第16話 ~亡き母のためのアリア~
“真実をうつす鏡よ。過去をまじなえ――”
きらり、と輝いたそれは、
まっさらな光の奔流と共に、わたしと月花を包んだ――。
『――マルガリータ。おまえはなぜ、一族を継がない』
『お父さま。 わたくしは、今期を逃し、枯れた女。……期待しても無駄ですわ』
『しかし、おまえには、カゲハさまに似た聖なる血液がある。子を産まずとも、我ら真珠烏達を率いることはできるはず』
『……わたくしに、烏達を導く才は、ありません』
『まだ気にしているのか。おまえの鳩のような鮮やかな血は、魔王さまに選ばれたもの。――おまえは特別なのだ。それくらい、造作もないだろう』
『……お話は終わりです。わたくしには、ただ魔族を監視し、我らに近づけないだけの、今の仕事がお似合いですわ』
『またそんなことを……、待て! 話はまだ……』
わたくしは、構わずとびさった。
どんよりとした空の間を飛翔し、誰もいないことを確認して、そっとそこに飛び降りる。
大樹の根本に凛とたたずむ、聖なる花の蕾。
――月下美人。
鏡森の偏狭に存在し、いまや忘れ去られた創世の大木のもとに出でし、妙なる花。
魔族が嫌う聖なる光も、わたくしの血には心地よい。
魔王、影覇〈カゲハ〉さまは、魔獣達を率い、魔族たちを従わせる若き王だ。
その血は魔でありながら聖。
赤紫と青紫の瞳は、相反するふたつの力の証。
彼が生まれる前、わたくしはまだ城に仕える、単なる真珠烏の一羽でしかなかった。
――だが、生まれ落ちた彼は、わたくしをみて笑った。
その瞬間、わたくしの人生ならぬ、一生は変わった。
わたくしはこの聖なる御子の乳母に任命された。
いや、最初の命では、ただのお世話役のひとりだった。
それが、わたくしを目にするときゃっきゃと笑うので、半ば自動的にそうなった。
わたくしは、どうやら、偶然にも魔王と近しい血を有していたのだと、後にわかった。
この写しみの世界では、たびたび気まぐれな女神の恩寵が降る。
魔王が聖と邪を宿したように、わたくしの身にも、小さな奇跡が起こったのだ。
それはまるで、素晴らしい運命の口づけのように思えたが、必ずしもよい知らせとは言えなかった。
一族の長の娘とはいえ、幻惑ぐらいが能の、真珠烏であるにも関わらず、魔王さまに選ばれたわたくしは、周囲の妬み僻み(ねたみひがみ)の恰好の的となった。
百年たち、魔王が赤子でなくなると、わたくしは乳母を解雇された。
その時には、わたくしの婚期はとっくに飛び去っていた。
身に余るほどの褒美を手に、森に帰ったわたくしは、一族の長になることを求められた。
父は喜んだが、周囲の目は冷たかった。
つまりはよくあるシンデレラストーリーの裏話だった。
わたくしは、魔族を監視する役目を引き受けながらも、自分が長にふさわしくないことを充分すぎるほど自覚していた。
気晴らしというより現実逃避に、わたくしは、森のすみにある月下美人と語らった。
もちろん、いくら聖なる花の蕾とはいえ、しゃべるはずもない。
だが、疎外感を感じていたわたくしには、ちょうどいい友人だった。
そんなある日……そう、満月が美しい夜だった。
その花の脇に、なにかが落ちているのをみつけた。
近くまで羽ばたくと、それは人の子のようだった。
瑠璃色の髪が、白い粘膜に包まれ、その皮膚は透き通るようだった。
いぶかしがりながら、地面に降り、それをみつめる。
2、3才の幼子のようなそれは、ぴくりと震えた。
その瞬間、体内から青い光が発せられ、文字通り透き通った肌の奥に輝くのは、なんと青色の血液だった。
わたくしは震えた。
なんと美しい生き物だろう。
わたくしは今さらながら思いだした。
百年に一度、月下美人のもとに生まれる子のことを。
そう、それは、いまや絶滅したとされる、聖なる蝶……。
〈青色月光蝶〉が復活した瞬間だった――。
わたくしは、震える羽でそれに触れた。
