8月~個人授業1
月曜日。
朝一番、私は英語準備室に向かっていた。
いつでも聞きに来ていい、と言う先生の厚意に甘えて、分からない問題を聞きに行く。
その為に敢えて難しい目の問題集をやって分からないところを作ったんだから…
私はスキップしそうになる脚を押し留めながら、いそいそと廊下を進む。
トントン…
目的のドアをノックする。
「せーんせ。今いいですか?」
ドアをガラリと開け、中を覗き込むと…
そこには先生と、私たち3年生の英語担当兼学年主任の岩瀬がいた。それぞれ自分の仕事をしていたようだ。
岩瀬は50代くらいのベテラン女性教師で、毎年3年生を担当している。
余計なことは喋らず淡々と授業をこなす。
無表情な眼鏡の顔は見るからにストイックな雰囲気で近寄り難い。
実は私の苦手なタイプの人…
「良いですよ。何ですか?」
そう応えたのは、勿論岩瀬だ。
(…そりゃそうなるよね。私の担当だもん…)
上がっていたテンションが一気に冷える。
「えっと…これなんですけど…」
気乗りしないけれど仕方なく問題集を開く。
「単語の意味は調べてあるんですね?」
「はい」
「じゃあ和訳してみて下さい」
「えっと、それが出来なくて…」
「何故ですか?」
「……」
この人はいつもこうなんだ。
岩瀬の授業はいつも宿題の長文和訳を生徒が順番に読み上げるというもの。分からないと飛ばして次の人を当てる。特に解説もない。
私は「分からないから授業に出てるわけで、分かればこんなとこに毎日1時間も座ってない」と内心思っている。
なんでこんな教え方でベテランと言えるのか…
「えと…この文、いくつかの文から出来てる文だとは思うんですけど…」
恐る恐る口を開くと岩瀬が小さく溜め息を吐いた。
(やっぱりこの人は苦手だー…)
岩瀬は問題集に眼を落としたまま、やはり淡々と、且つ分かりにくい説明をする。
正直全然分からないけれど、聞き返すのも面倒くさいので、ただ
「はい…はい…」
と答えておく。
一通り説明したらしいところで岩瀬が初めて顔を上げ、
「分かりましたか?」
と私に訊いた。
「あ、はい…」
と答える。
全然分からないけれど…
とりあえずこれで岩瀬からは離れられるけれど、ここにもう用はないことになる。
(先生と話したかったけど、無理だなぁ…)
私は岩瀬に
「ありがとうございました」
と頭を下げ、ドアの方を向きかけた。
すると岩瀬が
「では私は職員室に戻りますので、貴女、一緒に行きましょう」
と席を立つ。
(うゎ、途中まで岩瀬と一緒…)
今日はついてない。
岩瀬がさっとプリント類を抱えてドアに手を掛け、私は渋々その後に続こうとした。
その時、
「あ、南条、こないだの本どうした?読んだか?」
不意に先生が私を呼び止めた。
いつになくキリッとした先生の声。
「あ、はい。あの…半分くらい」
「ちょっと時間あったら話聞かせてくれない?」
「はい!大丈夫です!」
私が答えると、岩瀬が
「じゃあ先に行きますので」
と部屋を出て、足音が遠ざかっていった。
「はぁーっ!」
私は大きく息を吐いた。
「くくっ!」
それを見て先生が堪えきれないように笑う。
「なぁ、さっきの岩瀬先生の説明分かったか?」
「全っ然!」
私がかぶりを振ると、先生はまたぷっと吹き出した。
「分かんなそうな顔して頷いてんなと思ったらやっぱりだ。ちょっと見せてみ?」
先生は可笑しそうに手招きをする。
「これなんだけど…」
私は先生の隣の椅子を引いて座り、問題集を広げる。
「どれ?」
先生が少し私の方に身体を寄せた。
(!!)
すぐ傍に先生の気配を感じる。
心臓の音は急激に高鳴り、先生に聞こえてしまいそう…
「あーなるほどね。じゃあ…ここに線引いて、前半と後半の二文に分けてみようか?」
「あ、これなら後半は分かる」
「じゃ後半訳してみて?」
私が後半の訳文を読むと、先生が大きく頷いてくれる。
「次は前半。こっから後ろを一括りにして…」
「toの文にするんだね?」
「そう。南条優秀じゃん」
先生が微笑む。
ちょっと考えてから全訳を言う。
すると、先生は
「良くできました」
と頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「!」
どうしよう。
先生が触れた頭の天辺があったかくて、どきどきしている。
頬がものすごく熱い。
多分私、今顔真っ赤だ。
先生に気持ちがバレちゃうかも…
先生は私の顔を覗き込んで、またふふっと笑った。
栗色の髪の間から見える優しい瞳に、更に胸がドキンと鳴る。
何か言わないとますます赤くなってしまいそうで、慌てて話題を探す。
「あっ!先生、本の件は…」
「あぁ。別にいいよ、ただの助け舟だから」
「え?」
「岩瀬先生と一緒は南条キツいだろ?」
あ、バレてる…
てへへ、と笑う私に先生が再び微笑んだ。
先生はやっぱり優しい。
私のことなんかもよく見ててくれて、気付いてくれて。
でも。
私は先生のデスクにちらりと眼をやった。
そんな先生のデスクは膨大な問題集や構文集、辞書、それに画面にぎっしり字の詰め込まれたおそらくプリントを作っているとおぼしきノートパソコン、そんなもので埋め尽くされている。
忙しいなか、邪魔しに来ちゃったかな…
なんて、なんだか申し訳なくなる。
「先生、忙しそう」
「あぁ、今ちょっとな。夕方までには片付けたいと思ってんだけど…」
「あ、じゃあ…」
夕方ならいいのかな…?
私、どうしても先生と一緒にいたい…
また夕方来てもいいですか?と口を開きかけた時、
「南条、夕方もっかい来てもらえる?」
「あ…」
先生は私の顔を窺うように少し顔を傾けてこちらに視線を投げる。
胸がトクトクと波打つ。
「はいっ!」
(先生とおんなじこと考えちゃった!)
それだけで幸せだと思える私は、今本当に幸せなんだと思う。
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