バイバイ・トリップ
「続いて、次のニュースです」
テレビのキャスターが無表情に原稿を読み上げる。
小さな部屋に時折食器が触れ合う音と朝食を咀嚼する音だけが響く。
「昨年八月に発生した東京都××区で起きた死体遺棄事件の容疑者と思われる人物が特定されました」
箸を動かす手が止まった。
「容疑者と思われる男は10月に新青森発東京行の新幹線の中で死亡した男性と同一人物だと認定されました。詳しい経緯は不明ですが、容疑者は病死したと思われ、警察は逃走の経路も含めて捜査中です。警察によりますと、捜査が終わり次第被疑者死亡のまま送検するとのことで……」
池宮響子は食器を手早く片付けると、テレビを消した。そして、小さな位牌二つに手を合わせると、職場へ向かうために家を出た。外は雪が舞っていて、響子は首を竦めた。札幌の空は灰色の雲に覆われていた。
○
その日の教員会議は倦怠感に充ちていた。いつものことだ。形だけの議論はするものの、誰も積極的に発言しようとしない。旧式のクーラーのがりがりいう音だけが職員室に響いていた。
誰もが責任を取るのを恐れているのだった。そんな教師たちの中に若槻タケルはうずもれていた。
タケルが小学校教諭を職に選んだのは人生のほとんどを占める仕事を意義のある物にしたかったからだ。幼い子供を預かり社会へ送り出してゆくこの仕事はとても意義深いものに思えた。しかし、青く高潔な意志はいつしか薄れ、大多数を占める無責任と怠慢に足を取られて、いつのまにかルーチンワークをこなすだけの日々を送るようにになっていた。
誰かがぼそぼそと発言した。誰が話しているのかはわからなかった。最前からの鈍い頭痛の所為で意識が朦朧とする。薄靄のかかったような頭で皆がこちらを向いていることについて考えをめぐらせた。その問題児はタケルの受け持ちだった。
会議が終わった。タケルが職員室から出ようとすると、若い女性教師がついて来た。
「磯山先生」
タケルが声をかけると少し年上のその女性はぽってりした唇をほころばせ、笑みを浮かべた。
「お疲れ様でした、若槻先生」
相手のねぎらう声にタケルはため息をつく。その時には鈍痛は去っていた。
「ほんとうに大変でした、まったく」
磯山はくすくす笑うと、タケルの肩をたたいた。
「本当に大変なのはこれからですよ。でも無理はしないでね」
そういって微笑むと、コツコツと足音をさせながら追い抜いて行った。タケルはその後ろ姿を見送ると、少しだけ仕事へのモチベーションが高められた気がして、先ほどよりも足音軽く、歩き出した。
こうして、若槻タケルの教員生活は過ぎていった。一般的な水準から言って大過なく過ごしていたと言っていい。小学校教師として保護者や児童からまずまずの評価を受けていた。不満を抱えながらも彼は社会人として着実に歩いていった。若い男性として、恋人もいた。彼は時々恋人と同衾し、私生活でも何不自由ないある種の特権的な地位を手に入れていた。
そんな生活を送りながらもタケルは心の奥底に消化しきれない石のようなものを抱え込んでいた。たとえるならば熾りきってない炭火のような、そんな不完全燃焼を感じていた。
ある週末の一日、彼は何時ものように恋人の部屋で眠っていた。季節は夏で、お互い裸だと言うのに寝苦しい夜だった。
その日、彼は夢を見た。懐かしい夢だった。
「……束だよ。約束だよ!」夢の中で少女が声を振り絞って叫ぶ。少女の顔は霞がかっていてわからない。顔をよく見ようと近づこうとする。あと少しで顔がよく見える。そして顔を覗き込んだその時、タケルは目を覚ました。
いつもの夢だった。幼いころ少女と交わした約束。少女の顔ももう思い出すこともできない。それくらい昔の出来事。少女はどこかで元気でやっているだろうか。彼は守れなかった約束を思い、胸に小さな痛みを感じた。ぼくは、ちゃんと思い出にできただろうか。彼女の幸せをただ願えるくらいに。
タケルが物思いにふけっていると隣で身じろぎする気配がした。
「起こしちゃった? ……磯山先生」
「家で先生はやめて」
「ごめん、真紀さん」
真紀は憮然とした表情でたしなめると体を起こしたタケルに優しく話しかけた。
「嫌な夢でも見たの?」
「いや、とても懐かしい夢を見たよ」
「そう、ならよかった」
その時、あの鈍痛がタケルを襲った。タケルは歯を食いしばり、釣鐘を打つような頭の痛い身を必死にこらえた。夏の暑さのせいではない汗が体中から噴き出た。傍らの真紀は体をぱっと起こすと常備薬の頭痛止めを持って、タケルの頭を抱いた。素早く包装紙をはがしタケルの口にねじ込む。しばらくして、タケルの苦しみは潮が引く様に去っていった。
眼を開けると、霞む視界に心配そうな真紀の顔が映った。
「ねえ、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「病院、行ってみない?」
もう何度目かもしれない問答を繰り返す。
「たまに痛むだけなんだ、本当に。普段は大丈夫だから」
「でも、痛むんでしょ。今度、定期検診があるわよね。その時に言いなさい。わかった?」
教師の顔を取り戻して、真紀は命じた。こうなると真紀は引きずってでも言うことを聞かせる人間だ。わかったよ、とタケルは答えて、そしてそのまま黙ってしまった。
二人の間に、沈黙の帳がおりた。ふたりとも相手のことを気遣いつつも、何も言わなかった。
沈黙を破ったのはタケルの方からだった。
「磯……真紀さん、ぼくらの人生の意義は何だろう」
「またその話?」
真紀は呆れた声を出しながらタケルに寄り掛かった。
「そうね。私たちはたくさんの児童の多感な時期を育み、社会に送り出す。それはとても意義深いことだわ。そんなところでどう?」
「それじゃだめだよ。それは理想の教師像ではあるけど現実はそんな綺麗なもんじゃない。ぼくも、真紀さんも知っているように」
真紀はタケルの髪をそっと撫でた。タケルはその手をそっとつかんだ。真紀の手は暖かかった。
「人生には何か意義があるはずなんだ。ぼくらが明日死ぬとして自分の人生を、価値ある人生を生きたと言えるだろうか。このままの人生で本当に後悔しないだろうか。ぼくには、いやぼくらにはみんな為すべき何かがあるはずだ。ぼくの人生は何のために……」真紀はタケルの手を強く握った。
「タケル君、考え過ぎよ。そんなに自分を追い込むことないわ。あなたも普通の人生を生きていいの。普通に仕事して愚痴を言って、結婚して、子供作って、休日には家族で遊びに行く。そういう人生を生きていいの。確かにほとんどの人は自分が人生で何を為したかもしれないまま一生を終えるかもしれない。でもそれがその人の一生懸命生きた結果であればとても貴いことだわ」
