表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ハーレクインのように

作者: 松坂美江

シエラは、むっつりと黙りこんでいる男の顔を、飽きる程眺めていた。いや、本当は飽きることなどない。もし自分の体力が許す限りの時間を目の前の男の顔を眺めることだけに集中しろと命じられたら、喜んで応じただろう。最も、この男がそれを許すとは思えないが。

「……そんな目で睨むことはないだろう、シエラ」

 シエラの痛いほどの視線をまともにぶつけられるのがさすがに苦痛になったのか、男は眉間の皺を一本増やしながら低い声でぼそりと言った。

「睨んでなんかないわよ、失礼ね」

 シエラは憮然として抗議したが、はっとした。なんてことだ。いつの間にか眉根を寄せていたらしい。つまり自分は、この男とそっくり同じ表情をしていたというわけか。

「まあいい。こうなることは予想していたからね」

 男は疲れた息を吐き出すと、肩を怒らせているシエラの前に、一枚の書類を差し出した。

「君の眉間の皺が増えない内に僕は退散するとしよう。サインをするくらいの時間はあるだろう?」

「え、ええ」

 シエラはぎくしゃくと動いた。ペンはデスクの端に置かれている。それを取り上げようとすると、緊張のために手が滑り、ペンが転がって落ちそうになった。

 咄嗟に男が腰を浮かせ、シエラの手ごと、ペンを包み込んだ。

「!」

 シエラは目を見開き、息を飲んだ。

「……全く。まるで僕に血が通っているのが不思議だと言わんばかりの顔をしてくれるね」

 男は苛立ったようにそう言うと、シエラの手を口元に寄せた。

「え?」

 されていることが理解できなくてシエラはぽかんと口を開ける。

「だが僕から言わせれば、君のほうがまるで人形のようじゃないか。こんなに冷えた指先をしていては」

 ガチガチに固まっているシエラが何もできないのをいいことに、男はそのままシエラの手に口づけた。

 シエラの動悸が速くなる。どうしたというのだろう。この男がこんなことをするなんて!

触れられた瞬間、電流が走ったように動けなくなった。この焼き鏝のような唇は、一体何でできているのだろう?

 そんな馬鹿なことを呆然と考えていると、男は苦笑してシエラの手を離した。ぱたりとデスクの上に落ちたシエラの手は、わずかに震えている。

「この程度でうろたえるほど、君は経験が少ないのかな?」

 君ほどの女性が? 言葉に出さずとも、男の言いたいことはわかっている。

 シエラは手を引っ込め、もう片方の手を伸ばしてペンをしっかりと握りしめた。

「左手でサイン?」

 からかうような口調にむっとする。

「私は本来左利きなの。でも祖母が右手でなんでもやらせたがったから、私は両利きってわけ。おわかり?」

「なるほど」

 大した関心もないくせに、男はにっこりした。シエラはぱっとそれから目をそらし、眼下の書類に集中する。

 自分の名をさらさらと書きあげると、その真上に書かれた少々乱雑な字を――目の前の男の名が嫌でも目に飛び込んできた。


 ――リューク・ド・ワード


「OK」

 リュークはそっけなく言って、書類を受け取った。

「これを裁判所に提出すれば、全て完了だ」

「おめでとう」

 シエラはわざとらしい口調で手を叩いた。リュークが不審そうな目を投げかけるのを、真正面から受け止める。

 そう。この男の顔を見るのは飽きない。

 女性と見紛うほど繊細で愛らしい顔立ちをしていながら、鉄面皮のようにいつでもむっつりと黙りこみ、必要最低限の言葉しか口にしない。

 そんな男がさっきはどうだ?

 シエラはむかむかする胸中を悟られまいと、背筋を正した。

「あなたにも人並みの感情が芽生えたってわけね。これで全てがあなたの思い通りだから」

 何もかも手に入れればいいのよ。

 柄にもなく浮かれちゃって、馬鹿みたい。

「……どういう意味だ?」

 静かに訪ねてくるリュークの中性的な顔立ちは卑怯だ。

 女は誰もがその顔に触れたいと思い、全てを投げ出すのだろう。

 男はリュークの顔に似合わぬ手腕ぶりに尊敬の念を抱き、力になりたいと思うのだろう。

 そうやってリュークは全てを手にしてきた。その容姿と才能を以て。

 だが自分だけは。

「言葉通りの意味よ。これであなたは私の死んだ両親の全てを受け継ぐことになるんですもの。おめでたいことじゃない」

 リュークはあっけらかんと言った。

「これはご両親の意思だ。君がそんな態度じゃ、彼らも安心して眠れないだろう」

 シエラは立ち上がった。

「わかったようなことを言うのね? 私が3歳の頃に事故で死んだ両親の何をあなたが知ってるっていうの? ええ、両親の遺産は私が25になった日に受け取ることになってたわ。それまでに結婚していればという条件つきでね。途方に暮れていた私は、あなたからしてみれば札束も同然に見えたでしょうよ。私が馬鹿だった。なんであなたなんかに話しちゃったのかしら!? 祖母の治療費のためにも、私にはお金が必要だった! あなたはそこにつけこんで」

「人聞きの悪いことを言わないでほしいね」

 リュークは片手をあげてシエラの言葉を遮った。

「確かに僕の聞き方にも問題はあったのだろうが、結果話したのは君なんだ」

「へえ、遺産目当てだってことは隠さないのね」

「君が望むなら」

「吐き気がするわ」

 ずきずきと痛む胸の理由を脇に押しやって、シエラは喉に手を当てて舌を出してみせた。

「それなら今日は帰るといい。僕は裁判所に行く。この婚姻届を持って」

 リュークはぴくりとも表情を変えず、立ち上がった。シエラは背が高いので、ふたりは座っていた時と同様、真正面から向き合うような形になる。

「言っておくけど、勝手に遺産を使えると思ったら大間違いだからね」

 シエラはほっそりとした腰に両手を当てて、つっけんどんに言った。

「すぐに手を出すつもりはない。それに、僕には十分な蓄えもあるしね」

「ハッ、いざってときの貯金ってわけ!? この会社、危ないんじゃないでしょうね!?」

 シエラの不躾な言葉に、さすがのリュークも我慢の限界を迎えたらしい。

「ほう。君はこの会社のボスである僕にそんなことを言うのか? この会社が世界でどれだけ有名なのか、普段遊びまわってテレビを見る暇もない君は知らないようだ」

 失言だったと後悔したが、口を開きかけた時にはリュークがデスクを大股で横切り、シエラの前に立ちふさがっていた。

 どうしてリュークを中性的な顔立ちだなんて思ったのだろう。

 間近で見るリュークの顔を見て、シエラはぞっとした。

 こんなにも男らしい顔立ちをした男性を、今までに見たことがない。

 しかも、今にも爆発しそうなくらい、気持ちが高ぶっているのが伝わってくる!

「僕らは君の育て親でもあるおばあさんの治療費のために結婚するんだろう?」

「そ、そうよ」

「だったら少しは可愛げのあるところを見せてもらいたいね。君が嫌がるから教会ではなく僕はひとりで裁判所へ行くが、いずれ盛大な式を挙げてやる。覚悟しておくんだな」

「なんなの、その脅迫めいた言い方は!? あなたのガールフレンドなら、学校が作れるほどたくさんいるじゃないの! 当日はその中の誰かと偽りの式を挙げればいいわ。私には祖母以外に身内はいないんだし、籍だけ入っていればそれでいいわよ!」

 むちゃくちゃなことを言い出すシエラに、リュークは怒りを忘れて笑いだした。

「学校が作れるほどって……なるほど。僕は君にそう見られていたわけか」

「事実でしょう。何がおかしいの」

「君に呆れているんだ」

「は?」

 目を丸くしたシエラに影がかかった。手首をつかまれ、引き寄せられる。あっと思った時には唇をふさがれていた。

 シエラはすぐに身をよじったが、リュークはしっかりと腕をシエラの腰に巻きつけて力強く抱きしめてくる。喉の奥から声を振り絞るが、リュークの舌が優しく侵入してきた頃には、すっかり膝の裏から力が抜けていた。

