9月~スキャンダル
「ねぇ、ほら、ちょっと…」
「あぁ南条…」
「あの人が初原先生の?」
「そうそう。あっ!ちょ、こっち見た!」
「ヤバいヤバいー」
応接室に呼び出されたあの日以降、通学路や廊下を歩いていると、しばしばこんな会話が聞こえてくるようになった。
それは知ってる顔ばかりでなく、見ず知らずの下級生からも。
ちらちらとこちらを見ながらひそひそなされる会話。
もちろんその内容は─
「彼女、初原先生と付き合ってるんでしょ?」
「美男美女カップルとは思うけど節操ないよねー」
「校内でキスしてたらしいよ!」
「えー!大人しそうな顔してるのにやることえげつないんだぁ」
「相当才女なんだって?先生絶対騙されたんだよー。あーぁ」
声の主の視線を遮るように、ふと揺花が隣に立つ。
「ごめん…揺花」
「私、はっきり言わないでこそこそ陰で触れて回るこの学校の?ていうか女の子の習性、嫌いなんだ。
それだけだから、ね?気にしないで」
「…うん、ありがとう」
揺花がいてくれて救われる。
こそこそ陰口を叩かれるのが嫌いなのは私も同じ。
面と向かって言われるのは応戦できるけれど、陰口ではそれもできない。
昼休みの終わる頃。
5時間目の生物は移動教室で、私と揺花は一緒に理科室に向かっていた。
「舞奈、私トイレ行くから先行ってて」
「ん、分かった」
揺花と別れ、ひとり本校舎の階段を上る。
理科室は中学生の教室の並びの一番手前にある。
中学生ばかりが行き交う廊下を進んでいると、やはりここでも女の子達の視線を感じる。
(先生中学生に人気だからなぁ…)
小さく溜め息を吐いた時だった。
「南条先輩…ですよね?」
急に背中から声を掛けられた。
声の方を振り返ると、切れ長の眼のショートヘアの子を中心に数人の女生徒たち。
いずれも知らない子だけれど、中学生のようだ。
「初原先生に手を出さないで下さい」
やにわにショートヘアの女の子がそう言った。
「え…」
「先生に色目使ってたらしこんだんでしょう?」
敵対心丸出しの視線。平常心を失った下品な物言い。
私は不機嫌な溜め息を吐く。
「初対面の人に、ましてや歳上に口を利くときはまず自分から名乗りなさい。
それから、真偽も分からないことにいきなり攻撃的なものの言い方をするものではないわ。まずちゃんと事実を確認するべきよ」
私は彼女の顔を真っ直ぐ見て言った。
自分でも意外なほど落ち着いて冷静な声で。
私が言い返してくると思わなかったのだろう。彼女は一瞬驚いた顔をして、それから不満げにぼそぼそと、
「中学3年2組の落合です」
と、名乗った。
「落合さん。私は高校3年1組の南条です」
素直に名乗った彼女に私も答えてあげる。
「先輩が先生に抱きついてキスしてたって本当ですか?」
(一応事実確認もするんだ。意外と素直なのね)
なんて、私はどこか他人事のように頭の片隅で思ったりしていた。
「いいえ」
「でも!夏休みに校庭で先生と抱き合ってましたよね!?私の友達が見たんですけど!」
「あぁその件?
それは事実です」
私の答えに落合さんの表情にぱっと怒りの色が浮かぶ。
そして、取り巻きの女の子たちと、廊下のあちこちから私たちを遠巻きにちらちらと見ていた野次馬たちからざわめきが漏れる。
「自分のやってること、恥ずかしいと思わないんですか!?」
「……」
「先生に、それも学校の中で色目使って、そこまでして先生と…」
落合さんが声を荒らげる。
その声に私たちの存在に今まで気付いてなかった生徒たちも振り返り、ひそひそし出す。
私はもう一度溜め息を吐いた。
「抱き合った、と言えば色恋しか想像できない貧相な想像力も恥ずかしいと思わない?」
私は彼女に微笑んだ。
落合さんが、周りが、みんなさっと顔色が変わる。
でも正直なところ、この場面でこんな言葉が咄嗟に飛び出し、更に微笑める自分に、他の誰よりも自分が驚いた。
それから私は静かに息をひとつ吸い込み、続ける。
「私は先生に進路の相談をしていた。その中で私は思うところがいろいろあって、恥ずかしながら泣いてしまった。それを先生がなだめて下さった。
そういうことは想像できない?」
「先生はそんな後先考えないようなことしません!あなたに騙されたのよ!」
「舞奈!?」
遅れて来た揺花が渦中にいた私を見つけて駆け寄ろうとするけれど、私はそれを手で制した。
そして更に食ってかかろうとする落合さんに訊ねた。
「あなた、兄弟は?」
「そんなこと今はどうでもいいです!」
「私はあなたの質問に応えたの。あなたも応えるべきじゃない?」
「…妹がいます」
彼女が相変わらず素直に、でも面白くなさそうに応える。
「その可愛い妹さんがあなたに相談事をしたとします。妹さんの人生に大きく関わる問題で、彼女の心には耐えられない辛いことです。それを信頼する姉に話すうちに泣けてきてしまった。
そんな時あなたならどうします?」
「……」
「抱き締めて胸の中で気の済むまで泣かせてあげるかもしれません」
「でも先生は…!」
「先生は私『たち』のことを妹のように思って下さってるわ。
親身になって話を聞いて下さり、時間を割いて手助けして下さり、時にはそうして包みこんで下さる。そういう方じゃない?
初原先生が好きなんでしょうけど、そんなことも分からないで先生はこうだなんて決めつけて、私に当たり散らして、そんなの好きって言えるかしら?私は違うと思うの」
「……」
彼女が黙りこむと同時に始業のチャイムが鳴った。
「でも…」
取り巻きの一人が食い下がる。
「そういう先生の性格が分かってて、先輩が上手いこと先生を誘惑したってこともあり得ますよね?」
「もしそう思うならあなたもやってみたらいいわ。先生はどの生徒にも分け隔てなく接して下さいますから、あなたの思うようになるんじゃない?
授業が始まるので失礼したいんだけど?」
中学生たちは一様に項垂れる。
うっかり論破してしまったのは、冷静な口調とは裏腹に多分私頭の中は実は激昂していたんだと、後になって思った。気付かないうちに嫌な汗をかいている。
「おい、教室に入れ!」
中学の先生たちが廊下の角から姿を現す。
「舞奈…行こう」
彼女たちが引き上げていく背中を見ながら、私は揺花に手を引かれて理科室に入っていった。
『先生はどの生徒にも分け隔てなく接して下さいます』─
先生は私のこと
生徒として、仕事として接していた。
他の生徒と同じように。
だからきっとあの子達にも、夢の素晴らしさを説き、泣き崩れてしまえばあの広い胸で抱き締めるんだ。
(そんなの…
嫌…)
黒い感情が胸に渦巻く。
誰にぶつけたらいいのかも分からない胸が灼けるような感情。
今の汚い私を先生に、あの日逢った夢を語る眩し過ぎるまでに輝く先生に、どうか見られませんように、とただ祈った。
* * *