「一生懸命……」
胸がチクリと痛む。あの時の少女はどうだろう。一生懸命生きているだろうか。いや、ぼくはどうだ。あの時の少女が問いかけてくる。ぼくはあの子に恥ずかしくないくらい一生懸命だろうか。タケルは胸に焦燥感のようなものを抱えながら真紀の白い裸体に手を伸ばした。
○
昔、タケルがまだ内向的で、外の世界との付き合い方をよく知らなかった頃、タケルの世界に一人の異物がやってきた。小学四年生のときだった。教卓の前に先生と並んで立った少女はかたく拳を握りしめ、何かに耐えるように震えていた。転校生だと紹介された少女はタケルとすぐに仲良くなった。何がきっかけだったかなんて思い出せない。たぶん何かの委員会が一緒だったのだろう。二人はいろんな話をした。いろんな所へ行った。タケルにとってはほかの男の子と遊ぶより彼女と一緒に居る方が楽しかった。そのせいでいろいろからかわれたりもしたけどタケルはこの関係がずっと続くのだと思っていた。同じ町内に住み、同じ中学校へ進み、そして二人の関係は緩やかに発展していくはずだった。この関係は一生続くのだと子供心に思っていた。
しかし、二人の道は閉ざされていた。タケルの母が私立の中学校へ進学することを頑なに望んでいて、当時のタケルにそれを拒む力はなかった。
結局、タケルは東京の私立中学校に合格し、一家そろって引越すことになった。タケルとその子が逢う最後の日、小学校の卒業式の日に二人は約束した。10年後、もっとずっと立派な人間になって再会しようと。
タケルにとってその約束がどれほどの励みになっただろう。内向的だったタケルは新しい環境で必死になって周囲に順応しようと努力し、やがて他人と関わることが苦にならなくなっていった。病気がちだった身体は日々たくましくなっていき、一回りも二回りも大きくなった。タケルにとって「10年後の約束」は神聖な思い出となっていた。
やがて、中学校を卒業し、高校に入学し、その高校も卒業した。タケルは都内の名門私立大学に入学し、そのうち教職を志すようになった。その頃になると、少女の面影も薄れ、ただ幼い日の神聖な思い出だけがタケルの中に残っていた。
約束の10年目、タケルは約束の日のことをよく覚えていた。ちょうど大学を卒業する年だった。教員採用試験にも受かり、暇を持て余していた時期だったから行ってみてもよかったのかもしれない。だが彼は行かなかった。「10年後の約束」は彼の中で思い出になってしまっていた。かつてあれほど切実に、希望を込めた神聖な約束も、日常の波に揉まれ、ただかつて自分は美しい約束をしたのだという思いがわずかな残滓となって彼の中に残っていた。出来れば彼女も忘れていてほしい。タケルはそう願った。彼女の中でも美しい思い出として僅かでも残っていればいい、そう思った。
○
ある日のこと、教室はざわついていた。教室に、いつものような児童の嬌声はなく、代わりに香水や整髪剤の匂いが漂っている。今日は市民学級の日だった。この学校では市民と学校の懸け橋を御題目に、伝統的に市民を招待して授業を行うイベントが開かれていた。タケルは若いと言うだけでその講師役を押しつけられてしまったのだった。
地域史に関する簡単な授業が終わった後タケルは教室から出ていく女性に目を惹かれた。こう言ったイベントに顔を出すのは暇を持て余した老人ばかりだ。彼女は若く、こういったイベントに興味を持ちそうもない。それにどこか面影に見覚えがある。タケルは声をかけようとした。だが何と言って声をかければいいのだろう。逡巡する間に女性は姿を消してしまった。タケルの心はざわめいたままだった。
イベントのすべての工程が終わり、職員室へ戻る道すがら、やはり声をかけておけばよかったとタケルは後悔していた。
ちょうど職員室の前まで来たところだった。
「先生」
聞き覚えのない声が彼を呼んだ。
振り返るとさっきの女性がいた。薄茶色の髪に薄い唇。眉をひきしめて睨めつけるようにこちら見つめる瞳。
「タケル君、久しぶり」彼女はこともなげに言った。「それとも今は若槻君って言った方がいいかな?」
タケルの脳裏に微かに夢の少女がちらついた。
「……千夏、なのか?」
「ピンポーン。改めまして、お久しぶりです、若槻君」
それが池田千夏との再会だった。
タケルは彼女を喫茶店に誘った。ちょうどその日の勤務はその時間で終わりだった。残務処理を他人に押し付けて、二人は連れ立って街へ出た。と言っても大して大きな街ではない。二人は一軒の喫茶店に入った。
千夏はどこか疲れた雰囲気を引きずっていた。それは整えられた髪や薄く塗られたリップにそこはかとなくあらわれていた。まとわりつく寂れた雰囲気に彼女が幸せではないのだろうか、と思った。
千夏は工場で働いていると言った。千夏の表情は自分の仕事に誇りを持っている風ではなく、日常の糧を得るための労働だと割り切っている風だった。タケルは久方ぶりの再会に、我を忘れて千夏を見つめた。やはり何気ない所作に日常の残滓がただよっていて、あの頃の、今にも爆発しようとする気体を内に押し込めたような無邪気な元気さは失われてしまっていた。それでも瞳の奥にはあの頃の知性の輝きが光を放っていて、彼女にその目で見つめられるのは無性にうれしかった。
タケルは二人の近況を話し終えると、もう話すことがなくなっているのに気付いた。あの頃のことはまだ胸に残っている。でもあの大切な思い出を言葉にして劣化させてしまうのはなんだかとても嫌だった。千夏の方もそれは同じだったのだろう。二人の間にあの頃の話が上ることはなかった。やがて二人は言葉少なになり、黙ってしまった。二人の間に話すことがなくなってしまった時、タケルはもう二人の道が交わることはないのだと知った。タケルは儀礼的に連絡先を交換すると、用があるから、と言って席を立った。千夏は坐ったまま、またね、といった。その笑顔は昔のあの頃のままで、ずきりと胸が痛んだ。
○
その後二人が再び出会ったのは全くの偶然の産物だった。タケルが児童の家庭訪問を行った帰り道、小さな工場で怒鳴り声が聞こえた。顔を向けると、亜麻色の髪の少女が胡麻塩頭の中年に怒鳴られていた。見るともなしに見ていると怒鳴られていた少女がふと振り返った。少女はタケルに気付くとばつの悪そうな顔をした。千夏がそこにいた。
千夏は、ひとしきり胡麻塩頭が怒鳴ったあとで立ち去ると、さっと駆け寄ってきて、タケルに耳打ちした。
「ごめん、この後休憩だから待っててくれる?」少女の汗の匂いがさっと通り抜けた。
思わずタケルはうなずいて、千夏が休憩に入るまでの時間を潰す場所を探し始めた。
千夏は休憩に入ると真っ直ぐ近くの木陰で涼んでいたタケルの下にやって来た。
