第1話 ~フォアシュピールは囁く~
個展に来るのははじめてだった。
――鏡の童話展。
異世界に迷い込んだ少女をテーマにした、
絵本のような、それでもリアルな油絵が続く。
繊細なのに、大胆な筆致。
嵐のなかの怪物が少女を食べようとしているような、
おどろおどろしい絵だったり、
それを少女が抱きしめるような優しいパステル調の絵だったり。
シーンによって、まるで印象が違う。
作者が違うから、当然かもしれないけれど。
絵のことはよくわからないわたしだけど、
かすかに立ち込める絵の具のにおいが、とてもすきだと思った。
「――永遠音」
わたしを呼ぶ声に顔をあげる。
小鳥のさえずりのような声が、きれいだと思う。
朝露に濡れた若葉をぎゅっと閉じ込めて、きらきらの宝石にしたような瞳。
やや短めの、アンティークドールみたいなプラチナブロンド。
粉雪のような肌も手足も。うっすら染まった薄紅色の頬も。
バンビのような華奢な手足も。
……みんなみんな、奇跡みたいだ。
(お兄ちゃんは、きれい。)
「……どうかしたか?」
「ううん。きれいだなって」
「――そうだな。
知るひとぞ知る大物美術家達が描いた作品ばかりを集めた、
覆面展覧会だけあるな。
業界をまたいで特別に招待されたぼくたちは幸せ者だ」
ちょっとずれているけれど、それでも、お兄ちゃんは、お兄ちゃんだ。
可憐な女の子のような容姿だって、
女の子でも、男の子でもない体だって、
書生さんみたいなおとなっぽい独特の口調だって。
その品格をすこしもそこなったりしない。
むしろ、オペラ界の天才プリマドンナの「烈火さん」みたいに、
どこもかしこも女神さまに愛されて生まれたみたいだって思う。
それはそうと、わたしはふつうに女の子の体で生まれて、
お兄ちゃんの妹を、満喫している。
お兄ちゃんは天才中学生作曲家で、ヴァイオリニストまでやっていて、
ほんとうにすごいと思う。
バレエ界の幼きプリンセスとか、
一番星〈エトワール〉と呼ばれているわたしより、百倍すごい。
なんて、ほめちぎっちゃって、いいかげん信者だなあとは思うけれど。
お兄ちゃんの第一のファンであるわたしは、
やっぱりほめることしかできない。
ほうっとため息をつく。
目線は個展の絵だけれど、心はお兄ちゃんをみつめている。
(こういうのを、なんだろう……ぶらこんっていうのかな)
もう一度ため息をついていると、「疲れたか?」と心配そうな顔。
「ううん。あ、でも……」
「喉が乾いたんだな。ジュースを買ってこよう。確か、フロントに……」
なんて目線をめぐらせながら、すたすた歩いて行ってしまうお兄ちゃん。
「あ……」
大丈夫かな。重度の方向オンチなのに……。
手を伸ばしかけて、やめた。
「あれってエトワール?」
「なになに?」
「バレエのすごい子でしょ? えっ、超キレイなんですけど……」
「かわいーー! お人形さんみたい!!」
(うわっ)
みつかってしまった! というか、変装してもいつもバレちゃうけれど!!
この個展は一般人向けというより、
業界関係者向けのところだからうっかりしていた!!
(どうしよう……。なんで……)
うろうろと目線をさまよわせ、奥まって死角になっている、
関係者以外立ち入り禁止の扉をみつけた。
(ごめんなさい! ちょっとだけ……!)
ささ、と小走りに死角へ急ぎ、ぎい、と古びた金属製の扉の奥へ飛び込む。
「……はあ……っ」
体力はあるはずだけど、精神力はぜんぜんなわたしは、息をつく。
「お兄ちゃん……」
心細いけど、今ひとりでよかった。
お兄ちゃんはわたし以上に好奇の目線に弱い。
見た目どおりのシャイな性格なんだ。
それにしても、ここは薄暗い。
(……あれ?)
奥でなにか光っている。青い光がぼうっと……。
抜き足さし足で近寄ると、一枚の絵が、埃を被るようにして置かれていた。
そうしてその周りを舞っていたのは、月の光のようにぼうっと輝く青い蝶。
(うわあ……)
導かれるように、かけられた布をめくる。
「……っ!」
その瞬間、視界が真っ白になる。
――光がやんだ。
……くらくらしながら、目を開いた。
「え……?」
次の瞬間、わたしは森の中だった。