第5話 ~群青の蝶~
魔王は、娘が消えた床をみつめた。
――エヴェリーナ・スワン。
夜空の一等星のようだった娘。
重なり合う鏡面の世界、昼の世界と朝顔の世界にある、
ニホンという国で、“君島永遠音”という、
珍妙な名で暮らしていた、美しくも、生意気で、強情で、
ゆえに、たまらなく愛おしい少女だった。
「おい、グンジョウ」
「…………」
「グンジョウ、聞いているのか」
「……ぼくはグンジョウじゃないって」
「グンジョウだろう。
お前の髪は群青色だ。夜の手間の空の色だな」
「瑠璃だから」
「瑠璃という色ではないぞ。お前はグンジョウ。そう決めたのだ」
……ふう、とため息をつくグンジョウ……月花を横目でみやる。
その横顔は人形のように整っていて、やせているというより華奢だ。
銀色の瞳もその躰も、月を宿した月光の精のようでもあり、
実際にさほど間違ってはいない。
まだたったの十年やそこらしか生きていない、ほんの赤子だとしても、
この生き物はあまりに弱弱しい。
苛烈な心を宿しているがゆえ、
その肉体はさらに壊れやすいだろう。
――壊そうと思えば、一瞬だ。
魔王が手を加えずとも、付き人もなしに城の外に放てば、
この美しく珍しい生き物は、殺されるなり捕えられるなりして、
あっけなく死んでしまうだろう。
相変わらずそっぽを向いて何かを描いている月花に、再び話しかける。
「それはなんだ?」
「……別に」
さっと隠されたが、描かれたそれは、どうやら人間の子のようだった。
それも、とても美しい娘とみた。
私は目がいい。
さらに、勘もいい。
恐らく、月花は恋をした。
それであの娘の姿を、心の額面に焼き付けようとしているのだ。
魔王にはわからない。魔王は、恋などしたことがない。
それは、無駄なものだ。
花嫁探しなど後継ぎが必要なければしていない。
子どもが産める身体で、魔王にふさわしい優秀な娘なら誰でもいい。
そこに恋は不要だ。子さえ産んでくれれば後は用はない。
情など湧いてしまったら面倒だ。
――女は弱い。
魔王のような魔力の強すぎる子を産んだら、
後はどうせ衰弱して死んでゆくだけだ。
不死は、魔王のみの特権。女に与えるまでもない。
上の空で、今も熱心にそれを描き続ける、月花のことを考えた。
けして自分になつかない従僕。
今やほとんど絶滅した、
青色月光蝶の最後の一羽。
その本来の姿をみたのは一度きり。
死にかけて倒れながらも、青い蝶達を集めていた、
あの透明に透き通る身体。
体内に輝く青い血液。
土と血に汚れてもなお神聖さを失わぬ群青色の髪。
いや、にぶく発光するその全身を遠くから眺めるだけでも十分だ。
――なんと美しい生き物か。
はじめてみるそれを、思わず食らうことも忘れて見入った。
私は決めた。この生き物は私の家来にしよう。
紅虎や白獅子よりも手厚く扱ってやろう。
なにせ、世界に一匹しかいない貴重な生き物だ。
これが私に懐いたら、さぞ心地よい悦に浸れるだろう。
私はその時、そう思った。
まさか、この生き物――、月花が自分に懐かないなどと、思いもせず。
――回想は永遠のようにも、一瞬のようにも思えた。
――エヴェリーナ・スワン。
夜空の一等星のようだった娘。
年のころは五歳から十歳の間。
かよわく、強く、苛烈で繊細な娘だった。
魔王は娘に恋をした。
――昔話だ。
他ならぬ私が、今、過去にしてしまった。
もう、娘を胸に抱くことはない。
魔王は、ゆっくりと掌をみつめた。
――そこには、いまだ柔らかなぬくもりが残っていた。




