第3話 ~エレジーなんていらない~
忘れたくない記憶があった。
わたしは、そのひとに恋をした。
必然だった。おとなぶっていうなら、運命だった。
そうなるさだめだった。
けれど、失われるものもあった。
そのときわたしから失われたのは、一番大事なものだった。
「やだよう……っ、帰りたく、ないよぉ……っ!」
雨が降る。
滂沱に降った。
ぼとぼと、ぼたぼた。
血色の地面が濡れ、流星の群が降る。
エヴェリーナ、と魔王が言う。
「やだ……っ! 離れたくない……っ、もうひとりぼっちは嫌だ……!」
……エヴェリーナ、と魔王が繰り返す。
「やだよぉ……っっ……」
ひっく、と声をからすわたしに、魔王は 、今度は強く言う。
「 〝エトワール〟 」
ひく、とわたしの嗚咽が止まる。
「エトワール、私はお前に嘘をついていた」
「な、に……それ」
「お前はひとりぼっちではない。
エヴェリーナ……星の子〈エトワール〉よ。
お前には血の繋がったきょうだいがいる。唯音。君島唯音」
「……っ」
わたしは、小さく息を吸い込む。
「そう、私はおまえの名を奪った。
最初は、ただの酔狂だった。
愛に彩られた奇跡の世界、朝顔の娘とは、
どんなに可愛いらしく、愉快な生き物かと思っていたのだ」
「朝顔の……世界……」
「そうだ。おまえのもといた世界と重なり合う、愛と音楽と、約束の世界。
失われし子ども達の楽園。
その世界に導かれたおまえをみつけたとき、私は歓喜した。
我が家来、月花に命令してお前を連れてこさせるつもりだった」
魔王は、そこでひと呼吸した。
「……だが、月花はお前に恋をした。ここには帰らないと言った。
――私は憤った。
家来の……しもべの分際で私に逆らうのかと。
私は月花を追放し、おまえをこの世界へと無理やり引き込んだ。
〝もうどこへなりとも行ってしまえ、おまえなぞこの私には必要ない〟
と言ってな」
「まお……」
話がわからなくて、話しかけようとするわたしを、
ぐい、と胸に押し付けて、魔王は続ける。
「月花の恋した女とはどんなものか、
と私はお前の姿をあらためてみつめた。
――驚いた。 お前はまるで美しい。
まるで、雪のなか咲く、銀椿の蕾のようだった。
粉雪のようにまっさらな肌の向こう、果実のような赤い花を視た。
お前の心臓は、実にうまそうだった。
――私の胸は高鳴った。このひ弱な娘をどう食らってやろうかと。
煮てもいい、焼いてもいい、生のまま刺身にしても……
いや、丸ごとかじりついたら、
さぞかしうまそうな悲鳴を聞けるだろうと」
(それって……)
かちん、と頭が鳴るのを感じた。
その話には聞き覚えがあった。
でも、それがいつだったか、まるで思い出せない。
まるで、かき消されたように。
「――だが、おまえに触れようとした瞬間、ものすごい火花が散った。
雷撃のようなそれが、お前の共鳴性超能力……、
〈オーバーシンフォニック〉による迎撃だと気づくのが遅れた。
相手の感情に共鳴し、それと同等のエナジーを返す……
超過交響曲〈オーバーシンフォニー〉。
補食しようという私の心境はものの見事に反射され、
私の身体の半分が喰われた」
「……っ」
息をのむわたしに、魔王は、どこまでも、話を続けてゆく。
「なんという力、なんという恐ろしい娘か、と私は歓喜した。
この娘こそ、私の花嫁にふさわしいと。
私にとって、花嫁は、いずれ死せる生き物。
胎内に私の子を宿せば、
もって赤子が生まれて数日で衰弱死するのがさだめ。
私は、やけくそになっていた。
――恋などしない。愛など持たない。
ただ役割として、魔王の後継者を作る。
それだけでいいと、ついには諦めるに至った。
――そうして、おまえに出会った」
さっきまで痛いぐらいだった腕の拘束が緩んだ。
それが不思議で、魔王の顔を見上げる。
魔王は、誇らしそうに、感じ入るように微笑っていた。
「おまえは強い娘だ。
この異世界の娘、迷子の小鳥は、
我ら写しみの世界の魔力〈エナジー〉とはまったく違う力を宿している。
あるいはおまえなら、
私の子を産んでもいなくならないかもしれない。
……そう、おまえなら私の家族になれると、私は望んでしまったのだ。
おまえと過ごすうち、その感情は、静かにふくらんでいった。
生意気で、可愛らしく、強情で……月花そっくりの娘だと思った。
知れば知るほど、似すぎていて、違いすぎて、
その落差が私の心をくすぐった。
そう、気づけばもうとっくに……
おまえたちは、世界にたったふたつしかない、私の宝になっていたのだ」
魔王は、愛おしそうに、わたしの頭をなぜた。
「……そして私は気づいた。
もし、私がこの宝を大切に思うなら、
そのどちらかを選ばなければならない。
両方を慈しむことは、この魔王にはできない。
ゆえに、私は、そのふたりの宝の気持ちを考えてみた。
月花には、もう家族がいない。
行くべきところもなければ、味方のひとりもいない。
おまえはどうだ。兄がいる。姉のようにしたう者がいる。
家族が、学びやが、ばれえという天職が、居場所がある。
おまえをもし本気で欲したならば、
私はおまえからたくさんのものを奪う。
……だから、私は、おまえではなく月花を選んだ」
「魔王……?」
嫌な予感がして、みあげた。
魔王は、微笑んでいる。でも、その微笑みに、心がざわつく。
にぶく痛みを増す頭。
それでも、魔王の言っていることがどういうことなのか、
ようやく気づきはじめた。
ただの、懺悔なんかじゃない。
これじゃあ、まるで……。
「こんな薄情な男など、おまえには不要だ。
おまえのような女にはもう会えないだろう。
――だが、私は、もう、じゅうぶんだ。
おまえと過ごした時間があれば、魔王はもう花嫁などいらん。
愛なき子をなし、恋なき人生の残りを、抱いてゆける。
……それが私の幸福で、歩むべき道だ」
魔王が、わたしから離れる。離れてゆく。
「だから、さよならだ、永遠音。
私の、永遠の一番星〈エトワール〉……」
「まっ……!」
まって、と言いたかった。
手を伸ばす。
闇色の光が辺りをけしとばす。
ついに、伸ばした手が掴まれることはなく。
空を切って、わたしの意識とともに、すべてが消え去った。
こうして、わたしの日常は帰ってきた。
あまりに、残酷な、そして平穏なしあわせのみを、わたしに残して。