 リュークは目元を緩めてそんなシエラを一瞬強く抱きしめると、そっと彼女を椅子に座らせた。

「おかしいな」

 赤くなった顔を必死で隠そうとうつむくシエラを見下ろして、リュークは嘲った。

「僕の情報によれば、君こそ、学校が作れるほど男がいたはずだが、この程度でこのザマとは、どうやら誤報だったようだね」

「あ、あなたなんかに私のことがわかるはずがないわ」

 シエラはうつむいたまま悲鳴のように声をあげたが、先ほどのような迫力は消えうせていた。

「謎めいた女性には、心惹かれるものだよ」

 リュークは満足したように笑顔になるが、シエラにはその表情は見えなかった。

「君には僕の家族に会ってもらわなくてはならない。籍を入れて、はいおしまいはなしだ。僕は確かに君のことはよく知らない。だが知りたいと思っているよ。せっかく結婚したのだからね」

「そんな暇はないと思うわ」

「時間は作るものだ」

 リュークはそう言うと、いつの間にか床に落ちていた婚姻届を腰を折って拾い、うつむいているシエラの額に唇をつけると、颯爽と出て行った。

「行ってらっしゃい。そうして二度と戻ってこないでちょうだい」

 シエラはその背を見送りながら毒づいた。

 リュークは一時間もしない内に戻ってくるだろう。このオフィスに。

 そして自分はそのための準備をしなくてはならない。

 シエラは唇に手を当てながら、よろよろと立ちあがった。

「公私混同は避けてよね、ボス」

 リュークのスケジュール表をチェックする。

 シエラは唇の感触を忘れるように、わざと強く下唇に歯を立ててから、立ち上がった。

「さあ、仕事に取り掛かるわよ」

 リュークのデスクの一番近い場所がシエラの位置。

 彼女は秘書だった。



 思えば、運命という名の神が気まぐれを起こしたような出来事だったとシエラは思う。

 物心つく前から両親は他界、育て親の祖母と共に、今までひっそりと暮らしてきた。背ばかり高いボーイッシュな彼女はあまり人付き合いのうまい方ではなく、友達と呼べるような相手もいなく、もちろん、リュークが思っているような奔放なつきあいもしたことがない。

 そんな彼女だったが、ひょんなことからモデル事務所の人間にスカウトをされ、危うくその世界に踏み入りそうになったとき、それを避けるために一流企業の会社の門を片っ端から叩いて歩き、ようやく彼女を受け入れてくれたこの会社に、逃げるように飛び込んだ。

 幸い学生時代に秘書の資格はとっており、学歴も申し分なかった。

「シエラ。君は何故モデルにならなかったんだい」

 リュークは鉄面皮のままで、さりげなく尋ねたことがある。シエラは肩をすくめてみせた。

「人前に出ることを極端に嫌う私に、大勢の人が見る前を澄まし顔で歩けとおっしゃるんですか?」

 シエラは言った後に、しまったと後悔した。仮にも社長に対しての態度ではなかった。

いつもこうだった。目上の人に対する礼儀を欠いた物の言い方をしてしまう。その理由も判っている。他人からの接触を拒否しているからだ。

「だが君は、昼食に出る際には堂々と社内を歩き回っているじゃないか。風を切って早足で」

「それはっ」

 シエラはパソコンのキーを打つ手をやめて、初めてリュークの方を見た。今までは私語を始めたリュークに対する無言の抗議もこめて、画面ばかりを見ながら返事をしていたのだ。

「……私の長身を珍しがって、声をかけてくる人をかわすためです。本当は、お昼もここでとりたいくらいなんですよ」

「それは健全じゃないな。休憩時間は仕事のことを忘れるべきだ」

「食べている時くらいは、ここでだって忘れられます」

「いや。電話が鳴る」

 リュークはにべもなく言って、シエラを眺めた。

「事務所から、あれから連絡はあるのか?」

 ここで勤めるきっかけとなった出来事はすでに話してあったので、シエラは特に何とも思わず素直に首を横に振った。

「他に優れた逸材を見つけたのでしょうね。よいことだと思いますわ」

「君なら雑誌の表紙を飾れるんじゃないかと僕は思うがね」

 相変わらずの無表情のままで言うのだから、普通の女性は勘違いをするだろうとシエラは苦笑する。だが彼のそばで仕事をするようになってもう2年の月日が経つ。その間にリュークがどれほどの女性と付き合ってきたかはこちらには筒抜けだったし、彼から用済みとなった女性たちへ贈るプレゼントまで買わされたことのある身としては、それくらいの軽口を受け流すことくらいわけなかった。

「こんな肌の汚いみすぼらしい女が表紙を飾ったら、その雑誌は廃刊になりますわ。お言葉だけ受け取っておきましょう」

 祖母が入院するようになってから、シエラはゆっくりと休む暇もなく家事に追われていたので、荒れた肌は事実だった。見せびらかすようにひらひらと手を振ってみせると、リュークは片眉を吊り上げる。

「家から病院はかなりあったはずだな。いくら心配だからといっても、毎日見舞いに行かなくてもいいのではないか? 最近は寝不足なんだろう?」

 化粧水さえ使うのがおっくうな毎日を送っていたシエラだったが、やはり指摘されると少々決まりが悪かった。

 目の下のクマは日を追うごとに黒ずんでいってる気もするし、先ほど化粧台の鏡で見た自分のあまりの酷い顔には、我ながらひっくり返りそうになった。リュークは自分の容姿の素晴らしさを知っているし、散々それを武器にしてきた。付き合う女性たちも言わずもがなの美女ばかりだし、そんな彼の傍に、いつまでも自分のような女がいるわけにはいかないぞと、回りくどい忠告を受けている気分になる。

 シエラは肩を落とした。

「私の身内は祖母だけなんです。祖母がいなくなったら、私はきっと、使い物になりません」

「今の君は?」

「んー。そうですね、半分だけ機能してるって感じかしら」

 シエラはわざと声をあげて笑ってみせたが、リュークは口元を緩めることすらしなかった。

「入院費も馬鹿にならないだろう。今の給与で足りてるか?」

「あの、ボス」

 シエラはリュークの探知アンテナがゆっくりとこちらに狙いを定めているのを感じ取り、身を堅くした。

 他人と必要以上に関わるのはよくないと、身体のある部分が警告してくる。

 わかってるわ。

 シエラはそっとその警告にうなずいてみせた。

「お気遣いはありがたいのですが、この後十分後に会議があります。私はその資料を作成中で、実はかなり焦っています」

「週一の小規模な会議だ。僕らがいなくても滞りなく進むだろう」

「でも、筆記を任されてるのは私です」

「君は連中の『はい、そうですね』『今後もその方向で』だのという空返事まで記録する必要があるのか?」

「必要とあれば。そんな発言しかできない方をリストアップして、あなたに渡すこともあるかもしれませんし」

「……なるほど?」

 シエラの返答は、リュークの中で高い評価を得たようだった。シエラにしかわからないが、彼はほんのわずか、口元をあげる。それが彼なりの笑顔だと気づくのに1年かかったのもいい思い出だ。

「わかった。君はどうあっても僕にプライベートなことを明かすつもりはないみたいだね」

「そんなことはないはずですわ。私はあなたに全てお話してきました。両親のことも、これまでの私のことも」

「それらは全て、君の中で『過去』となった出来事ばかりだ。君が自分の中で克服し、人に話しても大丈夫だと判断した範囲のことだろう?」

 ぎくりとしたが、シエラは屈しなかった。

「それが普通の人間の、当然の範囲じゃありません? 私はあなたと違って、知りもしない方にべらべらと自分のことを話せるほど、器が大きくないんです」

「僕は自分のことを他人に話したりしない」

「ほら。私だって同じです」

「だが君は、僕にとって他人じゃない」

 リュークの言葉は、矢の様にまっすぐシエラの心に突き刺さった。

 本当に刺されたのではないかと思うほど、痛みが走る。

 シエラは立ち上がってリュークの胸倉を掴み、怒鳴りつけてやりたい気分でいっぱいだった。

 どうしてそういう言い方ができるのだろう。

 それはつまり、シエラもしょせん、彼にとって数多の女性と同様だということだ。

 誰も彼の特別なんかにはなれない。

 今彼ははっきりとそう言ったのだ。

「ボス。会議室へ向かってください」

 急に何もかもがどうでもよくなり、シエラは力なく言った。

「シエラ?」

「資料がもう少しで完成します。後は人数分コピーしなくてはならないので」

「何故そんな顔をするのか教えてくれ」

「疲れているからそう見えるんだと思います」

「今僕は、君に重要なことを話したつもりなんだが」

「私にはそうは聞こえませんでした」

 シエラは八つ当たりのようにキーボードを叩くと、プリンターから紙が吐き出されるのを見て席を立った。

「なんならもう一度言おうか。君は僕にとって、他人じゃない」

「光栄ですと、お返しすればいいですか?」

 近づいてきたリュークをまっすぐ見つめるシエラの目には、うっすらと涙がにじんでいた。

「どうしてそういう――」

「ああ、言わせないで下さい。私はとても気分を害しているんですから」

 シエラはこめかみに手を当てた。

「何故?」

「私はあなたの愛人になるつもりはありません。女を馬鹿にするのもいい加減にしてください」

 リュークがショックを受けたのか固まった。

 シエラはそれを見て、鼻で笑う。

「私の前で女性たちを口説く電話をしてきたのは失敗でしたね。ご自分ではお気づきにならないのかもしれませんが、あなたは必ず言うんです。『僕と君は他人じゃないだろう?』。

