第10話 ~嵐の晩<テンペスト>にさよならを~
辿りついたそこは、森の開けた場所だった。
(大きな、木だ)
まるで、神話のはじまりから存在する、
“世界樹〈イグドラシル〉”のような、
物々しく、神々しい、美しい白樺の木。
その下に、一輪の花が咲いている。
可憐で、聖なる女王のような、白い花。
「…………?」
ふっと、その花が消える。
そこに、小さな人影があった。
――花だと思ったのは、少年だった……。
……なんていったら、目か脳の病気のようだけど。
確かに、花と少年は同じもので、
あるいは、少年こそが、その花の化身のようだった。
その夜の涙のような瑠璃色の髪と、甘くかなしい月を宿した銀色の瞳。
――間違いない。
「――月花……!」
「――エト……!」
月花は、振り向いて、微笑った。
メランコリックな無表情がほどけて、花が咲いたようになる。
「どこにもいないから、心配したよ!
てっきり、誘拐されたかと思って、気が気じゃなかった。
――? ……でも、きみなんでこっちの世界に……?」
不思議そうな月花。
でも、わたしのことを、ぜんぜん疑っている風じゃなかった。
月花は、知らない。
わたしが、魔王をすきになったことを。
――月花を、裏切ったことを。
……ごくん。
つばを飲み込んで、いまさら自分が緊張していることを知った。
「つき、か……」
――出てこない。
何度も反芻して、覚悟を決めたセリフが、ひとつも。
「……エト……?」
月花が、眉をひそめる。
――言わないと。
なのに、喉が震える。
息が苦しくなる。
「っ、つき、か……!」
「――まだ迷っておるのか」
深みのあるバリトンが響く。
ふわり、とその巨体を現し、スノゥは言った。
すべてを見通すかのような灰青の瞳が、粉雪のごとく輝く、
まっさらな身体を引き立てるようにきらめいた。
「お前が、どうしても言えないというのなら……。
――我が、言ってやってもいいのだぞ?」
「――あんた、誰?」
がらりと変わった月花の態度に、わたしは驚く。
そこにあるのは、明確な不信感と敵対心だった。
「我を知らぬか、月光蝶。……我は“イド――ル”。
――すべてを映す者にして、冬の主。
凍れる神池に住まいし、偶像の王」
「イドール……?」
月花とわたしの呟きが重なる。
違ったのは、月花の口調が、
疑問だけではなく、確信をも抱いたものであったこと。
「……“イド――ル”……“映すもの”……鏡池の主か。
二千年以上生きた、霊鳥。
その姿は神に似るとされる、永遠に解けない雪の象徴……」
「――いかにも。しかし、“お前”は知らないだろう。
自らが、しょせん道化を演じるにすぎぬ、愚か者だということに……」
「――なにを……」
「――待って!!」
わたしは、声を張り上げた。
「…………待って。わたしがぜんぶ、言う……っ」
自分で、けりをつける。
――もう頼らない。
都合のいい助け舟なんかに、もう、甘えたりしない。
「――わたしは…………月花のお嫁さんにはなれない――!!」
びりりと震えるような大声に、月花が目を丸くする。
「――どうしたの、エト。お嫁さんなんて……」
「――わたしは、月花の彼女では、いられない……!!」
「…………え……?」
月花が、うろたえたように、身体を揺らす。
「それって……どういう……」
「わたしは……っっ、魔王に……魔王に恋をした!!
――だからわたしは……月花に……っ」
「 “さよなら”を、しないといけない……っ 」
「さよなら……っ? それじゃあ……」
月花の顔がゆがむ。
「ぼくの事が、嫌いになったんだ……!?」
月花が言う。
非難するように……ううん、裏切られたみたいに。
「――ちがう」
「じゃあ……なんで?」
「……魔王をすきになった」
それしか言えなくて、胸をかきむしる。
「――魔王を?」
その瞬間、月花の顔は、確かに歪んだ。
「……じゃあ、ぼくはもう用済みなんだ……?」
(ちがう!!)
――って、言いたい。……月花が、ずたずたになってしまう前に。
(――だけど、違わない)
裏切ったのは、わたしだから。
ごまかしなんて、卑怯なこと、しちゃいけない。
そんな中途半端な同情をふりかけたら、
今度こそ、月花は、ばらばらになってしまう。
(……どうしよう)
胸が不自然に脈打つ。
どくどく。どくどくどく。
(――どうしよう!!)
月花を苦しめたくない!
だけど、わたしは、魔王をすきなわたしは、
もう月花のそばにはいられない。
すきもキスも、もうひとつだって、
受け取れない、受けとっちゃいけない!!
「エト」
すがるように、月花が手を伸ばす。
「つき、か……」
怯えたように、わたしは立ちすくむ。
あと1メ――トル、30センチ、もう、その指が頬に触れる……。
「――その娘に触るな」
激しい雷光が、月花の指をかすめた。
「――魔王……!」
月花の顔が、驚きと怒りに染まる。
「――私の、花嫁に触るな」
ゆっくりと言い直す魔王に、月花はぎりり、と歯を食いしばった。
「魔王……っ!!」
今度の言葉には、はっきりと憎しみが満ちていた。
「……ぼくから、一番大切なものを奪うんだ……!?」
「――そうだ」
「ぼくを、ひとりにするんだ……?」
「…………」
「――答えてよ、魔王。
あんたは、すべてを奪ってきたくせに、
すべてを手に入れなきゃ気がすまないんでしょ……?」
噛み付くように言う月花の瞳は、激情を宿しながらも滲んでいた。
魔王は、その問いには答えなかった。
――代わりに、その瞳を真っ向から見据え、口を開く。
「……ずっと、考えていた。
私は、お前とエヴェリーナ、どちらを大切に思うかと。
――答えは出なかった。
ゆえに私は、とんでもない暴挙に、消去法に至った。
どちらを選べば、その者はしあわせになれるか?
