また雨が降る
明日は雨が降るそうです
「傘が小さいのっ!」
私の叫び声にお兄ちゃんはひどく驚いた顔をした。
その表情があまりにも何もわかってなさすぎて、私は泣きそうになった。泣くのを我慢して今度はすごくむすっとした顔になった私に、お兄ちゃんは困り顔。
「葵?」
お兄ちゃんが顔をのぞき込んでくる。
「……違うんだもん」
違うんだよ、お兄ちゃん。全然違う。
目の前には色とりどりの傘。たくさん並んだ傘の中からお兄ちゃんが選んでくれたのは、音符がついた青い傘だ。
「これは嫌なの?葵、こういうの好きじゃなかった?」
「好き……だけど」
私はもごもごとしゃべる。
「でもね、これじゃ小さいの。那奈ちゃんが持ってるのは、もっと大きいもん。ゆずかちゃんのも優実ちゃんのも、もっと大きいもん」
「もしかして、子供用じゃ嫌ってこと?」
唇を尖らせて、こくっとうなずく。
お兄ちゃんは私の不機嫌の原因がわかってほっとした様子だ。
「ここが子供用の売り場だから、婦人向けはあっちかな」
ふじんむけ。聞き慣れない言葉だった。大人用ってことかな?
「行こ、葵」
最近お兄ちゃんは手をつないでくれない。私はそれが不満でママに訴えたことがあるんだけど、ママは「お年頃だからね」って笑っただけだった。
お兄ちゃんに着いて歩いていくと、はじめにスーツのコーナーを通って、靴のコーナーを通って、そして最後に地味な色の売り場にたどり着いた。
「ほら、たぶんここだから」
たしかにそこには傘が並べられていた。でも、数えられるほどの本数しか置いてなかったし、何よりベージュとか黒とか地味な色の傘しかなかった。
「どれか気になる奴ある?」
少しも乗り気じゃなさそうな私の態度に、お兄ちゃんはまた困った顔をする。
「俺、こういうデザインとかよくわかんないから、ごめん」
お兄ちゃんは男の人だから仕方ない。でも、女の子の私が心を動かされないなら、きっとこれらの傘は本当に可愛くないんだ。
私とお兄ちゃんはお互いに困った顔をしていた。
でも、子供用の売り場に戻る気は私にはない。だって小さい傘で学校に行くなんて恥ずかしいもん。それくらいだったら雨にぬれた方がまし。
「もしかして……紅?」
突然知らない人の声が降ってきた。私の知らない人だったけど、お兄ちゃんは知っているみたいだった。
「……真音」
一瞬、お兄ちゃんが変な顔をした。お兄ちゃんがよくする困った顔とは少し違った。でもなんだか……変な顔。
「一緒にいるのは、妹さん?」
お兄ちゃんと同じ歳くらいの女の子だった。髪が長くて、可愛いワンピースを着ている。
「うん、まあ。葵って名前」
いつもより少しだけ低い声でお兄ちゃんが答えた。
こんなときママだったら、「ほら葵、自己紹介しなさい」なんて言うけど、お兄ちゃんは先に私の名前を言ってしまった。知らない人に自己紹介するのは得意じゃないから、ほっとした。
私はくいっとお兄ちゃんの腕を引っ張る。
本当は「誰?」って聞きたいんだけど、本人の目の前でそういうのを聞くのはよくないって知ってるから我慢した。
でもお兄ちゃんはそれには気づいてくれないで、
「真音は買い物?」
と女の子に聞いた。
「うん。傘を買いに来たの」
「あ、私と一緒だ!」
思わず大きな声をあげてしまった。
女の子が少しだけ驚いたみたいに私を見る。
「葵ちゃんも?」
ちゃんと名前を呼んでもらって、その女の子はもうほとんど知らない人じゃなくなった。だから遠慮なく大きくうなずく。
「うん!大きい傘買うの!」
「大きい傘?」
女の子(もう知らない人じゃないから真音さんって呼ぶ)が首を傾げると、お兄ちゃんが「ちょっといい?」と真音さんの耳元に何かささやいた。お兄ちゃんの息がかかったせいかくすぐったそうにしながら、真音さんがうなずく。
「葵ちゃん」
真音さんが優しく微笑んだ。
「私と一緒に傘を選ばない?」
「……一緒に?」
「うん、一緒に」
私はこっそりお兄ちゃんの顔を見上げる。お兄ちゃんはそんな私に小さな笑みを返した。
「ねえ、真音さん」
「なあに?」
「真音さんってお兄ちゃんの彼女?」
こういうことを聞けるのは小さな子供の特権だ。私はそれがわかっているから、精一杯無邪気に微笑んでみせた。
「ううん、違うよ」
少しくらいうろたえると思ったのに、真音さんは笑顔を崩さずに答えた。
お兄ちゃんは何も言わなかったけど、ほっぺたをわずかに赤くしていた。
「なあーんだ」
私はまた無邪気に笑って、
「私、真音さんと傘選ぶ!」
と、さっきまでの話題には興味をなくしたふりをする。
私はまだ小学生だけどね。
ふたりが恋をしてるってことくらいわかるんだよ。
こういうときってお兄ちゃんをとられるみたいで焼きもちを焼いちゃうものかもしれないけど、私は違う。
だって大好きな人には幸せになってほしいものじゃない?