「ごめんね、恥ずかしい所見せちゃった」
「いや、そんなことないよ。……ずいぶん荒っぽい所で働いてるんだね」
千夏は手をさっと後ろに隠した。油で黒ずんだ指を見られたくなかったのだろう。タケルはなぜだかとても悲しい気持ちになった。
「あの人、ヒステリーなの」
そういって、顔をしかめた。そうすると、子供のようなあどけない表情になる。続いてかけられた言葉はタケルにとって思いがけないものだった。
「ねえ、この後うちに来ない?」
タケルは逡巡した。なにかが、変わってしまう予感がした。このまま別れれば今までの日常が続いていくだろう。退屈とルーチンワークのような日常に少しずつ心をすりつぶされながら、それでも十分幸せな毎日が待っている。脳裏に真紀の顔が浮かぶ。ここでついて行ってしまえばどうなるのか。何もかもが変わってしまう予感がした。
少したって顔を上げたタケルにはもう逡巡の痕は見られなかった。
「いくよ、千夏」
脳裏から、真紀の面影は失われていた。
国道沿いにしばらく歩いて20分。千夏の家は贔屓目に見ても裕福とは言い難い状態であるように思われた。木造二階建ての小さな住宅で、周りの家の陰に隠れるように建っていた。
千夏は引き戸を開けて中へ招き入れた。他人の家特有の何とも言えない異臭がタケルの鼻を突く。とても嫌なにおいだった。三和土で靴を脱いで小さな廊下を通り抜けるとそこはもう居間だった。六畳ほどの居間は雑多にものが積まれており、実際よりも狭い印象を来客に与えている。千夏は中央に据えられた背の低いテーブルから物を払い落とすと、「坐っていて」と座布団を引っ張り出して、次の間へ入っていった。しばらく手持ち無沙汰な時間が続いた。
タケルは手持無沙汰を理由に部屋を無遠慮に眺めまわした。部屋のそこここに生活の匂いが積み重なっており、どこからともなくそれが匂ってくるように思われた。部屋を眺めまわすうちに、次の間への襖が小さく空いているのに気付いた。タケルは何かに憑かれたかのように膝でにじり寄った。そしてそっと襖に手をかけると、少しだけ開いた。
その部屋には何もなかった。ただ大きなベッドだけが置かれていた。千夏が後姿をこちらに向けてベッドの横の機器を操作している。ベッドの主は時折小さく呻き声を上げ、芋虫が悶えるように体をよじる。
タケルはしばらく呼吸も忘れて見入っていた。気付くと、操作を終えた千夏がこちらを向いていた。慌てて弁解しようとしたタケルを千夏は目で制した。
「きて」
千夏は微かに聞き取れる声で囁いた。それは閨でのささやき声に似ていた。タケルは抵抗することもできず、ふらふらと次の間へと足を踏み入れた。
タケルが足を踏みだすごとに、闖入者に抗議するかのように床板がギシギシとなった。ベッドの前に立った。ベッドには知らない女性が寝ていた。頬はこけ、痩せ細った老婆が横たわっていた。
「お母さん」千夏は小さくつぶやいた。
千夏の母には何度かあったことがある。闊達とは言わないまでも、明るく、人懐こい女性だった。横たわる老婆はタケルの知る千夏の母とはまるで違う顔付きをしている。まるで、いろんな人間の苦悶の表情を縒り合せたような、そんな醜い表情だった。
「お母さんね、数年前に事故にあったんだ。命は無事だったんだけどね。頭を打ったみたいで意識が戻らないの」
感情の籠らない声で千夏はそうつぶやいた。
「今は私が介護してる。生命維持装置の維持費が馬鹿にならなくてね、大変なんだ」
そういって笑った。その笑顔は疲れと憎しみがないまぜになった言葉にできない感情で構成されていた。
タケルはやっとの思いで「ほかに、誰もいないのか」と囁いた。
「いないよ。私、天涯孤独の身だもん」
なんでもないような声でそういうと、彼女は「ヘンな所見せちゃったね。もどろう?」と言って背を向けた。
不意に、重い鎖が軋んだような気がしてタケルはベッドを振り返った。ベッドの足から伸びたその鎖は千夏の足を巨大なベッドに繋ぎとめ、縛りつけていた。
タケルは、外に出たとき思わず大きく息を吸い込んだ。熱い、新鮮な空気が肺を満たした。それは生の気配に満ちていた。淀んだ空気が体から一掃されるような心地だった。あの家は淀んでいる。時が止まっている。あの家に千夏ががんじがらめに縛られているのがタケルにとっては耐え難いことだった。あの闊達な、何にでも興味を示す好奇心の塊のような少女はもういなくなってしまったのだと知って、彼はどうしようもなく悲しい気持ちになった。
○
定期検診の日。タケルは朝からずいぶん待たされて、ようやく検査室に通された。そこは隣街の総合病院で、県内でも有数の設備を誇っていた。よくわからない機械に体を押し付けられたり、大きな機械をくぐったりして、血を抜かれた。結果が出るまでお外でお待ちください、という声に押されて彼はほうほうのていで検査室を出た。またしばらく待たされて、今度通されたのは初老の男が忙しく書類をめくる音が響く診察室だった。書類をめくり終えると、男はタケルの方へ振り返って、まあまあどうぞお座りください、と言った。奇妙に優しい声だった。まあね、その、世の中にはね、こういうこともあるから、あなたも心を強く持って、ね、わかるでしょ。初老の医者は訳の分からないことを早口でまくしたてた。何故だか不安になった。初老の医者はまじめな顔つきをして、今度はゆっくりと話しかけた。
「ここ最近、頭痛や吐き気はありませんでしたか」
タケルは呆然としていた。何も考える気力がわかなかった。あの診察室からどうやって自分の家まで帰ってきたのか思い出せない。タケルはベッドに横になり、暗い天井を見上げていた。この姿勢のままもう何時間たったか知れない。外はもう明るくなったのだろうか。診察室での最後の記憶を呼び起こす。
初老の医者は奇妙に平坦な声で、タケルに告げた。
「貴方の脳には腫瘍ができています。悪性です。場所が場所なので手術は難しいでしょう。そうですね、半年もてばいい方でしょうね」
腫瘍です。腫瘍です。腫瘍です。この言葉がぐるぐるとタケルの頭の中を巡る。
なぜ自分が。この言葉がわき起こってくると見る間にそれに頭を支配された。この国には1億人も人間がいる。その中でなぜ自分なのだ。何故自分ひとりが脳腫瘍という罪業を背負わなければならないのか。不意に頭がカッと熱くなった。タケルは起き上がり、手近にあったマグカップを投げ捨てた。ラックの上の写真立て、部屋に似合わないかわいらしいぬいぐるみ、本棚の本、全てを投げ捨て、引きちぎり、破り、叩きつけた。30分もしないうちに部屋は泥棒の入った部屋でもかくやというほどに荒れた。それでもタケルの気は晴れなかった。押し入れにしまってあったバットを取り出すと、それで手当たり次第に壁を、床を殴りつけた。バットがへこみ、部屋が穴だらけになった時、タケルは部屋の中央で立ち尽くしていた。