それで何十人の女性があなたの胸に転がり落ちてきたのかは、大体想像がつきますが」

 シエラはしゃべりながらプリンターから紙を取り上げ、コピー機へ向かった。

「私は免疫ができているので、魔法の言葉は効きません。他を当たってください」

「その……すまない」

 リュークが沈んだ声で言った。

「いいえ。謝ることはありません。気にしませんので」

 シエラはコピー機から紙が吐き出されるのをじっと待っている。意地でも振り向くつもりはなかった。

「ただ僕は、君にも何か、刺激的な何かを経験させてやりたかったんだ。会社帰りにショッピングを楽しむこともない。まっすぐ家に帰り、おばあさんの病院へ行き、帰って寝る。そんな毎日を送る君が――」

 シエラは素早く振り返った。

「哀れんでくださって、感謝しますわ」

「いや! 今のはそんな――」

 シエラはつかつかとリュークの前に立った。

「でもご心配なく。刺激的な経験は、毎日(・・)してますの。朝まで眠れないくらいに」

「え?」

 シエラは唇をゆっくりと舌で湿らせた。

「寝不足のことまで心配してくださって。毎晩朝まで官能的に運動しているせいだとは、言えませんでしたわ。プライベートなことですから」

 その言葉の意味をリュークが噛み締めている間にも、シエラはまくしたてる。

「あなたから頂いたお給料で、毎晩性的に満足させてくれる男性を家に呼んで、楽しませてもらってますわ。だからあなたの心配は無用なんです。おわかりいただけましたか?」

「嘘をつくな!」

 突然リュークが大声をあげたので、シエラは声が出なくなった。

「僕の言葉に君が腹を立てたのは当然のことだ。謝罪もする。だが今の君の嘘はなんだ?

 僕に対抗心を燃やしているのはわかるが、そんな下品なことを口走るのはやめたまえ!」

「私が嘘を言っていると?」

「そうだ。君は他人との関わりを拒んで来た。そんな君が」

 リュークは目を丸くした。

 シエラが突然上着のボタンを外し始めたのだ。

 スーツ越しからでもわかるほっそりとした身体。夏でも彼女は長袖を着用していた。露出の少ない服を着てくるシエラには安堵していた分、彼女の白い肌が露になっていく様は、リュークにはすぐには受け入れられなかった。

「何を――!」

「ここ」

 シャツの襟元をはだけさせたのを見てリュークが我に返ると、シエラは冷たい表情で、首の付け根をさらした。

「!」

 そこにある赤い痣。

 リュークの目が見開かれた。

「あまり痕をつけないでとお願いしたんですけどね。仕方ないわ。ああいう時に冷静になれる男性を選ばないので」

「き、君は」

「ああそれと」

 素早くボタンをつけながら、シエラは明日の天気を占うような、軽い口調で言った。

「祖母のお見舞いには毎日行っていません。今日も帰ったら、繁華街に行く予定なんです。行きつけのお店があるので。最近入ったばかりの男の子がいるんですけど、それが本当に可愛くて――」

「結構」

 リュークはぴしりとそれを遮った。シエラを見る目がすっかり変わっている。

「君の言ったことは正しかった。他人のプライベートに踏み込むべきではなかったな。お陰で知りたくもないことを聞かされた」

「わかっていただけて何よりですわ」

 シエラは微笑んで見せる。

 リュークは侮蔑の眼差しでそれを見ると、素早く踵を返した。一刻も早くこの部屋から出たいと思っているのは明白だった。それでいい。

「君は少し遅れて来てくれ。理由はわかるだろう?」

「私も少しの間、あなたの顔を見たくないので喜んで従いますわ、ボス」

 リュークは彼にしては珍しい程の荒々しさで、ドアを閉めた。

 シエラはふんとそれを見やると、コピー機の前に戻る。

 やりこめてやった。あの鉄面皮を。

 勝利を噛み締めて、踊りだしたい気分だ。

 それなのに、何故か視界がぼやけた。

「何がプレイボーイよ」

 シエラはすんと鼻をすすった。

「虫さされの痕も見分けられないなんて。あなたには失望したわ」

 恐らく最後の言葉は、リュークが直接シエラにぶつけてやりたい台詞そのものだろう。シエラはうつむき、会議資料の束を抱きかかえて部屋を後にした。



 それからのリュークは口数が減った。

 以前には度々あった私語もなくなり、必要以上のことは何も口にしない。まさにシエラが望んでいた毎日だった。

 だが祖母の容態が悪くなり、緊急の手術が必要となったことを知ると、シエラまで口数が少なくなってしまった。

 祖母はやつれていく孫娘を見るのが辛いようだった。

「おまえには今まで知らせていなかったのだけれど」

 祖母は茶封筒を取り出した。

「遺産があるの。おまえが25になったら受け取れるよう手配されているはずよ。あんまり若いうちからそのことを知らせたら、おまえがそのお金を頼りにしてしまうような娘になるんじゃないかと思って、今まで言わないでいたのだけれど、おまえはきっと、それを知っても自立したいい娘になっていたでしょうね。今のように」

「じゃあ、手術ができるのね!?」

 遺産のことを聞いて、シエラが真っ先に思ったのはそれだった。祖母はそんな孫娘を見てかすかに微笑む。

「おまえに負担はかけさせないよ」

「負担だなんて! でもこれで早く手術ができるわ! よかった!」

 シエラはここ数ヶ月見せなかった心からの笑顔になり、意気揚々と茶封筒の中に入っていた紙に書かれた弁護士のいる事務所へ向かった。

 そこで知らされたのは、25までに結婚していなければ、遺産は渡せないということ。

 誕生日まで、数週間後のことだった。

「そ、そんなむちゃくちゃな!」

 シエラが青ざめると、弁護士は同情するような眼差しでシエラを見つめた。

「恐らくご両親は、自分たちがそんなに早く先立つとは思っていなかったのでしょう。ご両親もその頃は若かった。ほんの冗談のつもりで、この遺言を残されたのでしょうね」

「冗談!? わ、私も祖母も、冗談なんかほとんど言わないで真面目に過ごしてきたっていうのに、その私を生み出した両親がそんなふざけた人間だったってこと!?」

「ああ、落ち着いてください」

 取り乱すシエラを、弁護士はなだめた。

「誰でも過ちはおかすものです」

「そ、……それは、そうだけど。でも……」

 リュークについた嘘のことを思い出し、シエラは気まずくなった。でも、それとこれとは話が違う。

「25を過ぎて結婚しても遺産は受け取れるんでしょうか?」

「そのアテが?」

「う……」

「先ほどのお話を伺った限りですと、あまり時間がないのでは」

 弁護士はずけずけと、痛いところを突いて来た。

「それに恐らく、25を過ぎて結婚をされても、遺産が渡る可能性は、難しいかもしれません。法的にこの遺言を無効にする手立てもなくはないでしょうが、それにしても時間がかかるかと……」