ぬるりとした粘膜がはがれ、触れたその向こうの肌は信じられないほど柔らかく、ふくよかな哺乳類の感触だった。
その瞬間、なにを考えたのかは、よく覚えていない。
だけど、ひとつだけ、決めたことがあった。
――わたくしは、この子の母親になる。
それは、運命になすがまま翻弄されてきたわたくしが、はじめて自らの羽で選びとった生だった。
――それから、たくさんの事があった。
青色月光蝶の最後の一羽であるその子、月花を守るために、わたくしは、同胞である烏達の森を後にし、ひっそりとその生をとげた。
『月花は、素直で可愛らしく、まっすぐな子だった。だから、あの子が、もしどこかで歪んでしまったのなら、それは、あのこに、いいこであることを強要しつつ、自分は無残に殺されてしまったわたしのせいなのだと思うわ』
『――わたしは、最後まで、わたしとあなたは違う、と言い聞かせた。でもそれは、わたしのくだらないコンプレックスのせい。 母親であるなら、おまえとわたしは同じなのよ、と言ってやらなければならなかった。……わたしはいまそれを後悔しているわ』
『――なぜあのとき、最期のあのときだけでいい。おまえはわたしの自慢の子なのだと、言ってやらなかったのかと……。きっとあのこは、今でも、わたしを恨んでいるでしょうね。わたしはあのこを、いちばん残酷なかたちで、裏切ってしまったのだから――』
「…………」
わたしは、マルガリータさんの、そのあまりに切実な告白を、静かに聞いた。
そして、口を開いた。
「……ほんとうに、そうでしょうか。月花は、お母さんのことを、憎んでいる?――そうかな。確かに、月花はややこしい。すごく素直かと思えば、憎まれ口を言ったりする。……でも、ほんとうにマルガリータさんのことを嫌いになったかは、月花にしかわからない』
「月花は、わたしに、たくさん優しくしてくれた。欲しい言葉をくれた。それは、ほんとうは月花が欲しかった言葉だったと思う。だって、わたしと月花は、鏡みたいによく似ていたから。――そして、わたしは思いました」
「月花がそんな風に、優しくできたのは、マルガリータさん、あなたの真似をしたからじゃないですか? ――種のないひとは、優しくできない。――愛のないひとは、愛をあげられない。それは、わたしのお兄ちゃんが、夏芽お姉ちゃんに言った言葉です」
「わたしは思います。月花は、あなたがたくさん愛してくれたから、ひとにやさしくすることを知った」
「…………」
マルガリータさんは、考え込むように黙る。
「……でも、それも、単なるわたしの想像。だから、マルガリータさん、あなたは、知るべきだと思います。月花の――ほんとうの気持ちを……」
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時は現実へと巻き戻る。
今、月花にみせたのは、わたしとマルガリータさんの会話と、マルガリータさんの隠していた、真実のものがたりだった。
空中に消えたままだった手鏡が、ふわりと姿を現す。
わたしは念じる。
わたしは姫巫女。みえないものの言葉を伝える存在。
ならば、わたしにできることは……。
〝この声よ、冥の国をさすらえ……! 仮初めの肉体と共に、ここに出でよ……”
(( 悲しめる真珠烏、マルガリータ……!! ))
一秒がすぎ、二秒がすぎた。
……なにも現れない。
どうしよう。もしかしてわたし、失敗した……?
月花をうかがう。
月花は、虚空をみつめて、言った。
「……ばかじゃない」
やっぱり、だめだったんだ……。
わたしは、肩を落とした。
(ごめんなさい、マルガリータさん……、わたし、勘違いしてた。姫巫女とか言われて、じぶんは特別だって、舞い上がってた……)
……だから、次に続いた月花の言葉に、わたしは驚いた。
「――だから、隠れてないででてきてよ、お母さん」
「え……?」
(( ――月花…………。 ))
その時聞こえたのは、確かにあの声……月花のお母さん、マルガリータさんの声だった――。




