8月~個人授業2
時計の針が4時を指す。
(4時って夕方かなぁ…)
夏の4時はまだ日も高く明るい。
頭上には青い夏空が残る。
(うん、夕方よね!)
自分に言い聞かせるように強く思って、私は問題集とペンケースをスクバに放り込むと教室を出た。
行く先は勿論、英語準備室。
一階の廊下の一番奥のドアをノックする。
(どうか岩瀬がいませんように!)
祈りながら
「失礼しまーす」
と声を掛ける。
準備室には先生が一人でいた。
先生がパソコンの画面から顔を上げる。
「あれ?南条」
「先生、まだ忙しい?」
「…今何時?」
先生が腕時計を見る。
「もうこんな時間だったのか」
そう言って先生は溜め息を吐いた。
「もう帰りか?」
「うん。でも別に用事もないから…」
(…待ってても良いですか?)
私は先生の様子を覗き見る。
先生はまたパソコンの画面に視線を落として、まだ忙しそうに見える。
(迷惑…かな)
先生の横顔と手元をちらちら窺っていると、先生がこちらに顔を向けた。
「大丈夫なの?」
「え…」
「ちょっと待ってられる?」
「!…うん!」
「ごめんな、もうすぐ終わるから」
(待ってられる?って言われちゃった…)
私はちょっとドキドキしながら手近な椅子を引いて座る。
静かな部屋に時計と先生がキーボードを叩く音だけが響く。
私は頬杖を突いて、ただ先生の真剣な顔を見ていた。
鳶色の瞳とそれを縁取る長い睫毛。
頬から顎のラインと滑らかな肌。
それにかかる栗色の柔らかな髪。
全てが黄金比で出来ていると思った。
スクリーンを見つめる視線は凛とした大人のそれで、時々何か小さく呟く唇からは吐息に幽かな色気を含んでいる。
(いつも可愛いと思ってるけど…こういう時の表情、大人の男の人って感じでカッコいい…)
私の視線の中で先生が不意に顔を上げ、一瞬揺らめいた瞳の光が私に向く。
(あ…見てたのバレちゃった…)
「何?」
「う…ううん、なんでもない」
先生が再び目線を落とす。
好きな人をただ見つめていられる時間。貴重な時間。
今、先生を見つめていられるのは私ひとり。
(独り占めだ…)
この時間がいつまでも続きますように…
祈りながら先生の背中に胸の中で呟いた。
時計が間もなく5時を指そうという時、ガチャッと音がして英語教室との境のドアが開いた。
顔を出したのは宇都宮だった。
「初原先生。あと戸締まりお願いしてもいいですか?」
「あ、はい」
「じゃ、お疲れさまです。…南条、早く帰れよ」
「はーい」
それだけ言って宇都宮は出ていった。
(ん?)
『戸締まりお願いしても』?
ってことは…
宇都宮も岩瀬ももう来ない?
(って…今日はもう先生と…ふたりきり…)
途端にますます鼓動が加速する。
『ふたりきり』というワードにこんなにドキドキしてしまうとか、恥ずかしいことなんだけど…
それでもつい潤んでしまう眼に先生の姿がキラキラと揺れてしまって、慌てて指の背で目元を拭う。
この瞬間をひと欠片も残らず感じたくて、瞬きする間も惜しむように私はただただ先生の後ろ姿を見つめていた。
やがて先生のキーボードを打つ手が止まる。
先生は素早くマウスを操作して、
「よし、終わった」
とこちらを振り向く。
「待たせてごめんな」
先生の優しげな視線が真っ直ぐ私に向けられる。
「ううん!全然!」
先生と一緒にいられるだけで嬉しいんだもの。
だって今は、今だけは。
私だけの先生─
「一昨日はどうだった?何か進路に役立ちそうなことあったか?」
「あ、うん。
なんか突き詰めて考えるのとか好きだな、とか…。ちょっと好きなことの方向とか、見つかりそうな気がする」
「そっか。良かったな」
先生が眼を細めて白い歯を見せ、心底嬉しそうに笑う。
自分のことみたいに。
「とにかく好きなこと見つかるのが一番の目的だからな。
将来どんな職業に就くかとかはオプションみたいなものだから。夢は変わっていいと思うし。
実際俺もそうだし」
先生が言う。
「え…?」
(先生、もともと先生になりたかったんじゃないんだ…?)
