第五話 永久不滅/バニラ
スワロウの向かいにある裏路地を、なんとなく通った時だ。
いつもとは違う道を通ってみようとか、そんな感じ。
そこにあったのは絵本に出てくるみたいなおうち。それを無骨な足場が囲んでいるのがなんとも不釣り合いで、それにかかっている看板がなんとも気になった。
予定地のところにはケーキ屋と書いてあった。はて、もう建物自体はほぼ完成に見えるから、オープンも近いのかもしれない。
「すぐ向かいにケーキ屋ができるそうなんですが、知ってました?」
ロビーに飾ってある花の枝を切っていたところに、まだ私服のニコルさんが通りかかったので声をかけた。コックの服を着ているときはきっちりオールバックに整えられている髪が降りているせいか、なんとなく幼く見える。まあ皆守よりでっかいんだけども、これよりもでかい長谷寺という非常勤がいるからこの世は恐ろしい。
しかしいきなり聞いたせいか、青い瞳はきょとんと丸くなってしまった。日本語通じてないわけじゃないと思うんだけども。
「おはようございます。それは、裏の、細い道にあるものですか」
「あ、おはようございます。そう、それです」
「はい、知っていましたよ。大和がとても嬉しそうに教えてくれました。まだあの店が……ええと、骨……とても細い時から」
「……骨組み?」
「骨組み!イエス、木のとても立派なものでした」
あーわりと前からあったのか。ニコルさんがにこにこしながら教えてくれたが、全く知らなかった自分が不思議でならなかった。あんままわりを見る人間じゃないけどなあ、これは反省ものだなあ。
私はぽりぽりと首を掻いた。
「ウエディングケーキでも作ってくれないですかね」
「ふふ、そうだとうれしい。でも難しいです、恐らく」
「ですよねー」
でっかいウエディングケーキにはそれ専門の製造業者がいて、スワロウも例に漏れず外部にお願いしている。無論ケーキ屋がウエディングケーキを作ってくれるだろうとも思っていない冗談だったので、へら、と笑って流しておくが、ふと大和くんが嬉しそうにしていたというのを思い出す。幼さの残る少年が甘いもの好きという記憶はなんとなくあるし、納得もいった。まあそうでなくても大男の皆守も私も馬場ちゃんも甘いものは嫌いじゃないらしいし、ケーキ屋ができていいことには違いないだろう。
「楽しみです、お店ができたらみんなで行きたいですね、っと」
ぱちん、と枝を切る音が思いのほか大きく響いたけれども声は届いただろうか。
ちらりと顔を上げれば、それはもう満面百点満点の笑顔があった。
「はい、行きましょう。ぜひ、荒木さんも一緒に」
うっ眩しい。相変わらずスマイルが太陽の眩しさと並ぶニコルさんは、「では」とキッチンに向かっていった。本当にいい人だ。すごいいい人だ。陰っちゃうわ。
あのオーナーにしてこの職員ありというか、スワロウにいる人たちはなんやかんやを抱える人ばかりのはずなのである。オーナーは、そういう人だった。
迷ってる私を拾ってくれたり。
荒んでた皆守に手を差し伸べてくれたり。
詳しくはないけども、ニコルさんも、大和くんも、長谷寺も馬場ちゃんも、あの蔦木も何かあったのだろうか。
そう思うと、あの笑顔が、とても物悲しく見えたような気がした。
しかしはっとする。
「……なんでニコルさん最近来てるんだろ」
結婚式の予定もないのに。悲しいことに。
だけどそれなのに厨房でなんかしてるっていうのは、新しい料理でも研究してるのかな。
私はなんとなく納得して、花を整える作業に戻ることにした。ケーキ屋さんか、かわいい店員さんとかいたらいいかなって思うくらいで。
周りに執着しないこと。それが周りを見ないことにそっくりだっていうのには、すぐには気付かなかった。
スワロウの調理場に基本的に足を踏み入れてもいいのは、料理長ってことになってる大将ことレッドワン・ニコルさんと、たまーにしか見ないんだけどもめっちゃくちゃ料理がうまい長谷寺蓮二さんと、そしてこの俺、朝柄大和くらいってもんっス。大将と長谷寺さんに並んじゃっていいのかってすっげえ肩身が狭い気もするんスけど、お二人から知識を盗めると考えたら頑張るしかないっスよね!
