10月~家庭訪問1
早朝。
私は先生のいない先生の部屋で、どういうわけか母の声で目を覚ました。
母は
「まったく…先生にご迷惑をお掛けして…」
とかは言っていたけれど、それ以上は特別言わなかった。
正直私は家に帰りたくはなかった。
けれど、それは先生の本意ではないのが分かってる。
私は素直に母の後に付いて先生の家を出た。
路地を抜けた道路に停めてあった車には父が待っていて、私は黙ってそれに乗り込む。
その車中で、先生が進路の件で夕方家に来てくれる、と母に聞かされた。
(先生がっ!?うちにっ!?)
昨夜から散々迷惑をかけて、更に休み返上で来てくれる先生には申し訳ないと思いつつも、
(今日も先生に逢える!)
なんて思わず浮かれて、うっかりにやけてしまいそう。
そんな様子を両親に気付かれないように窓に張り付いて外を食い入るように眺めた。
帰ったらお風呂に入って着替えて…
何着よう?
なんか可愛い服、うぅん、先生の好みに合いそうな服…
あ!寝不足で酷い顔してないかな?
こんな私ってやっぱ不謹慎かな?
家に着くと私は夏休みの図書館の時同様再びクローゼットの前で悩みに悩み、結局黒地にボタニカルな小花柄が大人可愛いワンピースとペールピンクのカーディガンを選んだ。
お風呂に入ったり、食事を摂ったりするけど、それでも先生が来る4時までが果てしなく長く感じる。
ようやく時計の針が4時を指し、長針が動かぬうちにインターホンが鳴った。
私は弾かれたように玄関に駆け付ける。
「先生!」
「おぅ。休みに悪いな」
ダークグレイのスーツに黒地のドットのネクタイでぱりっとした姿の先生が爽やかに微笑む。
「うぅん。私こそごめんなさい…」
「それは俺に言うことじゃない」
先生の視線が私の後ろに行く。
振り返ると母が出てきていた。
簡単に挨拶をして、母が先生をリビングに案内する。
リビングには父がいて、先生に挨拶をしてそれから三人掛けソファを勧めると昨晩の私の非礼を詫びた。
私は父と一緒に頭を下げ、リビングセットの脇に置いたスツールに腰掛ける。
「舞奈さんはご自身の将来について良く考えておられます。
ただやはりまだ子供ですので、考えの甘いところもありますし、あるいはまた思いをお父様お母様に伝えきれない部分もあると思います。
今日は、差し出がましいかとも思ったのですが、そこのところを私が繋がせて頂ければと思って参りました」
早速ですが、と前置きして先生が話し始める。
『子供』と先生に言われたことに不満を感じなかったわけじゃないけど、実際こうして迷惑をかけてしまったから仕方ない。
複雑な気持ちで話を聞いていた。
「ありがとうございます。家庭の問題ですのに先生を巻き込んでしまって申し訳ありません」
「いえ。
じゃあ南条。君はどうしたいのか話してくれるかな?」
「私は…私は東京の外国語大学に行きたいです。
言語の変遷とか成り立ちとか、あ!あと語学を勉強して国際社会の役に立つことについて考えようと思ってます」
咄嗟に『国際社会』なんてもっともらしいことを付け加えてみたけど、先生は見抜いていて、父に分からないくらいちょっとだけニヤッと笑った。
「如何ですか?お父さん?」
母がお盆に紅茶のカップを乗せてリビングに入ってきて、カップを置くと父の隣に座る。
「我が家は代々国大教育学部から教員になっております。今舞奈の上の息子がまさに国大に通って教員を目指しているところです」
「舞奈さんは教職に就くことは考えておられないようですが?」
「これはまだ子供ですので、分かっていないのでしょう。
教師という仕事は女性にこそ天職と思っております。
産休育休を取ってもまた復帰出来ますし、近年公立校は特に女性職員へのバックアップに力を入れております。家内を見て頂ければお分かり頂けるでしょう」
「どうだい南条?お父さんはこう仰ってるけど?」
先生は父の言葉に一つ頷いてから、私に眼を向けて訊ねる。
「私は…やりたくない仕事の為にわざわざ復帰したいとかも思わないし…
そもそもやりたくない仕事の為に頑張って勉強しようとかも思わないし。
私は…私の為に頑張りたい!
