59『雷雨の夜から……朝』
乗客たちが快適な食事を楽しんでいる時、外は豪雨と雷に襲われていた。
アンナリーナの一行は関係ない。
結界は完全に音を遮断していたし、雨に濡れる事もない。
馬さえも、頭巾はつけられているが、今はもう休んでいるのだ。
だが、ピットに泊まった連中は阿鼻叫喚の真っ只中。
まず、御者が雨の降り始めを見誤った。
どうにか到着までは降らなかったが、直後に降り出し、箱馬車の屋根の上にまで積んでいる大荷物を濡らさないよう、覆いをかけるのに御者を始め護衛の4人がずぶ濡れになってしまった。
這々の体でピットに入っていくと、何もせずに偉そうに座っているだけの女にやれ寒いだの、空腹だのと喚かれて、暖炉に火をつけようにも薪がなく、外にあるものは濡れて役に立たない。
しょうがなく、アンナリーナたちの馬車に借りに行こうとしたら、結界が張られていて近づく事も出来ず、声をかけても聞こえないのだろう、無視されていた。
そのうちに雷鳴が轟いて馬が暴れ出し、不浄に行くために外に出た女からあちらの馬車に移らせろ、と無茶を言われる。
ようやく火を熾して湯を沸かし、硬い黒パンと干し肉を出すと、それをひっくり返して罵り始める始末……。
いいかげん限界だった。
乗り合い馬車の方では美味い食事に舌鼓をうち、風邪の予防のためにと言って薬酒までもらい、男たちは上機嫌だ。
今は寝床の準備をしている最中で、キャサリンが眠っているベンチの反対側のベンチにマチルダの寝床を設え、あとのものは床にゴロ寝だ。
だが、馬車に元々積まれていた敷物や毛布、アンナリーナが提供した毛布などで快適に寝られるようになった。
「で、どうして私がここなわけ?」
胡座をかいて座っているフランク。
彼はベンチを背にもたれている。
その膝に抱かれたアンナリーナが唇を尖らせていた。
「男と一緒に床で寝るなんてとんでもない。間違いがあったらどうするんだ」
「間違いって……
それよりもこの状況の方がずっと密着してると思うんだけど?」
アンナリーナの身体を横抱きしたまま腰を下ろした形のフランクは、子供を抱くようにしてアンナリーナを抱いている。
2人の身体を遮るのは、アンナリーナを包んだ毛布だけだ。
「俺はいいんだよ。
リーナは俺のよ、いや妹だからな」
まさかの妹宣言!? 一体いつの間に?
「それに床でなんか寝たら背中が痛くなる。こんな肉付きのない身体してさ、直接骨に当たるだろ」
いや、こんな不自然な姿勢で寝たら、やはり身体は痛くなるだろう。
しかし文句を言いながらも、大人しく抱かれているのは訳があった。
『あたたかい……』
「人の腕のなかって、こんなに暖かいんだね」
アンナリーナの記憶の中に家族から抱擁された思い出などない。
「おやすみ」
このときのフランクは、下半身を勃起させないよう必死だった。
そんなことを知ってか知らずにか、頭の収まりの良いところを探して、胸に顔を押しつけてくる。
……鋭いのか鈍いのか。
すぐに寝息を立て始めたアンナリーナをそっと抱きしめる。
フランクの知る女とは違う抱き心地、そして嗅いだこともない芳しい香り。
魔導燈の明かりを絞った馬車内で、フランクは力の抜けた身体を抱き直した。
カクンと首が揺れて顔が正面を向く。
思わず顔を近づけ、額に唇を押しつけても何の反応もなかった事に気を良くしてキスはどんどんその位置を下げていった。
「リーナ……好きだ」
口紅ひとつつけたこともない唇に自分のそれを押しつける……何とも色気のないキスは一瞬で終わり、フランクは毛布を巻きつけ直して抱きしめた。
そして、栗色の髪に金髪の混じった不思議な色合いの髪に顔をうずめて、フランクはしばし夢の世界に旅立ったのだ。
アンナリーナの強化結界のおかげで朝まで何事もなく過ごせた面々は、ハツラツとしていた。
昨日彼女が言った通りに一晩ぐっすりと眠ったキャサリンは、熱も下がり、喉の腫れも引いて他の症状も出ることがなく、ほぼ完治したようだ。
目覚めての開口一番「お腹が空いた」が、それを如実に表している。
外はまだどんよりと曇っていたが、ザルバは出発を決めたようだ。
この後、山の麓の大規模な中継地に向かい、もし天候が悪化したらそこでやり過ごすつもりでいる。
「今日はそんなに距離はないから、次のピットには早めに入れるぞ」
アンナリーナが広めにかけ直した【結界】の中で、ゲルトとフランクが忙しそうに動き回っている。
「朝食の準備をしてくるよ」
中では衣服を正したキャサリンがマチルダとともに待っていた。
「あの、昨日は本当にありがとうございます。
主人から聞きました。
リーナちゃんがお薬を調合して下さって、それでこんなに早く治ったんだ、って。
あの、私……あなたにあまりいい態度を取ってなかったと思うの。
それなのに……本当にごめんなさい」
深く頭を下げるキャサリンに、アンナリーナは面食らう。
だが、彼女は知らないが、旅の間に風邪などを引いて、悪化させて死に至ることは、実はままある事だ。
一族が商人のキャサリンには痛いほどよく理解している話である。
「あのね、リーナちゃん。
キャサリンさんがね、お手伝いを申し出て下さったのよ」
マチルダが仲を取り持つように話し始める。
「本当に大丈夫? 今日は一日ゆっくりしてもらおうと思ってたんだけど」
その気持ちが嬉しくて、アンナリーナは食器の配膳などを任せる事にする。
こうしてキャサリンとの、微妙にあった距離感が取り払われ、アンナリーナは嬉しそうに微笑んだ。