「俺の人生はなんだったんだ」
小さくしゃがれた声だった。
「俺は何のために生まれてきたんだ。なぜ俺が死ななければならないんだ。どうして俺が……」
その時小さな光が見えた気がした。小さな光はタケルの脳内で次第に大きくなって、やがて、優しい少女の寂しそうな笑顔に変わった。
タケルはハッとした。約束を守れなかった自分、生に意義を見いだせなかった自分、不幸な女性から目を反らしている自分。あの頃に戻りたいとタケルは強く思った。あの優しく、暖かで、太陽の光がさんさんと降り注いでいた時期。せめて、彼女だけでもあの頃に戻してやりたい。タケルは心を決めた。千夏を救おう。残りのわずかな自分の人生を千夏にささげよう。荒れ果てた部屋に立ち、タケルはそう誓った。不思議と心は穏やかになっていた。
次の日、学校に辞表を提出した。教頭は突然の辞意に驚いたようだったが事情を話すと、いたく同情してくれた。話し合った結果、引継ぎを含め一か月後には正式な辞職と担任の交代が行われることになった。タケルの身体と残された時間を考慮しての措置だった。
タケルはこのことを誰にも話さないでほしいと頼んだ。同情されたくないからと。教頭は訳知り顔で頷いて、黙っておくことを約束してくれた。タケルは真紀のことを考えた。真紀はこのことを知ったらどう思うだろう。たぶん泣くかな。きっと泣くだろう。優しい女性だから。その女性を彼はいま裏切ろうとしている。彼が最期の時を過ごすのは彼女とではない。タケルは安穏と優しさの中で死ぬ未来を捨て、暗くつめたい死に場所を求めていた。
○
タケルは一か月かけて長い手紙を書いた。癌のことは書かなかった。彼女はきっと自責の念に駆られてしまうだろうから。ただそれ以外の自分の思いを全て込めたつもりだった。その手紙を奇跡的に無傷だったテーブルの上に載せ、ドアを開けて外に出た。鍵はかけなかった。きっと、真紀が見つけてくれると信じて。
タケルが千夏の家についたとき、夜は明け白んだばかりだった。チャイムを押すのもはばかられて、黙って立ち尽くしていた。
30分もそうしていただろうか、不意に、ドアが開いて亜麻色の髪が飛び出してきた。作業服に身を包んでいる。
そういえば工場は朝が早いと言っていたことがあるな、そんなことを考えながら自転車の用意をする千夏の前に立った。
「タケル君!?」驚いた顔をして千夏は立ち尽くした。
タケルは何か言葉を探すようにしばらく口をつぐみ、そして意を決して訊ねた。
「千夏、いま、しあわせか?」
この時、おかしなことにタケルは千夏が不幸せだと答えるよう願っていた。もし幸せだとあの満面の笑みで言われたら、タケルにはもう何もなくなってしまう。この時タケルは生涯で唯一彼女の不幸せを祈っていた。
果たして千夏は答えなかった。千夏は下を向いたまま、足先だけをもじもじと動かしていた。まるでそうすることで時間が速く過ぎてゆくかのように足先以外は微動だにしなかった。
タケルはコホンと空咳をした。そうして、千夏の手を取ると、その手の温かみを感じながら顔をあげさせた。
「千夏。俺と逃げださないか。工場も、親も、全部捨ててここじゃないどこかへ行こう」
千夏はやっと答えた。
「できるわけないよ、そんなこと」
「できるさ。俺が全部やる。俺がお前を幸せにしてやる」
「どうやって」
タケルは下げていた紙袋を逆さまにして、中のものを地面にぶちまけた。
「いったいどうしたのこれ!」
千夏は目を丸くして叫んだ。
「退職金だ。一部だけど二百万ある。一生暮らしていくわけにはいかないけどしばらくならこれで暮らしていける」
「退職金って……。いったいどうしたの」
「癌なんだ。おれ」
息をのむ音が早朝の住宅地に微かに響いた。
「どうももう治らないらしい。……千夏、昔約束したよな。覚えてるか?」
亜麻色の髪が上下した。
「俺は立派な大人になれなかった。怖かったんだ。現実の自分をみられて幻滅されるのが俺には恐ろしかった。だから約束を守れなかった」
千夏は黙ったままだ。タケルは頬が紅潮するのを感じた。脳の中心のあたりがちりちりする。
「でも、いまは違う。千夏、俺は決めたんだ。俺の残りの人生を千夏にささげようって。君には幸せになってほしい。頼む、俺と来てくれ」
千夏はしばらく下を向いたままで、そして雫がこぼれ落ちるようにぽつりと言った。
「お母さんがいるから」
「それは、俺が何とかする」タケルはきっぱりと言った。
「駄目だよ、おいていけない」
タケルは苛立ったように声を荒げた。
「アレはもう君のお母さんじゃない。お母さんだったモノだ!」
「どうしてそんなこというの」千夏は今にも泣きそうだった。
「なぜなら俺もいずれああなるからだ」
千夏はハッとしたようにタケルを見た。タケルの落ち窪んだ眼はらんらんと光り、こけた頬がある種の凄みを与えていた。
「千夏、君にもわかるだろ。君のお母さんはもう立って歩くことはない。それどころかしゃべることさえもできない。君のお母さんは君を縛り付けているだけだ」
タケルは高熱に冒されたように不安定な声音で続けた。
「君の一生はあの老婆を死なせないためにあるのか?」
熱にうかれたような声が奇妙に千夏を捉えて離さなかった。千夏もまたタケルの熱が伝染したかのように心臓が高鳴り、声が上ずった。頭の中心に脈動する塊があるかのような感触を確かに感じた。
「お母さん、どうなるの」
「あるべき場所へ還るんだ」
千夏は沈黙した。そしていくら時間が経っただろう。ガクリと糸の切れた操り人形のように頷いた。タケルは嬉しそうに微笑むと、部屋のカギを貸してくれるよう頼んだ。そして、千夏にはしばらくどこかで時間を潰してくるよう言った。千夏は首を振って、言った。
「ここで待ってる」
タケルは頷くと、鍵を受け取って家の中に入った。靴は脱がなかった。相変わらず、まとわりつくような異臭がした。以前案内された居間は、整理されていた。タケルは襖に手をかける。数瞬のあいだ、襖は微動だにしなかった。そして次の瞬間何の抵抗もなく滑るように動いた。タケルは一歩一歩軋む床板を踏んでベッドに近づいた。リュックサックの中に手を突っ込んで新聞紙にくるまれたそれを手探りで探す。指先がそれに触れ、慎重にそれを取り出す。刃物の形をしていた。新聞紙をはがすとその形はより確かな感触となってタケルの手に収まった。
タケル老婆の前に立った。苦しみの表情は消えうせていた。まるで、今この瞬間を待っていたかのような安らかな寝顔だった。
ナイフを振りかぶった。
「待って」
女の声が静寂を切り裂いた。千夏だった。