と意気込みは誰にも負ける気はしない、んだけども、どうにもうまくいかないことが多くって多くって。
「わーーすんませんっス大将、電車に乗り遅れたっスーー!!!」
今日もどたばたとコック服を着ながら調理場に滑り込んだ。すると、今日はそれを受け止める視線がふたり分あった。でも、長谷寺さんじゃない。長谷寺さんより背は低いけど、ニコルの大将くらい綺麗な顔があった。いや長谷寺さんもかっこいいとは思うっスけどなんかあの人根暗なんでなんともかんとも。
「……君、ここは調理場なんだろう。埃を立てるような真似はよすべきではないのか」
睨むような視線を受けて俺の喉がひっと引きつった。
そこにいたのは、清掃用なのかラフなシャツに身を包んだ、確か蔦木秋人っていう、綺麗なにーちゃんだった。鋭い目が俺を刺してくるのに慌てて大将の後ろに駆け込んだ。
「な、なんでこの人がこんなとこにいるんスかぁ」
「ふん、俺は清掃員だからな。こちらも清掃をすべきかという相談をしに来たのだ、ここの主が彼だと聞いたのでな」
「イエス。大和、蔦木さんの言うことは正しい。きちんと身と行動を整える、大切です」
「そ、それもそうっスね、すんませんっス」
「わかればいい」
ふん、と腕を組む蔦木さんはやっぱなんか高圧的だ、見た目通り。首が隠れるくらい長い茶髪に綺麗な体躯をしてるから、ホストさんに見える。チャラチャラしてると言ったら殺されそうだけど。でもそれなのに、確かに仕草は俺なんかよりもきっちりしてるから、俺は黙って言う事を聞くしかなかった。
大将の後ろでいそいそと服を着ていると、テーブルの上に昨日からねかせてあった生地が置いてあるのに気づいた。ラップをしてあるからよかったものの、確かに、大事なものの前で俺はいけないことをしたんだ。しっかり何回も考えて考えて、反省した。
「あの皆守とかいう男の誕生日が近いそうじゃないか」
すると蔦木さんからびっくりする言葉が出た。
「え、なんで知ってるっスか!」
「今さっき、おまえが来る前にニコルに聞いたばかりの話だがな」
「うええ、大将なんでこいつには教えちゃうんスかぁ」
「こいつとはなんだ坊主」
「ぼ、坊主じゃないっす、大和っス!」
「大和、蔦木さんは……truthful?」
「……誠実って言いたいんっスか?」
「せいじつ」
「真面目てことっス」
「イエス!」
「うええ、いや、俺まだあんまり蔦木さん知らないんでなんとも言えないっスけど……」
まだ俺にとっては怖い印象しかない人を、大将は思ったより信用しているらしかった。荒木さんにさえ喋っちゃいそうだからとか言ってこっそり秘密にしてるっていうのに。
ちら、と蔦木さんを見上げると眉間にしわがまだ残っていた。うわあまた怒られるだろうか。やだなあ。
「……大和くんだったかな」
「……別に大和でいいっスよ?」
「ふむ、では大和。君案外バカじゃないんだな」
「な、どういう意味っスか!!ひどいっスよ!!それ言うなら蔦木さんも思ったよりチャラくないんスね!!」
「訂正しよう、バカじゃないがバカだ。……ではなくて、ニコル、ここの清掃は俺が踏み入る必要はないんだな?」
「ふふ、はい。こちらは私たちが行います」
「ずいぶん幸せそうだな、……まあいい、せいぜい良いものを作ってやるんだな」
やっぱり蔦木さんはきっぱり言い切る強気な人だったけども、最後にひらりと手を振ってくれたのは間違いになく俺にだった。
……うーん、優しいのかな?結局よくわからなかったけども、大将を見上げればすごい笑顔があった。
……いい人、らしい。大将が認めるなら。
「……でもやっぱりちょっと苦手っス」
そうやって呟いた俺に大将はまた笑ったけど、俺の胸の中はずーっともやもやが残って、気持ち悪いったらありゃしなかった。