真音さんはあんまりおしゃべりな人じゃなかったけど、話していてとても楽しかった。
紺色の大きな傘をバッと開いて、
「これ、いいな」
とつぶやく真音さん。それは大きいばかりのシンプルなデザインで、あんまり可愛くはない。
「どうしてそれがいいの?」
真音さんの着ている服はとても可愛かったから、その傘はなんだか不釣り合いだった。
「だってこれ、いちばん大きいから」
「……でも可愛くないよ?」
「私ね、大きい傘を探してるの」
大きな傘がほしいのは私も一緒。でも私のほしい傘と真音さんのほしい傘は、違う気がした。その違いをうまくは説明できないけど、たどたどしく伝えると、真音さんはちゃんとわかってくれた。
「葵ちゃんは、大人っぽい傘がほしいんだよね?」
「うん」
「私は、誰かを入れてあげられるぐらい大きな傘がほしいの。可愛くなくてもね。優しい人になりたいから」
真音さんは十分優しそうだ。初対面の私の傘を探すのを手伝ってくれるし、笑顔がとてもやわらかい。
私が理解できていないことを察して、
「ごめんね、訳のわからないこと言って」
と謝りながら真音さんが傘を閉じた。
「あのね、私、雷が怖いの。雨も嫌い。だけどある人が、大丈夫だって言ってくれて、少しだけ平気になった。たったひとことがね、こんなにも私の不安を消してくれたのは、その人がすごく優しい人だったからだと思うんだ」
ふんふん。聞きながら私は、真音さんの表情が変わったのに気づいた。
変な顔。さっきのお兄ちゃんと同じ。
さっきは見せなかったけど、真音さんもきっとお兄ちゃんとおんなじ気持ちなんだなって思って私は嬉しかった。
「私の傘、この間壊れちゃって。そのときに傘を貸してくれた人がいてね、そういう親切を受けると人ってすごく嬉しいものなの」
「……へえ!」
私は思わずにやけてしまった。
お兄ちゃん、なかなかやるじゃない、なんて思いながら。
「私もそういう人になりたいから、誰かを入れてあげる大きな傘がほしいの」
私は真音さんの話に納得しかけて、途中であれっと思った。
「駄目だよ!」
「え……?」
「だって真音さん、お兄ちゃん以外の人と相合い傘するってことでしょ?」
そのときの真音さんの表情は、私より小さな子供みたいにきょとんとしていて無防備だった。
「そう……だね」
今初めて気づいたという様子だった。
ダメダメ!ここは私がお兄ちゃんの救世主になってあげなくちゃ。
「傘じゃなくて、別の人助けをしたら?」
「……うん」
真音さんは素直にうなずいた。
そんなやりとりがあった後、真音さんは黒地に白い水玉模様の傘を選んだ。そんなに大きくはなくて、デザインはシンプルだけど真音さんに似合って可愛い。
そして私は。
「うん。可愛いよ。葵ちゃんの色だね」
そう言って真音さんが微笑んだ。私はその笑顔が大好きになってしまった。
最初にお兄ちゃんが選んでくれた青い傘。
お兄ちゃんは私の好みをよくわかっている。
大きくなくても、自分の気に入った可愛い傘がいい。小学生なんだもん。小さな傘が今はいちばん私に合ってる。
読んでいただきありがとうございます。
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