彼女は息を切らして部屋に入ってくるとタケルを押しのけてベッドの前に立った。しばらくそのまま目をそらさなかった。やがて、小さな消え入るような声で、言った。
「スイッチ、押せば止まるから」
タケルはベッド脇の機械に目を遣った。
「これをとめればいいのか?」
千夏は母から目をそらすことなくうなずいた。タケルは機械類のごちゃごちゃした配線の中から周りより大きなスイッチを見つけ出した。
「これでいいのか?」
尋ねると頷きが帰ってきた。千夏はまだ老婆を見つめている。ベッドからだらりと垂れさがった手を取った。そっと握る。その手の温かみはやがて失われるのを予期しているかのように微かだった。
タケルはスイッチに手をかけた。止めるぞ、そういってゆっくりとスイッチをOFFにした。機械の警告音が部屋に響き渡り、やがて止まった。
千夏は泣いていなかった。ただ、タケルがスイッチを押す瞬間「さよなら」とか細い声が聞こえた気がした。それだけだった。
千夏は機械が完全に停止したのを確認すると、先ほどまでとは打って変わってあわただしく動き出した。母の遺骸を整えてやると、着替えてくるから、と言い残して身を翻し、階段を上っていった。残されたタケルは遺骸をじっと見つめた。何の感慨もわいてこない。やはり自分は変わってしまった。もうこの世のものではないのかもしれない。そんな思いが脳裏をかすめる。それでもよかった。自分がこの世のものではなくなったならば千夏を救うことができるはずだ。今やほんとうに肉塊になってしまった老婆の前で、そう思った。
パタパタと階段を駆け下りてくる千夏を感じながら、タケルは瞑目した。
作業着から私服に着替えた千夏と一緒に遺骸の前に立った。千夏は食い入るように亡き母の顔を見つめていた。タケルは、かける言葉が見つからずに沈黙していた。
ややあって、千夏がお母さんを埋めてあげたいと言い出した。タケルにも異存はなかったので、二人は猫の額ほどのささやかな庭に埋めることにした。
時刻はすでに7時を回り、出勤途中の会社員がちらほら通りがかるようになっていた。タケルは躊躇した。この時間帯に埋めるのは危険すぎる。ふたりは夜になるのを待って埋めることにし、シャベルやブルーシートなど一通り用意すると、居間に腰を落ち着けた。千夏がお茶でも入れるね、と駆け出していく。
今になって手が震えてきた。タケルには千夏の落ち着きが信じられなかった。最後のあの瞬間、老婆と目が合ったような気がした。あの時老婆は何を思っただろう。死にたくないと思っただろうか。体をチューブに繋がれ、子どもに家畜を飼う様な世話をされてなお生きたいと思うのだろうか? 自分はどうだ。脳裏に老婆の姿が甦る。あれは未来のタケルだ。病院で同じようにチューブに繋がれ、周りの大切な人たちに負担をかけながらゆっくりと死んでいくのだ。
嫌だ。それだけは嫌だ。
タケルは改めて意志を固めた。絶対に逃げ出してやる。這いよる死の手がタケルの足首をつかむその瞬間まで自分の人生を生きてやる。何時の間にか手の震えは止まっていた。
日が暮れるまで、二人はいろいろな話をした。タケルが、機械が止まっても警報がどこかのセンターに行かないのかと問うと、千夏はしばらく考えるようなしぐさをした後で、2日間止まったままだと契約している介護ホームに連絡が行くようになっていると話した。
2日の猶予か。それまでにできるだけ遠くに行かなければならないな。タケルはそう考えて、これまでに自動車を買っておかなかったことを悔やんだ。電車移動だと防犯カメラに記録が残ってしまう。どうしようか、どこかで不注意な自動車を盗もうか。タケルはもう反社会的な行為を犯すことに何のためらいも持っていなかった。そんなことは彼の人生に何の意味も持っていないのだ。タケルの頭の中には千夏のことしかなかった。千夏が新しい生活を始めるための礎になること。残りすくない命を使って千夏があの頃の輝きを取り戻す手伝いをすること。それだけだった。
日が暮れた。タケルと千夏は固く、冷たくなった遺骸をブルーシートでくるむとひっそりと庭に出た。庭は狭く、人ひとり分がようやく横たわる程度の広さしかなかった。タケルはシャベルを取ると、地面に切っ先を突き立てた。一時間も掘っただろうか。十分な深さになったように思われたので、ブルーシートに包まれた「それ」を穴の底へ横たえた。千夏は縁側に腰掛けて一部始終を見守っていた。その表情には何の感慨も見られなかった。
タケルは手を合わせると、穴に掘り出した土をかぶせた。
○
見慣れた階段を一段一段上ってゆく。壁の染み、切れた蛍光灯、ひび割れた石段。もう目にするのが最後だと思うと不思議とそれらのひとつひとつが自分の身に迫って感じられた。タケルはゆっくりと階段を上っていき、自室のある階までたどり着いた。果たして彼女は来てくれただろうか。最期のメッセージは彼女に届いただろうか。痛み止めでうすぼんやりした頭でそんなことを考えていると、自室の前に人影が見えた。それが誰かわかった時、タケルは立ち尽くすしかなかった。人影はタケルに気付くと、ゆっくりとした足取りで歩きだした。タケルの目の前に来たとき、真紀は腕を広げ抱きしめた。
タケルは一刻も早く旅立とうと思っていた。千夏の家に異常が起こったことは2日で発覚する。その前に少しでも遠くに逃げておきたかった。少し心もとないが現金もある。どこかの街に腰を落ち着けるには十分なはずだった。それに対して千夏は異を唱えた。一度家に帰った方がいいと言うのだった。きちんと準備を整えて、ちゃんと身の回りの始末をしてから旅に出ようと。タケルはそれでもいいなと思った。旅に出ればもう二度とこの街や家を目にすることはないだろうから。そうして彼はめちゃくちゃになった自宅に戻ることにした。
真紀は、散乱した部屋の中からマグカップを二つ拾い集めると、冷蔵庫の中からインスタントのアイスコーヒーを入れた。机や台の類は皆破壊されてしまっており、仕方なく床に置く。彼女自身は裂けたクッションに腰を落ち着けて、呆然と立ち尽くすタケルに言った。
「坐ったら」静かな声だった。
その声に押されるようにタケルはフローリングに腰を下ろした。部屋に沈黙が満ちた。真紀はタケルの顔を見つめた。頬はこけ、落ち窪んだ目だけが光っている。こんなタケルを見るのは初めてだった。痛み止めの副作用で時折目の焦点が合わなくなって慌てて目を擦る様を見るとたまらなく胸が痛んだ。けれども今夜は問いたださなければならないことがある。真紀は乾いた唇を湿らせて、口を開いた。
「手紙、読んだわ。勝手に入って悪いと思ったけど急に辞職なんてして携帯もつながらないし。あの手紙にはあなたの本心が書いてあったんだと思う。だけど私にはわからないの。なぜあなたがそんなに自分を追い詰めるのかわからない。何故そんなに生き急ぐの」