 シエラは完膚なきまでに叩きのめされ、よろよろと事務所を後にした。

 翌日、静まり返ったオフィスでむっつりと仕事をしているリュークですら、シエラの沈みようは目に余るものがあったらしい。

 自分から声など掛けてやるものかと意地になっていたリュークだったが、今にも倒れそうなほど打ちのめされているシエラを見ていたら、そんな気も少し失せてしまった。

「シエラ」

 他人行儀の堅い口調でぎこちなく声を掛けても、シエラはすぐには気づかなかった。ここ数ヶ月、シエラの方から話しかけるか、用件はメールで済ませていたため、彼女の反応が鈍くなっているのも仕方ないといえよう。

 リュークがいらいらし始めた頃、シエラはふっと顔をあげ、周囲を見渡した後、最後に鉄面皮を発見した。

「今、私に話しかけましたか?」

「君の名前を呼んだんだがね。ここには僕と君しかいないのだから」

「申し訳ありません」

 シエラは消え入りそうな声で謝った。

「いや」

 リュークは立ち上がり、そっとシエラのデスクに近寄った。

「何かあったのか?」

「え?」

 シエラはぼうっとした顔を上げた。

「その、酷く元気がないようだから」

「いえ、なんでもありません」

 シエラは力なく首を振り、パソコンに向き直った。

「なんでもなくはないだろう。秘書がそんなようでは、僕の仕事に支障が出る」

「あ……」

 シエラは目を伏せ、リュークのスケジュール表をチェックした。

「午後から取引先の方とお食事をすることになっています。レストランは――、ああ、いけない。すみません、今から予約を入れます……」

 泣きそうな声になって受話器を取り上げる手を、リュークは上から押さえつけた。

 シエラがのろのろと顔を向ける。

「あの……」

「キャンセルするからいい」

「は?」

 シエラのエンジンがようやく稼動した。

「急に予定が入ったので、延期すると先方に伝えてくれ。何、たまにあることだ。先方もわかってくれるだろう」

「ちょ、ちょっと待ってください! 予定って? わ、私聞き漏らしましたか? それともメールでそのことが――」

「いや、違うよシエラ」

 リュークは穏やかに言った。

「僕はこれからの時間を、君のために使う」

 シエラはあやうく泣き出すところだった。



 この2年間でシエラが学んだことはたくさんあった。

 大企業で働くということの重み。秘書としていかにリュークを動きやすくするかを考えることの責任。

 そして、決してこの男にだけは心を許してはいけないということだった。

 毎日ランチの誘いをする電話を社内の美に恵まれた女性にかけ、夜も然り。それも昼間とは違う女性。

 そんなリュークを2年間、シエラは誰よりも傍で見守ってきた。

「シエラ。ジュエリーショップで、いくつか見繕って欲しいんだが」

 鉄面皮はそう言って、シエラに宝石を買わせる。それを手にして出て行った彼の相手の女性は、二度とリュークに誘われることはない。

 何て嫌な買い物をさせるのだろう。

 シエラがどれほど惨めな気持ちでいたかなど、リュークは知らない。

 その内、リュークには心がないのだと思うようになってきた。

 いくら軽口を叩ける仲になっても、リュークには心まで通わせようという気持ちは存在しない。

「僕は君を他人だなんて思ってない」

 こんな台詞が吐けるのは、罪悪を感じない人間か、よほどの博愛主義者だけだろう。リュークが後者だとはとても思えない。

 だからこそ、シエラはリュークに必要以上に近づくのを避けてきた。

 さりげなく自分のことを聞き出そうとすれば、小さな癇癪を起こした。

 それなのに、自分を見つめる鉄面皮の瞳の優しい光を目にした途端、シエラは諦めたのだ。

 今この場だけ、警戒心を解こうと。


 話し終えてうなだれているシエラの耳に飛び込んできたのは、史上最低のジョークだった。

「なら、僕と結婚しよう。そうすれば、全てがうまくいく」

 シエラは後悔した。内臓がひっくり返るほど後悔した。

「すみませんが、私は真剣なんです。あなたの冗談に付き合っている暇は」

「僕も真剣に言ってるんだが?」

「勘弁してください」

 シエラは頭を抱えた。

「私に社内中の女性を敵に回せとおっしゃりたいんですか?」

「手は打ってある」

「嘘ばっかり」

「伊達に社内中の女性とランチをしていたわけじゃない。いずれこうなるだろうから、祝福してくれと言いまわっていたんだ」

 馬鹿じゃないの?

 シエラは口から出そうになった言葉を必死で飲み込んだ。

「私は秘書として有能かもしれませんが、家庭でもそうなるだろうと勘違いしてらっしゃいません? あなたの浮気を黙って見守る貞淑な妻をずっと演じてろって言いたいんですか?」

「何を言ってるんだ? 何をどう聞けばそんなわけのわからない返答が僕にぶつけられるんだ?」

 リュークはこの時ばかりは鉄面皮を脱ぎ捨て、ぽかんとした表情になっていた。

「ともかく、あなたのそういうおふざけに付き合ってる暇はないんです。ちょうどお昼ですし、今日はゆっくり社内を歩いてみますわ。物好きが声を掛けてきたら、がっちりつかんで逃がさないつもりです。あ、その前にレストランの予約をしておかなくちゃ……」

 シエラは元気を取り戻し、今のおしゃべりは、自分を気遣うためだったのだと気づいて笑顔になった。ユーモアのカケラもないと思っていたリュークに、こんな一面があったなんて。