「先生はどうして学校の先生になろうと思ったの?」
「俺?」
自分を指差す先生に私はこくりと頷く。
「大学でね、元々教職課程を取ってたんだ。先生になる資格を取る授業ね」
私も家の関係で教職課程というのはもちろん知っている。
「別に教師になる気なんてなくて、ただ大学で何か資格を取っておこうと思っただけだった。で、俺の学科で取れるのはこれだったからなんとなく取っただけでさ」
先生はいたずらっぽく笑う。
とろけるような可愛い笑顔に、真面目な話をしてるのに私はつい
(可愛いな…)
なんて思ってしまう。
「それが大学4年の時、教育実習があってね。近くの高校に行ったんだ。
で、そこで愕然とした。そこそこできる生徒たちがさ、全然喋らないんだよ」
先生は机に肘を突いて両手を組み、急に真面目な表情になる。
「日本人の真面目さ故なんだろうな、完璧に自信がないとガツガツ喋るとかはしないんだよ。ましてや外国人相手になんて尚のこと。俺海外育ちだからさ、なんか違うな、と思って…
これじゃダメだと思ったんだ。
片言でもいい。でもまずコミュニケーション取ってみたい!って思えることが大事だ、と伝えたいと思った」
先生はそう言った後、
「それが俺が教師になった契機」
と、少し恥ずかしそうに笑った。
「ホントは教師になんてならずに大学院に行って研究室に残るつもりだったんだ」
「研究室?」
「うん。やってた研究が凄ぇ面白かったのね。教授も好い人だったし」
「どんなことやってたの?」
「言語の変遷とか…。ほら日本語にもあるでしょ?今と昔で意味が違う言葉とか。」
「枕草子の『をかし』が今の可笑しいと違う、みたいな?」
「うん、まあ、そんな感じかな?あとは言葉の語源とか、そんな感じのこと」
「あ、私ね、子供の頃気になってたことあるの!」
「何?」
うふふ、と私が笑うと、先生が身を乗り出してくる。
「『道路』と『road』って言葉がなんか関係あるんじゃないかって。ほら、違う国の言葉なのに同じ意味で語感ご似てるでしょ?」
「ほぉ」
笑って流してくれればいいのに、先生は急に大真面目な表情で宙を仰ぎ何か考えて、それから私に、
「面白いね。『道路』と『road』の直接的な関係は分からないけど、ラテン語と東洋の言語については…」
とか言い出すので、
「ふふっ!」
と私は吹き出してしまった。
「ねぇ、先生。
その研究の話、聞かせて?」
「そんなの聞きたいの?」
そう言いながらも先生はどこか嬉しそうな声音だった。
「うん」
「長くなるかもしれないよ?」
「うん、いい」
「そうか…。じゃあ、何から話そうか?」
そう言って先生は学生時代の研究の話を聞かせてくれた。
私は先生の思いに引き込まれるように、先生の話を聞いていた。
話は難しいこともあったけれど、私が質問すると先生は「良い質問だね」と言って丁寧に答えてくれるし、先生がとても活き活きと楽しそうに語るので、私は先生の傍らで飽きることなくずっと聞いていた。
研究の話をする先生の瞳は宙の星を宿したようにキラキラと輝いていた。
それはやはりまるで少年のように…
そんな少年のような先生を見ていると、私もまた幸せだと思った。
いつまでも先生の話を聞いていたい。
いつまでもこんな先生を見ていたい。
いつでも先生が煌めいていられるように私に何か出来たらいい。
そして。
ずっとこうしてふたりきりで、時が止まればいいのに─
*
でも、時の流れはいつも無情で。
気付くと外はすっかり暮れ、夏の星が瞬いていた。
「ごめん!つい夢中になりすぎた」
「全然いいよ。ていうか…ホントはもっと聞きたい」
「そんなわけにはいかないよ。
うわ、ヤバイな、もう8時じゃん」
そう言って先生はまだ手元に散らばっている本や資料をまとめ始める。
「南条、ちょっと待って。遅いし、一緒に帰ろう」
「え…」
「家どこだ?駅から遠いのか?」
先生と二人で下校…
しかも先生、送ってくれる気だ…
「だっ!大丈夫!駅から近いしっ!!」
先生、忙しいのに迷惑かけられない。
「俺が引き留めちゃったからさ。南条に何かあったら俺の首飛んじゃうから、送らせて?」
「……」
夢みたいな申し出にすぐに言葉が出ない。
「それに…」
「……?」
「そしたらもうちょっと喋れんじゃん?」
「え…」
私がもっと聞きたいって言ったから?
私の顔を覗き込む先生の鳶色の瞳はまだ輝いたままで…
先生が楽しそうだと私も楽しいの。
今この瞬間、先生と私、同じ気持ちでいられる。
こんな嬉しいことないよ…
ねぇ、先生。
今私、どうしようもなく
先生が…好きだよ─
* * *