タケルは唇をゆがめて嫌な笑い方をした。
「生き急いでるわけじゃない。時間がないんだ、本当に」
タケルは以外にもはっきりとした声音でそう言った。
「手紙には書かなかったけれど、ぼくは半年後にはこの世にはいない。ほんとうは今日にでも旅立つはずだったんだ。だけど会えて、よかったよ」
「何を言ってるのよ貴方、ふざけてるわ。ちゃんと説明して頂戴」
真紀は頑として譲らない表情を浮かべて叩きつけるように言った。タケルはその表情を見て相好を崩した。それは普段の真紀が時折見せる表情だった。この顔が見れただけでも帰って来てよかったな、とタケルは思った。
タケルは自分が病に侵されていること、この地を旅立ってもう戻らないことを告げた。千夏のことは話さなかった。それはなぜだか真紀に対する裏切りのように思えた。話終えるとタケルはぐったりとズタズタのソファの残骸にもたれた。タケルの身体はすでに話すだけでも体力を消耗するようになっていた。
真紀は体をもたれて休むタケルを心配しながらも心の奥底で煮えたぎるような怒りを感じた。この男は私を捨てようとしているんだわ。直感のようなものがタケルに女の影がちらついていることを教えていた。真紀は女としての嫉妬と、病気のことを隠されていたことで信頼が裏切られたように感じていた。
「病気のこと知らなかったわ」
真紀は噴出するマグマを抑えかねる口調で言った。タケルは気だるげに応じた。
「知られたくなかったんだ」
「私は知りたかった」
「それは、ごめん」
「ねえ、どうして旅立ってしまうの。ご両親だって心配してるでしょう。病院で療養することはできないの」
「両親とは不仲でね。君にも前に言ったことがあるけど彼らの手を今さら煩わせたくない。それにぼくは生きる意味を見つけたんだ」
タケルの声は次第に熱を帯びていった。
「ぼくは最期まで自分の意志を貫くつもりだ。誰にも邪魔はさせない。ぼくは、ぼくは……」
「ちょっと待って、何が何だかわからないわ。貴方の意思ってなんなの」
「約束したんだ、きっと立派になるって。だから、だからぼくは彼女を……」
そういうと、タケルは目を閉じて動かなくなった。真紀はしばらくの間、動かなくなったタケルを見つめていた。怒りは消えていた。ただ、むなしさと悲しみが胸の中に広がっていた。そうして、バッグから手帳を取り出すと、ペンを走らせた。しばらくの間、部屋にはペンの立てるさらさらという優しい音が響いていた。書き終えると、丁寧に手帳から切り離し、タケルの膝の上に置いた。
それは長い手紙だった。愛情に満ちた別離の手紙だった。
真紀は静かに手帳をしまうと、タケルにタオルケットをかけて部屋を出て行った。真紀がこの部屋に来ることは二度となかった。
○
千夏は彼女を知る人が見ると驚くほどはしゃいでいた。明るいTシャツにジーンズという地味ないでたちながら、朗らかに笑い、よくしゃべった。タケルは脱力感に耐えながら、彼女の笑顔を見ていた。二人は、デート中にはしゃぐカップルのように見えた。
早朝の大宮駅は混んでいた。東京方面へ通勤する客でごったがえすホームで、二人は下り線のホームで電車を待っていた。ほどなくして電車が来た。大宮駅を出てしばらくすると人家が徐々にまばらになり、畑や田んぼが車窓に広がるようになった。タケルは気だるい身体をシートに凭れかけて夢うつつを行ったり来たりした。そのうち眠り込んでしまった。
千夏は北へ行きたい、と言った。雪を見たいから、と。タケルはどちらでもよかったので、大人しく千夏に従った。目的地は二人とも一致していた。出来るだけ東京から離れたところ。北海道。タケルは最初飛行機で札幌まで移動するつもりだった。
「いやよ」
千夏はそっけなく言った。
「飛行機で一っ跳びなんてつまらないもん。もっといろいろ見たい場所があるの」
千夏はそう言うと、テコでも動かないぞという風に切符売り場に仁王立ちになった。短い口論のあと、陸路で北海道を目指すことになった。人生の最後がのんびりした電車旅でもいいかなと思えたのだった。タケルの身体が最後まで持たない可能性は考えないようにした。
車窓の風景は徐々に変わっていった。乗車客も出勤途中のサラリーマンが減り、家族連れや子供の数が目立つようになっていった。
千夏は子供のようにはしゃいでいた。車窓に移る他愛もない風景に一々喜んで騒いだ。それはまるで二人の10年分の年月を埋めようとしているかに思えた。大宮から小山を経て宇都宮まで来たとき、すでに正午を過ぎていたが、千夏は此処で降りようと言い出した。日光を見たいと言い出したのだった。目を覚ましたタケルは躊躇した。すでに自分に残された時間は少ない。本来なら道中に時間をかけている余裕はないのだ。しかし、千夏の笑顔を見ていると、こうして方々を見て歩くことは何か意味があることのように思われるのであった。
結局二人は日光へ向かった。途中、家電量販店を見つけてそこへ寄った。タケルの希望だった。タケルはそこで最新式のビデオカメラを買い求めた。二人にとって15万円は痛い出費だったが、タケルは自分の姿を何か形に残したいという、欲望に抗えなかった。そのカメラで、タケルはたくさんの動画を撮った。
○
うるさいほどだった蝉の鳴き声にかわって鈴虫の羽を震わせる音が冷気をはらんで響く。秋が押し迫っていた。二人はまだ仙台にいた。タケルの病状は悪化の一途をたどり、薬で誤魔化しながら何とか身体を引きずるようにして歩くほどになっていた。何日も動けないこともしばしばだった。そんな時、二人は偽名を使って泊まったホテルで春を待つ熊のように蹲って過ごした。熱が退くと二人は再び電車に乗ってひたすら北を目指した。その旅は純粋さという意味において巡礼者の旅路にも似ていた。
仙台にたどり着いたとき、タケルの病状はめずらしく小康状態を保っていた。朝の陽ざしも目にまぶしく、秋の清らかな風が頬をさっとなでる。
ふたりは、仙台郊外の田園地帯に向かっていた。タケルにはそこに何があるのかわからなかったが、千夏はずんずんとタケルの手を引いて進んでいった。30分も歩いただろうか、さびれた工場が田園にぽつんと立っていた。千夏は迷わずその工場に向かって農道を歩いていく。
「お、おい千夏、どこいくんだよ」
「あの工場でやってもらわないといけないことがあるの。それよりタケル君、100万円、ちゃんと持ってきた?」
「あ、ああ。一応あるけど」
タケルは100万円の束が入ったカバンをさすった。貯えもあまり余裕がなくなってきている。100万円も必要なことはいったいなんだろうと思った。