 再度受話器を取り上げようとすると、リュークがそれをもぎとるようにして奪った。

「社長!?」

 驚いて声をあげると、リュークは黙ってダイヤルを押し、どこかにかけた。

「ああ、先日はどうも。ええ、……はい。それで、午後の件ですが、外せない用事が入りまして……はい。ええ、この埋め合わせは後日必ず。はい……それでは」

 呆気に取られているシエラを前に、リュークは受話器を置いた。

「今の……」

「何が有能な秘書だ」

 リュークは冷たい声でシエラを責めた。

「僕の命令ひとつ満足にこなせないで。僕はキャンセルだと言ったんだ。聞こえてないはずがないだろう?」

「私の問題は解決しました」

「君は人生の大事な決断を、寄って来る適当な男に委ねるのか!?」

「あの」

 シエラは、激昂するリュークを両手でなだめた。

「ここはあなたの会社です。部下に対する侮辱とも受け取れる発言は控えるべきかと」

「学歴や仕事で人は判断できない」

「正論ですが、今は時間がないんです」

「だから!」

「いくら時間がないからといっても、あなたでは適当すぎます!」

 シエラの痛烈な一言は、リュークにはかなり堪えたようだった。

「き、君は、この僕が適当だと!?」

 必死で鉄面皮を被ろうとしているが、シエラはどうでもいいとあまり彼を見ていなかった。

「だってそうでしょう? 社長と秘書ですよ!? ハーレクインじゃあるまいし――」

「ハーレ?」

「いえ」

 シエラは咳払いして誤魔化した。

「とにかく、ありきたりすぎて、間に合わせだっていうのがすぐにわかるじゃないですか! だから私、もっと――」

「シエラ」

 リュークはデスクの上で拳を作っているシエラの手を握り締めた。

 はっと顔をあげると、リュークの真剣な眼差しが飛び込んでくる。

「結婚は適当にするものではない。君のご両親は、君のそんな姿を見たら、悲しむだろう」

「……」

「それに、その君が適当に見繕ってきた男に遺産の話をしてみろ。僕以外に目の色を変えないやつがいると思うか? 僕だってちょっと興味をそそられた」

「!?」

「ずっと僕の傍で僕を支えてくれた君に恩返しができるのは、今しかないんだ。僕に君の遺産の管理をさせてくれ。僕なら、有効に使うことができる――」

 ああ、そういうことなの。

 何かを得意げにまくしたてているリュークをぼんやりと見つめ、シエラは思った。

 もうどうでもいい。

 何もかも、手に入れればいいんだわ。

 ――先にあげていた私の心だけは、返してもらうけど。



 シエラの思惑通り、リュークは一時間もしない内に裁判所から戻ってくると、何事もなかったように仕事に戻った。

 シエラも内心の憤りを抑えながらも通常通りだ。

 だが帰る時間になると、リュークは初めてシエラを食事に誘った。

「嫌よ」

 プライベートな時には堅苦しい口調はやめてくれと言われていたので、シエラは慇懃無礼な態度で、その申し出を一刀両断した。

「おばあさんの病院へは、車で送るよ」

「結構よ。今日は行かないし」

 あからさまに拒絶され、さすがのリュークも息を吐いた。

「これから先、ずっとそんな態度でやっていくつもりか?」

「何か不都合でも? あなたの親族に会う時は、もっと頭の空っぽな、純粋無垢な新妻を演じてあげますけど」

 シエラは帰り支度をしながら刺々しく言い放った。

「いいや、君が不機嫌なのは、僕が遺産目当てだと決め付けているばかりではないだろう」

 リュークの言葉は、シエラの足に楔を打ちつけたように突き刺さってきた。現に、足が動かない。

「……どういう意味?」

「僕が君に恋していないから、君は苛立ってるのさ」

「!!」

 シエラは怒りに顔を染めた。

「だって君はずっと前から、僕に恋してるから」

「な、な……!」

 シエラは無理やり楔を引きちぎり、大股でリュークの前まで来た。

「自意識過剰もいい加減にしなさいよ! 世の女はみんなあなたに首っ丈ってわけ!? 世界の女は俺の物とでも!? うぬぼれないでよ!」

「僕をうぬぼれやにしたのは君だぞ」

「は!?」

 リュークは何故か得意げだった。シエラは、鉄面皮と密かに呼んでいたこの男のどこにこれだけの表情が隠されていたのだろうと不思議に思う。

「さあ、食事だ」

「嫌だと言ったでしょう!? 今日は先約があるのよ!」

「先約?」

「そ、そうよ」

 シエラは口をすぼめ、ぼそぼそと言った。

「お誘いを受けたから、応じることにしたのよ」

「まさかとは思うが、相手は女性だろうな?」

「毎日違う女をとっかえひっかえしてたあなたにそんな詮索はされたくないけど、男性よ。前から声を掛けられていて、今までは断ってきたのだけれど、今回だけと思って」

「ふーん」

 リュークは上機嫌だった顔を一瞬にしてもとの鉄面皮へと戻した。

「婚姻届を裁判所へ提出した日に、他の男とデートとはね」

「家は別々なんだから、独身と変わらないじゃない。別にあなたみたいにやましいことをするわけじゃないんだからいいでしょう?」

「……君は僕をなんだと思っているんだ?」

「下品なことを口にするのはやめろと命じられているから、言えないわ」

「そういう命令を忠実に守ってくれているなら、今他の命令をしても構わないのかな?」

「何よ」

 ぎろりと睨みつけてやると、リュークは意地の悪い笑顔になった。

「僕に恋していることを認めなさい」

「今日限りで辞めさせていただきます!」

 シエラは真っ赤になってそう一喝すると、スタスタと部屋を出て行こうとした。

「おやおや。君なら平気で口にできると思ったんだがね。男の扱いなんて、手馴れたもんだろ?」

 その腕をぐいと引き寄せると、シエラはあっさりとそれに引きずられ、身動きが取れなくなった。真後ろにリュークが立っている。それも、自分の腕をつかんで。それを思うと呼吸がうまくできない。

「放してちょうだい」

「言ったら、放すよ」

「じゃ、じゃあ言うわよ」

 耳まで真っ赤になったシエラが、諦めたように言う。

「言ったら、僕の車に乗ってくれるね」

「それは嫌。先約があるって言ったでしょう? 相手の方に失礼になるわ」

「僕に対する数々の暴言についての失礼さは、何とも思わない?」

「思いません。自業自得でしょ」

「全く……」

 リュークが低い声で、何か悪態をついているのが聞こえた。今夜の相手が決まらないからこうしてしつこく迫ってくるのだとシエラは気づき、リュークの足を思い切り踏んづけてやろうと長い足を振り上げた。

「君のような女性は、見たことがないよ」

 リュークはそう言うと、攻撃態勢に入っていたシエラの腰を後ろからつかみ、くるりとこちらに向けさせた。その際、振り上げていた足がバランスを崩し、シエラは倒れそうになり、咄嗟にリュークにしがみついた。

 鼻先に香るリュークの匂いを吸い込むと、シエラは胸の奥が熱くなるのを感じ、顔をそらした。心だけは取り戻さなくてはと必死で言い聞かせる。だが、これだけは自分の意思をどう強く持っても無理だった。心を許してはいけないとわかっているのに、ふと気づけばとっくにそれは彼のものになっていたのだ。

 それを知ったときは愕然となった。もしそれをリュークが知ったらどうなるだろう?

 この会社に入ったいきさつを話したとき、彼は親身になって聞いてくれた。困っている人を放っておけない男なのだ。彼はシエラの心を知っても、馬鹿にすることはないだろう。それどころかデートに誘い、天にも昇る気持ちにさせてくれた後、こう告げるのだ。


「シエラ。ジュエリーショップに行って、いくつか見繕ってくれ」


 そしてそれは、そのまま彼女のものになる。それでおしまいだ。

 自分との別れの品を、自分で選ばされるのだ。そんな惨めなことはない。

 シエラがリュークに心を許してはいけないと固く誓っているのは、そのせいでもあった。

 そんなことを思っていると、リュークが強く抱きしめてきた。よろけた状態で顔を押し付けられている格好になっているシエラは、息ができなくなってもがく。

「先約をした男は、君が遅いのを心配して、ここに来るかもしれないな」

 シエラの耳元で、わざとリュークはぞっとするようなことを言ってきた。シエラはぎょっとして、更に暴れる。リュークは喉の奥で笑うと、自分の椅子を手繰り寄せ、シエラを抱えたまま腰を下ろす。シエラはリュークの膝に横抱きにされ、悲鳴をあげそうになった。

「見せ付けてやろうか。はい、目を閉じて」

 リュークはシエラの唇に素早く指を当てて悲鳴を止めさせると、うさんくさい笑顔になって、顔を近づけた。

「ままま、待って待って!」

 シエラはリュークの顔を両手でふさいで身をよじった。

 今まで女性にそんなことをされたことのないリュークは、驚き、視界を遮られながらもシエラを放さない。

「う、嘘! 嘘なの!」

「む?」

 リュークが口をふさがれた状態で声を出すと、そこから振動が全身に伝わって、シエラは体がこわばった。ああ、彼の唇はこんなに柔らかい……だめだめ。

 リュークの顔から手を放し、手の平を無意識にリュークのスーツでぺたぺた拭いながら、シエラは決まりが悪そうに白状した。

「先約なんてないの。ただ、本当にあなたと外出したくなかったから、嘘をついただけ。だからあなたは私にこういうことをする必要はないというわけ。おわかり?」

「よくわかった」

 リュークはいつもの鉄面皮に戻ってうなずいた。

「よかった」

 まだ手をぺたぺたしながら、シエラもこっくりとうなずく。

 ふたりはしばらく無言だった。

「で、えーと。降りていい?」

 シエラはようやくぺたぺたを止め、きょろきょろと首を動かしながら言った。

「いいや、許可できない」

 鉄面皮は眉ひとつ動かさなかった。

「何故?」

 そわそわしながら上目遣いで見つめると、リュークは突然前触れもなく、シエラの胸の膨らみに手を添えた。

「きゃぁっ!?」

 何かの弾みでうっかり触ってしまったとは言い訳できないほどの堂々とした仕草に、シエラは怒りも忘れて十代の小娘のような悲鳴をあげる。

「君が僕のアルマーニのスーツで手を拭ったのは、僕への誘惑と受け取るべきかと悩んでいるところなんだが」

「え? あ、ごめんなさい。ほら、顔って脂が浮いてるじゃない? なんか気持ち悪くて」

 とても恋する相手への言葉とは思えないことを口走り、両の手の平をぷらぷらさせるシエラを、リュークは冷たく見下ろした。

「君が触れたのは、ちょうどこの部分なんだが」

「ちょっと!?」

 リュークは無遠慮にシエラの胸の膨らみを押し上げるようにして掴む。さすがのシエラもその手を引き剥がしにかかった。

「全くおかしな話だ。僕が同じ事をすれば君はどうせセクハラだのなんだのと僕を非難するくせに、自分は許されると思っているんだから。あんな風に女性が男性に触れるのも、れっきとしたセクハラだぞ」