さて、このスワロウの面々とも会話は幾度か重ねただろうか。普通の女性らしからぬ女性に惹かれて来てみれば、存外に個性的なメンツが揃っていて元職場よりは居心地がよいような気がした。
本当に、無駄に気を使うこともなく、競うこともなく、ただ人の幸せを客観的に願う職など。
窓を拭いた布をしぼっていると、窓の外に荒木が見えた。中庭を挟んだ向かいの廊下だ。
ぼうっとした眠いような顔で歩いているが、何やらつまづいたように身が揺れた。本当に眠かったのだろう、がしがしと頭を掻いてそのままどこかに去っていった。
カフェで雑誌やら新聞を睨む横顔を、何度も見た。一般的にも綺麗に入る女性だと思うが、雰囲気が、なにか違った。年齢は聞くに俺と同じだが、同年代の女性とは何かが違うのだ。男が苦手そうだという第一印象と、それから、彼女の女性を見る目だ。
やけにきらきらと輝いた視線を送るのだ、彼女は。
それが、一体どういうものなのか。
それに『同じ』だと親近感を覚えた自分は、正しかったのだろうか。
「まあそうでなくとも、面白い女性であるしいいんだがな……」
まったく、『このこと』で悩むのは学生のときぶりだ。小さく息を吐くと、足音が廊下の隅に聞こえた。顔を上げてみると、まだ少女かと見間違うような人物がいた。女性の顔を覚えるのは得意だ。俺と目があったのに馬場敦子は大仰になほどに体を揺らして驚いた。
「おはよう。といってもきちんと言葉を交わすのは初めてか」
「はっ、はいっ、どうも蔦木さん、初めまして!馬場敦子と申します!」
「そんなに緊張しなくてもいいんだが」
「い、いえ、男性とあんまり話したことなくってですね……いえすみません、話せるようにならなくてはいけませんね、はい」
荒木よりも小柄な少女――だろうか、新人と聞くあたり大学生くらいの年代に見える彼女は俺のそばで立ち止まるとはっきりと目を合わせてくれた。元気そうな子だ、と素直に思った。けどもこの子もなんかありそうだな、ここの連中は誰だって一筋縄でいかないらしいから。
さて、せっかくの女性との初対面なのだからいい印象を持たせて悪いことはないだろう。彼女と共通に話せる話題があっただろうか、と考えてすぐに思いつくのは俺の天性のものかそれとも。
「皆守だったか、彼とは親しいのか」
「皆守さんですか?親しい……ですかね、いえ、親しいつもりです!お酒を飲んだり、ご飯食べたりしますよ!」
「へえ、親しいじゃないか。彼の誕生日が近いと聞いたんでね」
「なっ、何故それをご存知で……!」
「大丈夫だ、荒木には秘密なんだろう。口外はしない」
「ほっ……」
「まあなんだ、同僚であるし軽い品でも贈りたいと思ったのだが、まったくもってあいつの趣味がわからんもんでな。なにか知らないか」
「趣味、ですか……?」
馬場がやけに大慌てしだしたと思ったら、内緒にしろとかいうニコルの話が通じていたのか。納得して気になっていたことに話題を切り替えたが、それ以上馬場が言葉を発することはなかった。
「いいよ教えてあげる、教えてあげる、嫌ってくらい私知ってるから、ね」
馬場の肩に手が置かれたが、俺じゃない。俺じゃないなら誰だ。
馬場が振り向いた先で荒木がにっこり笑う。
……ステルスとかそういうレベルじゃないだろう。
真っ青になった馬場とは対照的に、俺はニコルのいう『荒木は嘘が付けない』がどれくらいのものか知らないので、ああと肩を落とすだけにしておいた。
それだけじゃない、俺はまだまだここの人間のことを知らなすぎたし、その人間たちも俺のことは知らないに等しかった。
時はまだ五月の真ん中だ。だが、皆守志郎の誕生日は、すぐそこにあった。