「よかった。じゃあタケル君、私たちはあそこで生まれ変わります。心の準備はいい?」
「生まれ変わる? いったい何するんだ」
「鈍いなあ。つ・ま・り、偽名を買うんだよ」
偽名を買うだって? そんな芸当ができるということ自体これまで想像したことすらなかったタケルにとって日本にそんなことをしてくれる場所があるとは信じられなかった。
「何で千夏がそんなところ知ってるんだよ」
タケルが問いただそうとすると千夏は拒否するように顔をそむけた。
「……ああいうところでね、働いてるとね、いろいろあるんだよ」
そういうと、工場への一本道を駆けだした。タケルは歩いてそのあとを追った。身体は軽かった。
工場にたどり着くと、千夏は迷わず事務所に向かった。ガラス戸をあけて中に入ると、そこで受け付けの年配の女性に「セキさんをお願いします」と言って、そうしているのがまるで当然とでもいうかのようにソファに腰かけた。タケルはどうすればいいのかまごまごした後で、年配の女性の探るような視線を受けながら千夏の横に腰かけた。
セキは15分ほどでやってきた。セキはタケルの予想を裏切って小奇麗な恰好をしていた。作業服は油や泥に汚れているが、髪はさっぱりと刈られており、爽やかな好青年という印象をうけた。
セキは受付から事情も聞かずに、顎をしゃくってタケルたちを裏に連れ出した。
「で、いくら持ってきたの?」
セキはタケルたちを裏口に連れ出すなり下卑た口調でそう言った。その口調は彼の爽やかないでたちには似つかわしくないものだった。
「二人で百万。十分でしょ」
千夏は物怖じした様子も見せずに言った。
「OK、OK。十分だよ。……それで、そっちのお兄さんもやるの?」
タケルは逡巡した。二人の眼はタケルへ注がれている。冷や汗が出た。
「俺は、いいよ」
ようやく出た声はかすれて、聞き取りずらいものだった。
「いらないの?」
セキの声は不満そうだった。
「俺には必要ないよ」
タケルは再び言った。
セキは鼻白んだ様子で、じゃあ君一人か、と千夏に向けていった。
セキは50万円を取り上げると、一か月後にまた来てよ、と言って去っていった。
二人は取り残された。工場のむき出しの機械をすり抜けて二人は農道へ戻った。持参したお金は半分だけ減っていた。
「なんで断っちゃったの?」
千夏が不満げに聞いた。
「知ってるだろ。ぼくはもうじき死ぬんだ。偽名なんて必要ないよ」
「でもホテルとかで必要でしょ? いつまでも偽名使ってたら怪しまれるよ。身分証明書だって……」
「いいんだ。ぼくは若槻タケルとして死にたい」
なぜだかタケルは迷いなくそう言えた。
二人は一か月の間、宿を変えながら仙台で過ごした。その間にもタケルは少しずつ衰弱していった。時に突然激痛が走り動けなくなったタケルを抱えて千夏が宿まで背負って帰ることもあった。二人は祈るような気持で一か月を待ち続けた。
その日は雨だった。タケルは朝から体調を崩しており、千夏が一人で工場へ向かうことになった。
工場に行くと、あの事務員がいて、千夏をじろりとねめつけた。千夏は何事もなかったかのように前回と同じく「セキさんをお願いします」とだけ言った。
事務所に沈黙が立ち込めた。旧式の空調がたてる低い機械音だけが密閉された空間を支配していた。
ややあって、奥の扉が突然開いた。驚く間もなく、セキが顔を出し、にかっと笑った。
「おうお嬢ちゃん、今日はひとりかよ。あのひょろっとしたのはどうした? え? まあいいや。じゃあパパッとすましちまおう」
セキはそういうと事務の女に目くばせした。中年の女は心得た様子で席を外した。セキは最前まで事務員が座っていた椅子に腰かけると、輪ゴムで束ねた書類を取り出した。
「えーと、これが住民票、こっちが免許証、それと、まあいいや。後は自分で確認してくれや」
セキは束ねた書類を無造作に投げた。
「ありがとう。助かるわ」
千夏は手早く書類を確認した。
「池宮響子? これがあたしの新しい名前ってわけ」
「そうさ。いい名前だろ。似合ってるぜ」
「なんか冴えない名前。まあ贅沢ばかり言ってられないけど」
「名前なんて飾りさ。手順さえ踏めば簡単に変えられる。お嬢ちゃんみたいにな」
「そうかも。……ところで、この名前はあなたの趣味?」
「さあね、企業秘密だ」
そういうと、セキは、用は済んだとばかりに立ち上がった。千夏も立ち上がる。セキは快活な笑顔を崩さずに言った。
「秘密は全員が黙っているから守られる。わかるか? 全員が、だ」
千夏は唇を引き結んだ。
「わかってるわ。誰にも言わない」
「結構。それじゃあな、池宮さん」
そういうと、セキは鼻歌を歌いながら奥の部屋へ消えていった。千夏は事務の女が戻って来る前にここを去ろうと、急いで身支度を整えた。外に出ると、地面に転がっていた蝉が突如として羽を激しく動かして暴れはじめた。
あなたも死に損なったのね。千夏はそう心の中で語りかけ、やがて静かになった農道をゆっくり戻っていった。
二人はまた旅路についた。仙台から秋田を経由して青森まで向かう。二人はタケルの健康のため、秋田で一泊し、翌日青森についた。千夏が偽名を用いてホテルにチェックインする。広くはないが、清潔な部屋だ。タケルは体をベッドに横たえると、力が急激に抜けていく気がして、無理をして椅子に座った。テレビのリモコンを探す。適当にザッピングしていると、夕方のニュース番組が目に付いた。見覚えのある家が空撮で中継されている。千夏も手をとめ画面に見入った。
アナウンサーの平板な声が時間の止まった部屋に流れた。
「……さんの遺体が自宅庭で発見されました。警察は見慣れない男が出入りしていたという情報と共に、言い争う声が聞こえたとの情報を得ています。また、長女の池田千夏さんの行方が分からず、誘拐の可能性もあるとして捜索しています」
千夏は自分が呼吸するのも忘れているのに気付いた。横目でタケルの様子をうかがう。タケルは落ち窪んだ目でテレビを凝視していた。
「見つかっちゃったね」
「思ったよりも遅かったくらいだよ。二日で通報されてもおかしくなかった」
「どうするの?」
タケルは首を竦める。
「逃げるだけさ。どこまでも、どこまでも遠くに」
その夜、タケルは熱を出した。40度に迫る高熱で、千夏が額に乗せた濡れタオルから湯気が出るほどだった。まるで、これまでの旅の疲れが一気に襲ってきたようだった。千夏はなるべく外に出るのを控え、タケルの看病に努めた。タケルの息遣いしか聞こえない部屋で、薬を飲ませ、濡らしたタオルを絞る作業を続けていると、なぜだかそれがとても貴い行為のような、純粋で切実な営みのような錯覚に襲われた。