その問いの愚かさに気づいたのはついさきほどだった。
――眠る私の頬に、触れたものがあった。
その時、想いが、なだれこんできた。
その者の抱く旋律が、共鳴したと言っていい。
……私は、驚いた。
その者が抱いていたのは、怒りではなく、慈しみだった。
答えを聞きもせず、その者の幸福を決めつけ、
記憶を奪い、切って捨てた私を、その者は、
許すばかりか、優しい手で触れ、口づけたのだ」
(それって……)
わたしは、固唾をのんだ。
「――私はとうとう、結論をみつけた。
私には、どちらかなど、選べない。――また、選ぶべきではない。
それは、私の命に等しく、比べるなどおこがましい、私の宝、なのだと」
「……なにそれ」
月花の拳が握られる。
俯いた月花は、憤っていた。
「私の宝はもう、この世にふたつだ。これ以外はもういらない。
だが、私の宝が欲するなら、私はすべてを与えてやりたい。
――私の、命でさえも」
「…………っ」
月花は、一瞬だけ呆然とした顔をした。
「……じゃあ、ぼくは、そのふたつを奪う。
あなたがぼくから奪った物を、ぼくは取り返す――!!」
「月花……!」
かけだそうとしたわたしの前に、銀色の棒が現れる。
「…………っ!」
しゃらん。銀の鳥籠が、わたしを閉じ込めていた。
「おまえはそこで傍観していろ」
魔王が目配せをする。
「そんな……魔王!」
がんがんと鉄柵を叩いても、ただ手が痛くなるばかりで、
壊すどころか、びくりともしなかった。
(――どうしよう)
月花には、魔王の想いは伝わっていない。
魔王の言っていることが、理解できていない。
――激昂している月花には、
もう、どんな想いも、届かない――!!
「――魔王……ッ!」
月花のまとう空気が変わる。
――ごうっ。
嵐のような風が吹き乱れ、同時に様々な種類の青色の蝶が、
おそろしい勢いで出現し、魔王に襲いかかる。
「効かぬな」
魔王はうっとおしそうにそれらをはじく。
ただ触れただけで、その蝶達は無残な灰となった。
「……く……っ、まだまだ……っ……!」
今度は、蝶達が巨大化し、
雪崩のように銀色の鱗粉を撒いた。
――魔王の動きが止まる。
月花は、魔王の後ろを取った。
「――覚悟してもらうぞ……っ!」
「……あっ」
次の瞬間、月花は、地面にたたきつけられた。
「……う……ッ」
「月花……っ!」
月花の腕が、足が、血にまみれている。
まるで、刃物で一センチごとに切りつけたかのようなひどい傷だった。
たった一瞬で、月花はもうぼろぼろだ。
青い鮮血が、まるでなにかの芸術〈アート〉のように、床に流れ出す。
一方、魔王は無傷。そのまま、ゆっくりと月花に近づく。
月花は倒れたままだ。
(これじゃあ、月花は……!)
予想に反し、魔王は寸前で立ち止まった。
そして、うずくまる月花に、手をさしのべる。
「……これでわかったろう。おまえは私に敵わない。
永遠音〈エヴェリ――ナ〉は私のものだ。
――しかし、魔王は、おまえを殺さない。
“生きろ”。グンジョウ。おまえは、私の……」
その瞬間、月花の瞳がかっとひらかれた。
鮮血が舞う。
……青じゃない。
鳩の血のような、鮮やかな真紅。
数瞬後、月花が握りしめていたのは、魔王の目玉だった。
「――魔王……っ!」
わたしは叫ぶ。
魔王の、赤紫色の右目がない。そこはもうからっぽだった。
魔王は、血のしたたる片目をおさえた。
――なのに、動揺したのは月花のほうだった。
信じられないような顔で、奪った眼球をみつめている。
「なんで……」
そして、悔しそうに顔をゆがませ、魔王をにらんだ。
「――なんでだよ……ッ!!」
月花は、そのままきびすを返し、走り去った。
ややあって、蝶達が彼を追い、あとには静寂が戻った。
それは、魔王と月花の、見まごう事なき、離別だった。
――鳥籠が霧のように消える。
「……魔王」
魔王は、右目をおさえながら、しばらく立ち尽くしていたけど、
わたしの声に振り向くと、悲しそうに微笑った。
「――すまなかったな。私は、ひどいことをした」
月花にも、おまえにも。
そういって、魔王は、右目をなぜた。
「――痛かったろうな……」
言葉を失って、わたしは魔王に触れた。
その腕は、目と違ってけがをしたわけでもないのに、
だらりと力をうしなっていていて、わたしは泣きそうになった。
――ごめんね。魔王。
わたしこそ……ごめんね。
月花のことが大切だったのに。
わたしは、魔王から月花を奪って、月花から魔王を奪ったんだ――。
――その後、魔王は家来を総動員して、月花を探したけれど、
月花はみつからなかった。
嵐のような夜だった。
静寂すらも暴力のような、冷たい夜だった。