遠回りでも、大変でも、自分が決めたことを頑張りたいの!!」
「やりたくないかどうかはやってみなけりゃ分からんだろう!?」
父が声を荒らげる。
「嫌なことわざわざやってみて『やっぱり嫌だった』って確認する暇があったらやりたいことやりたいの!
私の人生だもん!あと70年?私は全部目一杯自分の為に生きたい!!」
今までがそうじゃなかったから。
そう言いかけて止めておいた。
「お父さんお母さん、実は私は東京の外国語大学の出身です。
どうでしょう?外大からでも教職免許は取れますが?」
「先生もご存じとは思いますが、国大教育学部はこの界隈では名門中の名門。教職に就いた後も国大出身者は学閥がありますので、メリットも多い訳です。例えば待遇面であったり、昇進であったり」
「お給料も出世も要らない!
私は誰にも縛られない!自分の為に生きるの!!」
「舞奈、私やお母さんがこうして生きてきたからこそ今のお前があるんだぞ!勝手なことは言わせない!!」
私は父を睨み付ける。
父もまた威圧的な視線を私に投げ、隣にいる母も無言で私を咎めているように思えた。
「南条」
張り詰めた空気の中、先生が穏やかに話し出す。
「お父さんお母さんは将来、つまり後に続く君やお兄さんのことも考えて国大に行って教師になる、そういう生き方を選択したんだ。
決してそれを否定してはいけない」
「……」
「でも、その生き方を選択したのもまたお父さんお母さんご自身、ですね?」
「えぇ、そうです」
「はい」
父と母が口々に答える。
「では舞奈さんにも選択権が有っても良いんじゃないですか?」
「!!」
「先生はお若いので分かっておられない。
大切な娘が苦労するのを分かっていてみすみすそんなことさせるわけにはいかないでしょう」
「私にとっても南条は大切な生徒です。
私自身教師としてこの仕事の良さ、素晴らしさは理解しているつもりです。
でも良さは人それぞれです。
もっと他のところに魅力を感じる、その為にならどんな努力も厭わない、そのくらい愛しているものがある子に私は自分の価値は押し付けられません」
「私の娘だ!君に何が分かる!?」
「では『先生』はご自身の教え子に『親の意向と自分の夢が違う』と相談された時にどうご指導なさいますか?親御さんの言うことを聞け、と仰いますか?」
(先生…お父さんを『先生』って言った…)
先生は淡々と喋っているようで、実際はかなり激しているのが私には分かる。
「…かつてそういう子がいました。」
その空気を割るように、二人とは対照的にか細い声で言ったのは母だった。
「お母さん…?」
「まだ私が20代の頃です。画家を目指していた元気な明るい子でした。
私なりにその子の後押しをして、なんとかご両親を安心させるよう話もしに行きました。
でもとうとう説得することは出来なかったんです」
先生も私も、そして父も、唐突に始まった母の話に耳を傾ける。
「結局彼はご両親の勧める学校に上がりました。
でも、数年後たまたま会った時にはすっかり痩せて人が変わったように大人しくて、かつての輝きもなくなっていて…
結局学校も辞めてしまったようでした。
それにもう、絵も描いていないと言っていました」
「……」
「舞奈には幸せになって欲しい。無駄な苦労はさせたくない。
でも毎日をキラキラと生きて欲しい。
何年も何年も沢山の若者たちの旅立つ様を見てきましたが未だに分からないんです。
我が子のことになると盲目になってしまうんですね。ねぇ、あなた?」
母が父を見る。
父は黙って唇を噛んだ。
私は気付かないうちに視界が滲んで、溢れた涙が頬を伝って膝の上に重ねた手の甲に落ちた。
「舞奈」
父が私を呼ぶ。
「…はい」
「国大は簡単入れる大学じゃない。
お前が国大に行きたくない理由は、受験から逃げたいわけじゃないんだな?」
「はい。
私は…東京の大学に、行きたい!」
「国大に受かれ」
「!?」
「両方受かればお前の好きな方に行かせてやろう」
「!!
…お父さん!」
「お母さん、構わないかな?」
「家を出るのはちょっと心配だけど…
でも、いつもあまり我が儘を言わない舞奈がそこまで言うなら、それが良いんでしょうね」
「…ッ!
おと、さん、おか、さん、ありが…」
喉に詰まったみたいに言葉にならない。
「わた、し…国大も、外大も…ぜったい…がんばる…」
母が私の傍に寄って肩を抱いてくれた。
涙の向こうで先生がにっこり微笑み、紅茶のカップを手にするのが見えた。
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