千夏が買い出しに出ようとしたときだった。受付でキーを預けようとすると受付嬢が硬い笑みを張り付けて、少々お待ちくださいと告げた。事件の関係者だとばれたのだろうか? そんなはずはない。偽造した身分証は正規の審査にも耐えうるはずだった。背筋が凍る思いで待っていると、奥から支配人が現れた。支配人は慇懃な口調で長期間ご滞在のお客様は改めて御身分を証明できるものを提示していただくことになっておりまして、はい、まことにすいませんがなにかお持ちでしょうか、と言った。
千夏は震える手を必死に抑えながら新しい身分証を渡した。数瞬が数時間にも感じられた。膝から力が抜けそうになるのを必死でこらえる。支配人は身分証をためつすがめつした後営業用の笑顔を張り付けて「ご協力ありがとうございました」と千夏に手渡した。
千夏はなんでもない風を装いながらホテルを出た。入口から見えないところまで来ると、どっと汗が噴き出すのを感じた。
○
タケルが目を覚ました時、部屋にはだれもいなかった。この数時間、覚醒と朦朧を繰り返していた。そういえば千夏が出かける音を薄靄の中で耳にした覚えがある。水差しから水を飲む。体力は衰弱していた。自分でも、死が近いのが分かった。ここまでか、という思いが覚醒したタケルの脳内を占める。北海道で千夏が新しい生活を始めるまで見届けたかったがそれももう難しいだろう。タケルは身を起こした。身体は重かった。ポケットの中を探る。財布の中にそれはあった。タケルはそっと今にも崩れてしまうかのようにそれを取り出す。真紀からの手紙だった。この旅の途上何度となく繰り返して読んだせいで端が擦り切れている。二つに折りたたまれたそれを丁寧に開いた。ともすれば霞む目でゆっくりと読み返す。手紙は優しい文字で書かれていた。タケルはそれを最後まで読むと、静かに息を吐いた。そして静かに心を決めた。
タケルは重い身体を引きずって荷物の詰まったリュックサックを引っ張り上げた。その中からビデオカメラを取り出すと、表面をさっとなで、それからベッドの対面に据えられた机に置く。ビデオに赤いランプが点灯するのを確認して、ゆっくりと話し始めた。すべてを語り終えると、カメラの電源を切り、千夏の荷物の中に入れた。そして重い身体を引きずって、部屋の出口に向かった。数歩歩くごとにめまいがして、まともに歩くことができなかった。それでも這うようにして、ホテルを出た。ドアマンの怪訝な顔を無視してロータリーでタクシーを捕まえる。「駅まで」とかすれる声で伝えると、硬い座席に身を沈めた。
車が新青森駅へつくと、心配するタクシーの運転手を無視して新幹線口へと向かった。タケルは窓口でできるだけ早い時間の東京行の切符を買った。買えた切符は15時30分発のはやぶさで、ともすれば崩れ落ちそうになる身体を必死に動かして乗り場に向かった。
タケルがホームに滑り込んできたはやぶさのシートに倒れ込むように座ったとき、憔悴の色は隠しようもなくタケルの体を覆っていた。繭に包まれたらこんな感じだろうか、とシートに身を沈めたまま考えた。
身じろぎもせずに発車を待っていると、千夏との旅が思い出されてきた。この足で踏み、目で見たどの景色もまた懐かしく思え、タケルは微笑を洩らした。千夏、ぼくはここでお別れだけど、しっかり生きてくれよ。タケルの脳裏に、北海道で新しい生活を始める千夏の姿が思い浮かぶ。これからの人生はきっと楽なものじゃないだろう。生活は貧しく、光の当たらない日常がただ死ぬまで続いていくだけなのかもしれない。それでも千夏は生きてほしい。未来に向かって、胸を張って、堂々と。深い闇の底から腕が伸びてきて意識が引っ張られる。タケルはそれに抗いながら、千夏の生活の安寧を祈った。やがてタケルは微睡への誘いに抗しきれなくなって、静かに目を閉じた。短い警笛のあとに新幹線が動き始める。新幹線は勢いに乗って駅を出た。タケルが再び眼を開けることは二度となかった。
千夏が買い出しを終えて、部屋に戻ると、タケルの姿がなかった。千夏は不安が胸の底から立ち上って来るのを感じた。千夏は買い物袋を放り出すと、部屋という部屋を探した。荷物は残っている。いったいどこへ行ったのだろうか。タケルはまだ外を出歩ける状態ではない。気を揉んでいると、自分の荷物が動かされているのに気が付いた。引き寄せて開けてみると、タケルが買ったビデオカメラが中に入っていた。この旅でことあるごとに被写体を問わず撮っていたものだ。その品が何故自分のカバンに入っているのだろう。取り上げてみるとまだぬくもりがあった。直前まで使用されていたのだろうか。千夏はカメラの横部を開いて、録画履歴を確かめた。履歴の一番上に、今日撮られた動画が保存されている。千夏は震える手で再生ボタンを押した。すぐに誰もいない室内が映った。しばらくそのままで、千夏が不安に感じ始めたころ、ゆっくりと体を引きずるようにしてタケルがカメラに入ってきた。タケルはゆっくりとベッドに腰掛けると、はにかんだような笑顔を浮かべて、話し始めた。
○
千夏、君に話したいことがあるんだ。これまで看病してくれてありがとう。ぼくはもう駄目みたいだ。それは自分が一番よくわかる。ぼくの身体はこれ以上持ちそうもない。だから、君の傍を離れることにした。黙って出ていくことを許してほしい。君はきっとそんなことを許さないだろうからね。それにいつまで体が動くかわからないし。千夏はこれをみたらすぐにホテルを出て北海道へ渡ってくれ。そこで家を見つけて、仕事を見つけて、そして、そこで、そこで自分の人生を歩んでほしい。
ぼくはこの旅のあいだずっと考えていたんだ。人生ってなんなのかって。ぼくらは何のために生まれてこんなに苦労しているんだろうって。残念ながら僕には答えは見つけられなかった。だけどわかったことがひとつだけある。それはぼくらがどんな人生を歩んでも自由だってことなんだ。ぼくらは自分が自分で責任を負う限りどこまでも自由に生きることができる。それって素晴らしいことだと思わないかい? 君がこれからの人生でどうなろうとそれはすべて君の自由なんだ。貧乏になっても金持ちになっても人生は平等だ。最期の死の瞬間まで自由だという点においてね。だから千夏、これからの人生を自由に生きてほしい。そしてその責任を全て自分で背負ってほしい、自由の重みを実感しろ! 自由の苦しみを体に刻み込むんだ! そして死ぬ最期の瞬間まで自由であってくれ。これが僕からの最後のあいさつだ。罪はぼくがすべて引き受けるよ。君が新しい生活を始めるのに何も支障はない。生きろ! そして苦しめ! 苦しんで、それでも生きてゆくことだけが人生の意義を満たす手段なんだ。
それじゃあ、千夏、そろそろさよならだ。これからの生活の幸せを祈ってるよ。バイバイ。