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9月~進路指導

 英語準備室で先生に拒絶されたあの日を最後に、私は先生と話していない。

 廊下ですれ違っても不自然に眼を逸らして通りすぎるだけ。


 そして、そんな私たちを周りが興味深げに眺めている、そんな日々が続いていた。



 そう言えばあれ以来先生が英語準備室にいることが少ないことに気付いている。

 最近は職員室で仕事しているみたいだ。


 きっと私を、私とふたりになることを避けているんだと思う。


 そのことに気付くと、どうしようもなく苦しかった。



 私は先生の「仕事」から外れたんだからしょうがない…



 頭では分かっていても、遠くに先生を見つける度に不意に現れる苦しさに耐えかねていた。




 月日は移ろい、いつしか暑さも和らぎ、夕暮れが早まってきた。



「再来週から始まる三者面談の前に進路の確認をしたいので、これから呼ぶ者は今週中に放課後私のところまでくるように。

 相沢、江頭、…」


 ホームルームの最後に担任の村田が次々と生徒の名前を呼ぶ。



「南条」



 予想はしていたけど、やはり私も呼ばれる。


 村田と進路の話とか、気が重い。


 でも、逃げも隠れもできるわけじゃない。



 私は仕方なく放課後、職員室に村田を訪ねた。


 終鈴直後の職員室は生徒たちでごった返していて、案の定村田の所にも呼び出された他のクラスメイトが来ていた。

 仕方がないので、また図書室で時間を潰すことにする。



 先生に最後に逢ったあの日も、こうして図書室で手頃な本を手に取ってぱらぱら眺めたりしながら人目が少なくなるのを待っていた。


 でも今日は待つ相手が違う。

 やってることは同じなはずのに、こんなにも心持ちが違う。


 期待、ときめき、それに切なさ、そんなものが混ざったビターチョコのような甘くて苦い気持ちは今日はまるでなく、ただただ気が重い。



(そろそろ空いたかな?)