「ごめんなさい。あ、でも言い訳させて」

「なんだ?」

「あなたが私にハンカチを取ることすら許さない状況を作っているのが原因だと思わない? 私の置かれている今を見てよ」

 会話は普通の口調でも、ふたりの手は激しい攻防戦を繰り広げている。胸をつかんで放さないリュークの手を必死でどかそうとするシエラ。ふたりの姿はあまりにも滑稽だ。

「なるほど」

「なるほどと思うんなら、このセクハラなハンド君に、どうぞ退却するようにとあなたの脳から命じてくれない?」

「君が僕の車に乗ってくれるならね」

「またその話?」

「その話をずっとしていた」

 リュークはそういい終えると、シエラの両手がほかの事に集中しているのをいいことに、初々しいカップルのような、素早いキスをしてきた。

 シエラが手を動かすのをやめてぽかんとしている隙に、今度は濃厚な口付けをする。

 膨らみを掴む手を焦らすように動かすと、シエラが息を呑むのが伝わってきた。

「君の肌を見たのは、君が挑発的に首元を見せ付けてきた時だったな」

 息を荒げながら、リュークは囁いた。

「僕がどんな気持ちだったかわかるか?」

「わかるわけないでしょう。女の肌なら毎日見てるくせに」

 潤んだ瞳で、シエラはかろうじてそう言った。

「そういう僕に対する思い込みは今すぐ捨てるんだ」

 リュークはそう言って、また唇を重ねる。

 経験の乏しいシエラには、何をどうしていいのかわからなかったが、リュークの舌が侵入してくる頃には、自然と舌を絡ませ、両腕をリュークの首に巻きつけていた。

「ここで愛し合うことに抵抗は?」

 リュークがもどかしそうに言って、シエラの上着のボタンを外そうとする。シエラは慌てた。

「あります。大ありよ!」

 どくどくと心臓が血液を全身にめぐらせていくのがわかる。理性が勝る今の内に、シエラは逃げ出したくてたまらなかった。

 彼とそうなったが最後、お別れのプレゼントを自分で買うはめになりそうで、彼と一線を越えるのだけは避けなくてはならないと本能的に心が警告していたのだ。例え結婚しても、遺産が手に渡れば彼は疾風のごとくいなくなるだろう。もしかしたら仕事も失うかもしれない。そんな苦しみしか待っていないことがわかっていながら、シエラはここで身を任せるつもりには到底なれなかった。

「なら、車の中は?」

「お断りします。……あなたはもっと、わきまえる人かと思っていたのに」

 キスの嵐を避けたり受けたりしながら、シエラは鉄面皮はどこへ行ったのかと思わず床を探したくなった。もしかしたらどこかに落ちているかもしれない。すぐに彼の顔に被せなくては!

「だってようやく、僕は望みのものを手に入れるんだからね。今までのことを思えば、僕は自分を誉めてやりたいくらいなんだよ」

 リュークの言葉に、シエラは固まった。リュークはシエラの頬に唇を押し当て、しばらく黙り込む。

「……そんなに私の遺産が欲しいの?」

 失望の滲むシエラの声色を聞き、リュークはシエラの両肩をつかんだ。

「遺産じゃない。僕は君の事が、ずっと欲しかったんだ」



 まるでハーレクインみたい。

 シエラはぼんやりと思った。これが現実で起きている話のわけがないのだ。

 人付き合いを避けてきた彼女は、題名に惹かれてある本を買った。人と何かを楽しめない彼女には、読書が生きがいだったのだ。それがハーレクインとの出会いだった。

 現実味のない話だけれど、何故だか引き込まれる。

 砂漠の王子や石油王が、ひょんなことから平凡な女性に熱烈な愛を捧げてくれる。まさに世の女性が一度は思い描く夢物語。

 そのシリーズの中には、今の自分とリュークのような関係のものもあった。

 遺産のために結婚してくれと泣きついた相手と、最終的に恋に落ちるというもの。

 社長と秘書が恋に落ちるもの。

 だが現実は甘くない。シエラは2年間でそれを嫌というほど思い知らされたのだ。

 絶対にいい方に考えてはいけない。

 シエラはリュークの言葉をじっくりと反芻した。

 彼の意図が知りたい。

 その意味するところは、ひとつしかないように思えた。

「モデル関係のことにまで、事業の手を広げるつもりなの?」

 リュークはシエラの口から飛び出した言葉に耳を疑うような表情になった。

「え?」

「だって、あなた以前私に何故モデルにならないのかと尋ねたわよね。私が欲しいというのは、つまり私をモデルにしたいという――」

 突然体が浮き上がり、シエラは手足をばたつかせた。

「なっ、なに!?」

「言ったかな」

 リュークは鉄面皮をしっかりと被り終えたところだった。

「君は僕を怒らせる天才だって」


 リュークに抱え上げられた状態で、シエラはリュークの車まで運ばれた。社内中の人間のさらし者になり、消えてなくなりたいと強く願った。抗議をする気力もなく、シエラは人形のように、座席に座らされるまで動けなかった。

「これで君をランチに誘おうとする馬鹿共もいなくなるだろう。君が誰のものなのか、これではっきりしたことだしね」

「私がいつあなたのものになったのよ!?」

 ようやくシエラはリュークに食って掛かった。

「勿論、僕の秘書になった瞬間からだよ」

「随分と横暴な話じゃない?」

「君がそうしたいと願ったからだ」

「またそんな――」

「違うとは言わせない。君は僕に恋している」

 その言葉には、有無を言わせぬ力強い響きがあった。

 シエラはぐっと詰まったが、八方に飛び散ったプライドをなんとかかき集めた。

「あなたに恋をする暇なんてないわ。言ったでしょ。私は毎晩――」

「今までは、気づかない振りをしてあげるのが優しさだと思っていたがね」

 リュークはシートベルトを締めながら、淡々と言った。

「流石にそんなあからさまな嘘にまで気づかないでいてあげるほど、僕は優しくない」

「う、嘘じゃないわよ! キスマークだって見せたじゃない!」

「あの時は動揺したが、よくよく考えてみれば、あれは虫さされの痕だった。僕としたことが」

 リュークは全くの無感情で自分の迂闊さを呪ったため、シエラは何も言い返せなかった。

「君がそんな嘘をついたのは、僕が色んな女性とつきあったからだろう。そのことでは、随分と君を苦しませてしまったね」

「苦しんでなんかいないわよ」

 シエラは素早く言ったが、リュークは聞こえないふりをした。

「さ、行こう。多分帰る頃には、君の機嫌は直っているはずだから」

 シエラが慌ててシートベルトを締めるのを確認すると、リュークは車を発進させた。


「で、どこへ行くのよ?」

 車の窓から外を眺めながら、シエラは不機嫌なままだった。

 自分の恋心を本人から突きつけられる屈辱感は、いつまでも引きずりそうだった。

 リュークは主導権を握った喜びでいっぱいだろう。これで遺産も意のままだ。祖母の治療費くらいは面倒を見てくれるだろうが、後はどうされるのか想像もつかない。ひょっとしたら、そのお金で新たにモデル事務所を立ち上げるつもりなのかもしれない。長身女は秘書なんかよりモデルがお似合いなんだと思われているのかもしれない。

 シエラはお腹に手を当てた。

 それでも、最終的に彼はそれは無理だと判断するだろう。

 自分にはそれができない確固たる理由があるからだ。

 それを知ったら、リュークは自分に手を触れることもなくなるだろう。

 男という生き物は、普段は欲望のはけ口として淫らな女を求める癖して、根本的には無垢な女を好むのだから。ハーレクインのヒロインは大抵が処女で、男はプレイボーイというのが定番になっている。男は『キズモノ』には価値を見出さない。そんな生き物なのだ。

