祭りについて
収穫祭をやることになった時に書いたものです。
ごきげんよう、諸君。
私の名はヴァイゼ。
このエッセイ村に通りがかった、ただの賢人さ。
君たちはどうやら、祭りをやろうとしているみたいだね。
通りがかったついでに、ただの戯言を語るとしよう。
君たちは祭りを楽しませたいだろうね。
それについては、私も異存は無いよ。
ところで、君たちに問うが、[祭りの楽しさ]は大きく分けていくつあるかな?
特に、君たちがやろうとしている祭りに、多大に関わるものだよ。
おや、分かったみたいだね。
なら、答え合わせといこうか。
答えは二つさ。
その理由もこれから考えてみようか。
一つ目は[書き手たちが書き上げた結果]としての楽しみ。
すなわち、祭りの盛り上げ役だね。
君たちの祭りの主旨は、[他者が没したプロットに基づいてリイマジネーション(再創造)を行う]というものだったね。
それによって、個々別離の益となるが、自分では気づかなかった[新しいジャンルの開拓]を行えるだろう。
例えば、幻想世界を描くのを好んでいた者が、スペースオペラも描くようになったとかね?
その逆も然りさ。
二つ目について考えよう。
二つ目は、[物語に触れた読み手たちの楽しみ]さ。
これは、一般の客として祭りを楽しむことになるだろう。
互いが描いた物語は、書き手以外の者に触れるだろうね。
それは、必然と言わざるを得ないものさ。
読み手も、互いの書き手によって紡がれた物語に、喜怒哀楽を感じるだろう。
その者が書き手であった場合、インスピレーションを刺激させてしまうかも知れない。
そこに至るかどうかは、私の預かり知らぬところだがね。
ただ、君たちに気をつけてもらいたいのは、[サービス精神という義に過ぎて]しまわないことだ。
ほら、こういう諺があるだろう?
[なんであれ、過ぎたるは害である]とね。
例えば、みんなを楽しませるために、書き手の仲間を集めるとしよう。
声をかけたもの全員が[書き手側になる]と考えてしまうだろうね。
しかし、なかには書き手側になりたくない者もいる。
義に過ぎた者は、[書き手側に入ることを強要する]だろうね。
その動機は正しい。だが、それゆえに厄介と言わざるをえないのだよ。
なぜなら、自分の選択が正しいことに重きを置いてしまい、必要な見解である[相手の事情]を省みないのだから。
そのような考えは、不和をもたらす種であると言えるね。
それは、君たちが排除すべき考えさ。
逆に、義に過ぎない者は、[相手の事情]という必要な見解を考慮に入れて、判断するね。
そうであれば、不和が入り込む隙を与えないだろう。
むしろ、[次の機会があったら参加したい]と良い気持ちで思わせることもできる。
そうでなくとも、読み手であることを活かした[周囲への宣伝]にもなるし、さらには入村者を増やすことにも繋がる。
君たちは分かるかな?
[ほどほどの義]によって、祭り以外にも良い益が出てくることがね。
それを理解し合えば、君たちの祭りは成功すると私は思うよ?
だが、それを理解せず[義に過ぎて]しまうなら、[言葉のみの死神]の目に留まってしまうだろう。
彼は、傲慢である者を決して許すことはないのだからね。
おや、少し話し過ぎてしまったようだ。
私の戯言をここまで聞いてくれてありがとう。
君たちの祭りが成功することを願っているよ。
では、また会う時まで――。
<Fin>
ヴァイゼというキャラクターは人気があったようです。