10月~ふたりの夜3
先生の家は昼間歩き回った住宅街の中にあった。
ただそれは他人の家の庭のような小道を進んだ袋小路にあって、到底普通に見つかるような所ではなかった。
更に、石造りの壁に曲線が美しいアイアンの手すりや柵が取り付けてある様は瀟洒を通り過ぎてヨーロッパのアンティークのようでとてもアパートにも見えなかったし、暗いのではっきりとは分からないけど、古さもちょっとどころではなさそうな外観。
そもそも聞くと見るではイメージが違いすぎて、目印が目印にもなってなかった。
(そりゃ見つからないよね…)
「適当に座って。寒かったろ?コーヒー飲むか?」
外観のアンティーク感とはうってかわって綺麗にリフォームされた部屋の中に入ると、先生が小さなキッチンでお湯を沸かす。
「ありがとう、ございます…」
私は脱いだ上着をフリンジの付いたニットワンピースの膝に掛けてベッド脇の床にぺたんと座った。
先生の部屋は、テキストやプリントでいっぱいになったローテーブルを除いては、綺麗に片付いている。
パソコンがひとつ置かれただけのデスクと椅子。外国語関連の本が詰まった本棚。シンプルなカバーの掛かったベッド。
それと、初めて逢った日に見たキャリーバッグが隅にあった。
先生はキッチンから戻ってくると、
「冷えるからこれ敷けよ」
とブラックウォッチのキルトのカバーが掛かったクッションを私に渡してくれて、自分も隣に座った。
「なんだってお前家出なんか…」
「家出じゃない。ストライキ」
「変わんねぇって。余計心象悪いと思わなかったの?」
「……」
俯いた私の頭にぽんと先生の掌が置かれる。
「疲れたろ?少し休め」
「ううん…大丈夫」
口ではそう答えるけれど、正直心身共に疲弊しきっていた。昼からこの時間までほとんど歩き回っていたのだから。
私は先生の肩に頭をもたれた。
「…気持ち良い」
先生は頭から手を離し、その手で私の肩を抱いてくれる。
どこか懐かしい安息感に溜め息が漏れる。
「先生、なんでこんな時間に駅前にいたの?」
「大人には色々事情があるんだよ」
「彼女に会ってた?」
「そんなんじゃねぇよ。DVD返しに行ってただけ」
「こんな時間に?あ、もしかしていかがわしいやつだ」
「普通に映画だよ!今日までの期限なの忘れてたの。
お前なぁ…俺のことどんな風に思ってんだよ」
「えへへ」
部屋と先生の温かさに頭がのぼせたみたいに、思考も口調もとろんとしてくる。
先生の肩に頭を預けたまま上目遣いに先生を見ると、先生と眼が合った。
視線が交錯する。
スモーキークォーツのような透き通る瞳が、こんなに近い。
(綺麗…)
ふと先生の艶やかな唇が引き締まる。
きゅっと真面目な表情。
それでいてどこか甘い…
鳶色が影を落とす甘い瞳に吸い寄せられるように、私は顎を上げる。
「そんな顔で、見るなって…」
先生が独り言みたいに小さく小さく呟くのが聞こえた。
肩に回された先生の腕に少しだけ力が入り、先生の整った顔が私に近付く。
すぐ傍に先生の息遣いを感じる。
本当にすぐ傍。
触れるか触れないかくらいの…
間近にある甘い瞳に捉えられ、抗えず私はそっと瞳を閉じる。
ピピピピピッ…
突然電子音がして、私が眼を開けるのと先生が私から離れて立ち上がるのが同時だった。
先生がキッチンで火を止める。
(今の…キス…寸前だった…?)
今になって激しい鼓動がドクンドクンと胸を打つ。
先生の視線、吐息…
無意識に思い出されて、私の頬を染める。
しばらくして、先生がカップを手に戻ってきた。
「悪いな、インスタントで。それと砂糖はあるけどミルクはない」
「…いいよ全然、ブラックで。ありがとう」
先生からカップを受け取る手が少し震えた。溢さないように両手でしっかり包み、一口飲む。
「熱」
「淹れたてだからな。気を付けろよ?」
「ん。でもあったまる」
「そうか」
それからしばらく会話もなく、私はゆっくりコーヒーを飲み、それを先生は隣で待っていてくれた。
ドキドキと打ち鳴った心臓もコーヒーの香りと温度に次第に落ち着いていく。それにつれて疲労感と眠気が身体にのし掛かってくる。
かくん…
どのくらい時間が経ったろう。
私はカップを持ったままうたた寝しかけていたみたいで、頭が落ちる感覚にはっとした。
「眠いんだろう?少し寝るか?」
そう言って先生が私の手からカップを取る。
「イヤ。帰らない」
「ここで寝て良いから」
先生がベッドをぽんぽんと叩く。
「先生と一緒に寝る」
「は?」
「先生と一緒に寝る」
「いや、俺はいいから。お前がここ使って」
「や。一緒がいい」
「いや…え、と…」
先生は困ったように眉間に皺を寄せて額に手を当てる。
「お前…
煽ってんの?」
「うん…」
私は少し寝惚けてなんだかよく分からないままなんとなく頷いた。
先生は溜め息を吐いて立ち上かる。そしてベッドに掛けられた布団を捲った。
それから私を抱き上げて、ベッドの上に寝かせる。
「先生、傍に居て」
「分かってる」
先生は私に布団を掛けると両手で私の手を握り、ベッドの縁に座ってすらりとしたジーンズの脚を組んだ。
「ここに居るから」
「こっち来て?もっと傍が良い」
「…我が儘言うな」
「じゃあ、ずっと傍に居てね?」
「分かってる」
「私の傍に居てね?」
「あぁ」
「ひとりに、しないでね…」
そのまま私の意識は気だるく遠ざかる。
「おやすみ…舞奈」
耳元で甘く優しい声がして、頬に何か温かで柔らかな感触を感じたのと同時に私は眠りに落ちた。
* * *
「菊花女学院の初原です。ご連絡が遅くなってすみません。
舞奈さんですがかなり疲れた様子で、今私の自宅で眠っていまして。
…はい、そうですね。迎えに来て欲しいのですが、ただ相当疲れているようですので朝まで眠らせてあげたいと思いまして。
もしできましたら明朝お越しいただければと思います。
私は外出しておりますので、住所を申し上げますので鍵は開けておきますからお入り頂いて構いませんので。
…えぇ。お嬢さんが寝ているところに私が居るのもよろしくないですから。
…いえ。泊まる先に心当たりがありますので私のことはご心配に及びません。
…はい。宜しくお願い致します。
それとなんですが…進路の件で舞奈さんから相談を受けまして、もしよろしければ明日の午後にでも伺ってお父様お母様とお話しさせて頂こうと思うのですが。
…分かりました。大丈夫です。
…はい。では明日の4時に。宜しくお願い致します。
ではこちらの住所を申し上げます。文京台町…」
* * *