「食欲なんかないんだろう?」

 リュークは、シエラがお腹に手を当てているのは満腹だという合図だと勘違いしたらしい。心得ているといった顔をして微笑んだ。

「ええ、まあ」

 沈んだ表情でシエラは肯定した。事実その通りでもあったからだ。

「君が元気になれる場所へ行く」

「あなたがそんな場所を知っているとは思えないんだけど」

「君のことならなんでもわかると言ったところで、君は信じないんだろうな」

 リュークはため息と共に言ったが、シエラは窓の外を眺めて聞き流した。

 やがて、いつもバスが通っている馴染みの風景になっていくと、さすがに顔をリュークの方へ向けた。

「ねえ、どこへ向かっているの?」

「わかってるんだろう?」

 愉快そうにリュークは言った。

 嫌な予感が募っていく。

 リュークの車は、シエラの祖母のいる病院の駐車場へ向かっていた。



「まあ、今日はふたりなのね」

 驚いたことに、ふたりが祖母の病室へ行くと、祖母はリュークを見て目を細めて歓迎した。

「え。彼を知っているの?」

 訳がわからないのはシエラひとりのようだった。リュークはにやにやしている。またも鉄面皮をどこかへ落としてきたらしい。

「ええ。この間から、たまにここへ通ってきてくれるのよ。あなたたち、結婚したんですってね。おめでとう、シエラ」

 幾分か顔色のよくなった祖母は、目に涙を滲ませていた。

「あなたのウエディングドレスをこの目で見られなかったのが残念だわ。写真はあるのでしょう? 後で見せて頂戴ね」

「あ、あの」

「シエラは、あなたが元気になってからドレスを着るのだと言い張りましてね」

 言いよどむシエラの横で、リュークがにっこりと進み出た。

「まあ、そうなの」

「ええ。だから早く元気になってください。手はずは全て、整えてありますから」

「本当に、何から何まで――」

「ちょ、ちょっと待って!」

 シエラが手を上げて割って入った。

「何から何までって、この人が何を何から何までしてくれたの!?」

「シエラ。同じ言葉をそう何度も繰り返すんじゃない。馬鹿に見えるぞ」

「あなたは黙ってなさいよ。何、そのしまりのない顔! あなたはいつものように、無表情でぬぼーっと立ってればいいのよ!」

「まあ、シエラ!」

 孫娘のあまりの剣幕に、祖母は絶句した。シエラはハッとして、慌てて取り繕うように微笑んだ。

「気にしないで! 私たち、いつもこうなの。スリルのあるやり取りをして、愛を育んでいるのよ!」

「彼女から飛び出してくる言葉の数々には、毎日驚かされっぱなしで」

 リュークもにこにことシエラの肩を抱きながらうなずいている。

「そうなの」

 祖母はまだ驚きを隠せないでいるようだが、やがて微笑んだ。

「シエラ。彼は遺産が入る前から私が手術をできるよう、取り計らってくれたのよ」

「………え?」

 リュークの腕の中で、シエラが身を強張らせた。

「あなたが毎日私のお見舞いに来てくれることを私が心配していたら、彼は全て任せてくれと言ってくれてね。ただでさえお世話になっている方なのに、ここまでしてもらってと申し訳なく思っていたのよ。そしたら結婚することになるなんて……本当に素晴らしい方だわ。幸せになるのよ、シエラ」

 祖母がそっと手を伸ばしてきた。シエラはその手を掴み、握り締めたが、言葉が出てこない。

 リュークが優しくシエラの肩を叩き、シエラは口を開きかけるが、やはり言葉が出てこなかった。

「今日は疲れたかな」

 リュークが労わるような言葉をかけてくる。シエラはその顔面に拳を叩きつけてやりたくなるのをかろうじて抑えるのが精一杯だった。

「明日も早いのでしょう? 今日はもうお帰り。また明日、元気な顔を見せて頂戴」

 祖母も優しく言った。

 シエラはこくんとうなずき、微笑んで見せると、リュークに肩を抱かれながら、そっと病室を後にした。


「大丈夫かい?」

 廊下に出て歩きながら、リュークはシエラの顔を覗きこんだ。

「もう放してくれて結構よ。ひとりで歩けるから。それともまた私を抱え上げて、今度は病院中の笑い者にしたい?」

 シエラはリュークの腕の中から逃げ出すと、涙を溜めた目でリュークを睨みつけた。

「君が望むならそうしてもいいよ。君は軽かったから、苦ではない」

 リュークは思ったより手ごたえのないシエラの反応が、少々面白くないようだった。

「私を色んな意味で笑いものにしたものね。もう気は済んだでしょうよ」

 シエラは早足になった。

「僕は、おばあさんの元気な様子を君に見せてあげたかったんだけどな」

 リュークがそれを追いながら、寂しそうに言った。

「ずっと祖母を看てきたのは私よ!」

 シエラは叫んだ。周囲の人間が眉をひそめながら、遠巻きに歩いて行く。

 リュークはようやくシエラの言いたいことがわかり、申し訳なさそうな顔つきになった。

「すまない。そんなつもりではなかった」

「私の知らないところで勝手に手続きをして、勝手に結婚の報告までして……いくらなんでもあんまりだわ!」

シエラは看護師が眉をひそめるのも構わずに、突然駆け出した。

「病院では――!」

 後ろから非難の声を投げつけられても、止まらなかった。

「シエラ!」

 リュークが慌てているのがわかる。彼は自分と同じように、病院の廊下を走るなんて馬鹿な真似はしないだろう。このまま永遠に彼と顔を合わせずにいられたら、どれだけ気が楽になるだろう!

 だが、出入り口の自動ドアまで来ると、力強い手が痛いほどシエラの腕をつかんで引き止めた。

「君はよっぽど僕を怒らせたいらしいね。謝罪も聞いてくれないのかい?」

 息を切らせながらリュークはそう言った。シエラはなんと、片足をあげて、リュークの向こう脛を蹴った。

「もう! あなた一体なんなのよ!?」

「君の上司であり、夫だが? 僕こそ、この理不尽な暴力はなんなんだと君を問い詰めたいんだが?」

 痛みに顔をしかめながら、リュークはシエラを駐車場まで引っ張って歩いた。

「説明してよ! いつから!? いつから私の祖母を懐柔したの!?」

 引っ張られながら、シエラは誘拐犯に手を引かれる子供のようにわめいた。

「君が僕に嘘をついた、あの日からしばらくしてだね」

 リュークは片手でシエラを拘束したまま、器用に車のキーを取り出した。

「え!? そ、そんな前から!?」

 シエラは開いた口が塞がらなかった。

「ああ。どうしても、確かめる必要があったから」

 キーを差し入れながら、リュークはシエラを振り返る。

「君は毎日おばあさんのお見舞いに行っていた。僕はそれをあの人の口から聞きたかったんだ」

「そ……そんなことを確かめて、あなたに何の得があるのよ?」

 シエラは泣きそうになりながら言った。勘違いしてはだめ。彼は自分の会社の風紀を乱すような女が本当にいるのか確かめたかっただけ。それだけよ。治療費の援助だって、祖母を見て同情したに過ぎないわ。でもそのお金が惜しくなって、私に遺産が入ることを知って、取り戻したいと思ったから結婚したのよ!

「わからないのか?」

 リュークはキーを差し込んだままにして手を放すと、シエラの頬を両手でつかんだ。

「もしそれが本当なら、僕は自分の持てる全ての財を使って、君の通う繁華街をつぶしていたからだ!」

「はぁ!?」

 シエラは目を見開いた。

「馬鹿だろう? 笑ってくれて構わない。だが僕は本気だった。でも心の中では確信していたよ。君はそんな女性じゃないって」

 リュークは早口でまくしたてながら、その合間にいくつもいくつもキスをシエラの顔に落として行った。

「思った通りだった。でもまた腹が立った。何故そんな嘘をついたのかと。理由は思い当たったが、まさかと思ったんだ。君は僕をずっと避けているし、僕の事を見ようともしないから、そんなはずはないと」

「え? あの、何を?」

 興奮しているリュークをなだめようと、シエラはリュークから離れようともがいたが、リュークは額をくっつけてきて、息を吐いた。

「でも君は、僕に恋している」

「!」

 かーっと、全身が熱くなった。信じてはいけないと警告音が頭の中をガンガンと鳴らしているが、同時に信じたいという気持ちが沸きあがってくる。リュークは何を言っているんだろう? 社内中の女性を虜にする目標が、遂に達成されたことに喜びを感じているのだろうか? シエラだけが、彼の思い通りになかなかならなかったから。それが気に食わなくて結婚までしたのだろうか? まさか! 彼自身も言っていたではないか。結婚は適当にするものではないと。でも――……

