36『肉屋のイゴル』
その日、いつもの朝を迎えたイゴル精肉店では朝一番の日課、燻製釜の火入れが行われていた。
最近、肉の需要が減っているが、多少日持ちのする加工品は以前と変わらない量を製造していた。
「親方、店の方で女将さんが呼んでます。お客さんのようですよ」
燻製用の木屑を乾かす意味で、肉を吊るす前に軽く燻す。
その後、各製品によって燻す時間は違うが、しばらくはこの場を離れても問題ない。
職人に燻製釜の見張りを言いつけて、イゴルは店先に向かう。
そこで、これから彼の生活を変える人物と邂逅を果たすのだ。
一見すると、護衛の冒険者を連れた可憐な少女だったが、すぐに見かけ通りではないと思い知った。
その瞳には万人にない知性と情熱を感じる。
「おはようございます。
今、こちらで商品の味見をさせていただきました。それでですね」
グイと詰め寄ってくる少女の瞳には狂気に近いものが見えて、イゴルは思わず仰け反った。
「ハム、ベーコン、ソーセージ。
そちらが売っても良いと思われるもの、すべてをいただきたいのです」
「正気か?」
思わず言葉に出た。
そこに女将が口を出す。
「あんた、このお嬢さんはアイテムボックス持ちで、馬車の旅の前に食材を仕入れたいそうなんだよ」
それなら話は分かる。
「嬢ちゃん、うちは毎日日替わりで燻煙していて今日はハムの日だ。
だが嬢ちゃんの気に入ってくれたソーセージならこれから準備して作ったとして、例えば明朝までにそれなりの量を納められる。
それを全部買ってくれるっていうのかい?」
「はい、もちろん。
それにハムやベーコンも」
イゴルは立ち上がり、少女の小さな手をがっちりと握った。
「任せとけ!」
それからのめまぐるしい時を、イゴルはワクワクしながら過ごした。
「これを使ってみて欲しいのです」
ローブの陰のアイテムバッグから出されたガラスの小瓶を見たとき、イゴルは自分が総毛立つのを感じた。
見たこともないほど細かく粉砕されたそれは……蓋を開けてみて確信した。
「嬢ちゃん、これは……胡椒?!」
小瓶とはいえそれなりの量だ。
同じ重さの黄金と取り引きされると揶揄されるほど、貴重なものだ。
平民の、こんな辺境の肉屋が扱っていいものではない。
「これをほんの少ーし、香りづけに使って下さい。絶対美味しいから。
ほんの少しだよ!」
ニッコリと笑う、だがその目は一切の妥協を許さない職人と似通っている。
「あと、よかったら手持ちのお肉を提供しますが、どうします?」
返事を待たずに取り出したのは、冒険者であるフランクよりも大きなオークだった。
……実はこの世界でオークを狩るにはそれなりの腕を必要とする。
それも決して一対一では対峙せず、複数人での戦いが常識だ。
だが、このオークは鋭利な刃物で首を切断している以外傷がない。
見たところ、血抜きも完璧だ。
「森猪もあるんだけど、すぐ血抜き出来なかったから使えないかもしれないけど……」
またまた取り出された森猪にナイフを入れて、肉質を確かめ、匂いを嗅ぐ。
「何も問題ない、というかうちがいつも仕入るものよりずっと良く処理されている」
結界に突っ込んで勝手に死んでいた森猪だ。一体いつ突っ込んだのかわからないため、最大で一晩放置されていたのだが問題なかったようだ。
「じゃあ、これも」
多少小ぶりな雄のトサカ鳥を取り出した。
首が落とされ、血抜きされているトサカ鳥は、このあたりでは滅多に見ない代物だ。
「嬢ちゃん、俺っ、今夜はこれを食いたい!!」
フランクはもう興奮が治らない。
「じゃあ、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げて、フランクを引き連れたアンナリーナが店から出ていく。
同時に、イゴル精肉店の全員が動き出した。
「えーっと、森に採取に行くだけなので、ついて来なくていいよ?」
何度仄めかしても、はっきり言ってもフランクはついてくる。
だが、はっきり言って邪魔である。