのに先生に迷惑かけるのは本意じゃない。



 それに…



 今はどんな顔してたら良いか分からないから─



「南条、俺と一緒じゃ嫌?」


「え…」



 そう思っているのに、横目でこちらを窺う先生の視線はどこか色っぽくて、また私をドキリとさせる。



「そんなことないよ!全然…嬉しいし…」



 狼狽えてつい本音が漏れた。



「じゃ一緒に行こう」



 先生の手が私の頭にぽんぽんと触れる。



 触れたところが温かくなる。先生が触れたところをもう一度自分の掌で触れた。



 ねぇ先生、何を思ってるの?



 頭から下ろした手を所在なくポケットに入れる。



 くしゃ…

 小さなメモの触感。



(先生のメアド…)



 その手触りを確認しながら宙を仰ぐ。


 その空には─



「あ!流れ星!」


「牡牛座流星群だな」


「先生、星詳しいの?」


「いや、これだけ。

 俺の『昴』って名前、牡牛座のプレアデス星団の和名なんだよ。で、これだけは知ってんの」


「そうなんだ」



 ふたり空を見上げながら歩く。

 その頭上には時折流星が尾を引いて駆けてゆく。



 それは確かに幸せな時間だった。



 先生の気持ちは分からない。

 けど、こうして隣にいられる時間は確かに私にとって幸福なもので、胸をときめかせるもので。




 そして別れ掛けに先生が言う。



「連絡、待ってるから」



 先生はどこまでも私を幸せにして、どこまでも惑わせるんだ─



       *   *   *

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