 図書室の棟を出ると、秋の初めの夕陽が校庭の木々をオレンジ色に照らして、長い影を作っていた。


 職員室のドアを開くと、先生が自分のデスクにいるのが見えた。



 ドクン…


 いつもと同じ栗色の髪、どこか可愛らしい端正な顔に、思わず心臓が大きく鼓動する。



 先生と私をつなぐものはもう何もない。

 頭では分かってる。



 でも心は…



 今もあなたが好きです─



 できることならあの夏の日みたいに私のことだけを見ていて欲しい。


 私だけを抱き締めて欲しい。



 胸の奥で叫んでいる─




 不意に先生が顔を上げ、思いがけず正面から眼が合う。



 ドクン…


 もう一度大きく鼓動する。



 でも次の瞬間には、何事もなかったみたいに先生はその無表情な視線を机の上に落とす。



 先生にとって私は過去の仕事のひとつ…



 私は誰にも気付かれないような小さな溜め息を吐いて、村田の元に向かう。



「…村田先生」


 私が呼び掛けると村田が顔を上げた。


「あの…進路のことで…」


「あぁ…」


 村田がペンを置き、ファイルから資料を取り出す。



「南条は国大教育学部以外の志望校はどうするんだ?」


「受けません」


「滑り止めとかもあるだろう?」


「親が国大以外認めませんから」


「まぁお前の成績ならそれも問題ないだろうがな。じゃあ結局国大でいいな?この間は随分と抵抗していたが…」


「…なんでもいいんで」


「……」



 投げやりな私の言葉に村田がうんざりしたように眉間を擦る。



「お前の人生だ。俺は構わないけどな」


「……


 村田先生には…分からないです。」


「じゃあ誰になら分かるんだ?ん?」



 村田の眼が蛇のように私を捉え、口元だけで笑う。




「幸せは努力もなく誰かが運んできてくれるわけじゃないぞ」


「そんなこと思ってません」


「親の勧めは拒否するのに、幸せを運んでくれそうな者には追従する、と。


将来の夢は白雪姫か何かか?」


「…っ!」



 悔しさに前歯を食い縛る。


 私のことだけでなく先生のことまで…



 不意に村田が私の腕を取り、ぐいと引き寄せた。



「!!」



「ちょっと来い」



 村田は私の耳元で言うと、椅子から立ち上がる。そして私の腕を掴んだまま職員室のドアへと向かう。



「せんせ…!?」


「やっぱりお前にはちょっと話をしておこう」



 職員室を出ると既に生徒たちの姿がなくなった薄暗い廊下をずんずん進んでいく。

 階段を一階上がり、一番近くの選択教室の前で立ち止まる。そのドアに手を掛けながら村田は言う。



「お前の人生だとは言ったが、そのお前の選択が親御さんや、俺も含め学校に少なからず影響することを肝に命じとけ。入れ」


 村田ががらがらと引き戸を開ける。



 その時、その音に混じって誰か階段を駆け上がる足音が聞こえた。



「村田先生!」



「!!」



 村田を呼ぶ声と共に角から飛び出してきたのは



 先生だった。



「先生、私が言える立場じゃないのは分かってます。


 でもそれは…学校に迷惑かかるとか、そんなのは南条には関係ないことです!」



「先生…」



 先生が村田を強い視線で咎める。

 いつも爽やかで甘いマスクと声で私をきゅんとさせる先生が、今は別人のようだった。



 でもそれを村田は軽くかわし、冷たい微笑を浮かべる。




「若い人は理想や希望に溢れていて良いものだね。


 でも初原先生。学校というものは理想と希望だけでは成り立たないんですよ」


「……」


「学校経営というものを考えたことはありますか?」


「教育は商売じゃありません」


「でも学校の経営が成り立たなくなったら、これから未来ある若者たちを我々が育てることが出来なくなる。違いますか?」


「…っ!」


 先生が悔しそうに唇を噛む。



「そのためにも出来る限り上位の学校への進学率を上げる必要がある。それが出来得る生徒には相応の学校への進学を勧める。

 それは同時に生徒自身の将来のためにもなるわけですからなんら問題はないでしょう?」


「でもそれを南条は望んでません」


「では南条はどうしたいんですか?

 ん?南条?」



 村田が私の方へ視線を向ける。



「それは…」



 私はどうしたいのか…?


 自分でも分からないのに答えられるわけもない。



「未来のビジョンがないなら一つでも上位の学校へ行くべきだ。その方がいざ夢を見つけた時に叶えられる可能性が高まるからな。」



 村田の言うことは間違ってない。



 間違ってない…けど



 でも…




「…私」


 纏まらない頭で思わず呟く。


 先生と村田の視線が一斉に私に注がれる。



「私…



 東京の大学に行きます。」



「南条!?」



「東京の外国語大学の英語学科で言語の変遷について研究します」



 私、何言ってるんだろう…?



 思いもよらなかった言葉が自分の口から出た。言っておいて自分で驚いている。


 でも不思議と出任せを言ってる感じじゃなかった。

 自分の中にあるふわふわとした何かが、粘土細工みたいに次第に形作られていくような感じがした。



「東京の外国語大学の英語学科…」


 村田が呟き、その眼を先生に向けた。


「私の母校です。」


 先生が言う。



 村田が再び私を見る。


「親御さんは了承するのか?東京に住まなくてはならないんだぞ?」


「します!させてみせます!」



 村田が大きく溜め息を吐く。



「初原先生」


「…はい」


「南条の指導、頼みます」



(え…?)



「岩瀬先生には俺から話しておくから」


「は、はい!」


 先生が勢いよく応える。



「進路指導課に報告する都合と内申書書く都合があるから、報告だけは都度すること。いいな?」



「はいっ!!」




「ここまで毒されてたら俺の手には負えねぇよ」



 村田は最後にぼそりとそう言い残して階段を降りて行った。




 やがて村田の足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 辺りは先生と私の呼吸と遠くに車の走る幽かな音が聞こえるだけ。


 その静けさの中、先生が口を開く。



「ごめん、南条」


「先生…」


「もう…離さないから」


「!!


先生…!」



 先生が私の両手を取る。


 先生の掌から温もりが染み込んでくる。


 私の胸のうちにあったいくつかの苦しい塊が溶かされていく。



(先生…)



 先生の視線と私のそれがぶっかった。綺麗な、熱い光を帯びた瞳。


 誰もいない静かな廊下。


 この地球上からぽっかり切り取られてしまったようなふたりきりの空間で見つめ合う。



そして…



「これから忙しくなるぞ!

 分からないところは何でも聞けよ!ビシビシ行くからな!!」



そう言って先生は頬を緩め、いたずらっぽく笑った。



「えっ!!


 はっ…はいっ!!」



 こうして私はようやく進路を決めて、そして先生の傍にいられることになった。



 先生に付いていきたい。


 先生は夜闇にたったひとつ灯る一筋の光─




 窓の外はいつの間にか暮れ、秋の風が枝葉を揺するばかりだった。


        *   *   *

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