「話は帰ってからだ」

 リュークは困惑しているシエラにもう一度口付けると、シエラを運転席から促し、中に入れ、助手席まで追いやった。その間に自分も運転席に滑り込み、ドアを閉める。

「帰るって? 送ってくれるんでしょう? まさか、あなたの家に私まで入れるつもりじゃないでしょうね?」

 シエラが不安に思っていることをそのまま口にすると、リュークはにやりと笑った。

「僕の家じゃない」

 シエラはほっとした。

「僕らの家だ」

 シエラはドアに飛びついた。

「ロックがかかってるから、開かないよ」

 楽しそうなリュークの声が恨めしかった。

「リューク」

 怒りを込めて名を呼ぶと、リュークの顔が強張った。

「今?」

「え?」

 きょとんとしてから、シエラはリュークの名を呼んだのは、これが初めてだということに気がついた。

 リュークは口元を片手で覆い、黙り込む。

 シエラは急に悪いことをした気分になって、謝った。

「ごめんなさい。馴れ馴れしかったわよね」

「あ、いや……」

 リュークは咳払いした。そこで、彼の顔が赤く染まっているのを見て、シエラは驚いた。

「どうしたの?」

「君から名前を呼ばれることが、こんなに嬉しいものとは思わなかったんだ」

「!」

 シエラまで赤くなったが、ぶんぶんと首を振った。

「あのね、いくら私の機嫌を直そうと思うからってそんな嘘までつかなくても」

「嘘じゃない」

 リュークは息を吐いた。

「試しにあの時に囁いてごらん。僕の理性は瞬く間に吹っ飛んで、君の寝不足は永久に続くことになるよ」

 その言葉の意味がよくわからず、シエラは黙り込んだ。リュークは微笑を浮かべると、シートベルトを確認して車を発進させる。

「何を言い出すのよ!?」

 シエラが真っ赤になって叫んだとき、車はリュークの家の前に到着していた。



 鉄面皮を完全に脱ぎ捨てた家の主が、誇らしげにシエラを見つめている。

 シエラは口をあんぐりと開けて、家と呼ぶには大きすぎる屋敷をぽかんと見上げていた。

「博物館?」

「何でそんなところに来る必要があるんだ」

「え? じゃあ、風変わりなアパート?」

「ここには僕と、数人の使用人しか住んでいないが」

「え? ひとりが住むために、こんな無意味な大きさの家に住んでるの!? 滅多に入らない部屋もあるでしょうに。なんてもったいない……」

 リュークは、ここに招待したことのある女性とはまるで違うシエラの反応に、呆れるやら感心するやらで、好奇心いっぱいの瞳でただシエラを眺めていた。

 すらりとした長身で、髪も短くまとめている彼女だが、真っ赤なルージュを引いて長髪をゆらゆらさせながら迫ってくる美女とはまるで違った魅力があることに、すでにリュークは気づいていた。

 ただ本人はそのことに全く気づいておらず、口癖のように、自分の魅力のなさをつぶやいては、リュークが伸ばした手を跳ね除ける。最初はそれを言うことによって相手からの誉め言葉を期待しているのかと邪推もしたが、そうではないらしい。シエラという女性は、ランチの時間になる度に何とか近寄ろうとしてくる男たちがいても、決してそれは自分に魅力があるからだとは思っていないのだ。

 胸元が開いた服を着ることも、スカートすら履くこともない。

 いつもかっちりとしたスーツを身に纏い、誰も近寄らせないようにしていた。

 だからだろうか、こんなに辛抱強く思いを伝えても、彼女はそれをいい方に解釈しないのは。

 ここまで来るのにどれだけかかっただろう。

 彼女の身持ちの固さはリュークにとって救いだった。

 もし彼女が請われるままモデル事務所へ行っていたら、こうして傍にいることもなかった。彼女はリュークがモデル事務所へ圧力をかけて、二度と彼女に接近するなと警告したことすら知らないだろう。しかし、シエラがそれを知ったところで、困惑するばかりで自分の意図を計ることは、恐らく永遠にないだろう。

 そこまで思うと、心に風が吹いた。

「さあ、入ろう」

 ドアの傍には暗証番号を入力するための装置があって、それに入力しないと家には入れないことになっていた。

 手馴れた所作でボタンを入力して行くリュークの指を、シエラは無言で見つめている。

「後で番号を教えるよ。今日からここは、君の家だからね」

 にっこりとそう告げると、シエラはきっとリュークを睨み上げた。

「祖母は懐柔できたかもしれないけど、私はあなたには操作できないわよ。何でも勝手にひとりで決めて! あなたは私の意思なんかどうでもいいのね!?」

 そうしなければ、君はいずれ、僕の元から逃げ出すじゃないか。

 リュークはそう口を滑らせそうになったが、微笑むだけで済ませた。

 彼女の祖母の治療費を負担したことも、結婚の報告を孫娘より先にしてしまったのも、全ては焦りからだった。

 遺産目当てだなんてとんでもない。それを証明したかったし、彼女がこれは仕方のない結婚なんだと祖母に口走るのを防ぎたかったのだ。

 最も、彼女にそれを言ったところで、信じてくれるかどうか。

 しかしここで負けるわけにはいかなかった。

 何しろシエラは、僕に恋しているのだ。

 リュークはそれを思うだけで、力が沸いてくる。

「どうぞ、お先に」

 シエラの華奢な背中を手で押すと、彼女は渋々といった感じで足を踏み入れた。

 このまま閉じ込めてしまえるものならそうしたいんだけどね。

 リュークはそう思ってから、自分の中にこんな独占欲が隠れていることを知って、愕然となった。

 学校が作れるほど女のいるプレイボーイ。

 そんな男が、たったひとりの女に執着するなんて、君は信じる?

 彼女の自分に対する疑いは払拭せねばならない。

 まずはそこから始めよう。

 リュークは感嘆の声をあげて周囲を見渡しているシエラを見つめながら、決意した。



 リュークの思惑とは裏腹に、シエラの怒りは爆発寸前だった。

「ここが君の部屋だ」

 そう言ってある部屋へ入った瞬間、シエラはひっくり返りそうになったのだ。

「ど、どういうことよ!?」

 振り返って怒鳴るシエラは予想の範疇だったので、リュークはにっこりした。

「あの小さなアパートは、君にはふさわしくないからね」

「あなたどうかしてるわ! 私と祖母が暮らしていたアパートは!? あそこはどうなったの!?」

「別にブルドーザーで潰したわけじゃない。君たちの部屋にあったものを、残らずここへ運ばせただけだ」

 シエラが怒るのも無理はなかった。

 住み慣れたアパート。シエラと祖母が暮らした空間。その全てをこの男は、無許可でここへ運ばせたのだ!

「心配しなくても、ゴミと埃以外何も捨てちゃいないさ。ただ何点か服は処分させてもらうよ。君はどうしてああいう色合いのものしか持っていないのか……」

「私はペットじゃないのよ!」

 シエラは物凄い剣幕でがなりたてた。リュークが何故あれほど食事に誘ったのかわかった。彼は人を雇い、シエラの家のものを全て運ばせるために、彼女を引き止めたのだ。

「私たちの結婚は、遺産のためだったはずでしょう!? あなたがここまでする権利があるの!? 夫という権力をふりかざしても私には効きませんからね。あなたにその義務が果たせるとは思わないし!」

「僕が浮気するって?」

「当たり前でしょう!? あなたは会社でも家でも、自分が動きやすくするための便利な道具が欲しかっただけじゃない!」

「君がそんなに神経質になっているのは、お腹が空いているせい? 食事を作らせようか」

「誤魔化さないでよ。今日一日で、こんなに怒ったのは初めてよ! 誰のせいだと思ってるのよ!」

「どんな感情であれ、君が僕のために心を動かしてくれるのは幸せなことだ」

「あなたって人は……!」

 わなわなと震えるシエラを見下ろし、リュークはさすがに罪の意識を感じたようだった。

「シャワーでも浴びて来なさい。僕は君の思っているような人間じゃない」

「ハッ」

 シエラは顎をつんとさせ、それからそわそわと部屋の中を見渡した。見慣れた家具が綺麗に配置されている。腹の立つことに、アパートの中と全く同じ風景が広がっていた。違うことは、このワンルームがアパートよりも遙かに広く、バスルームが豪華そうだということ。本当に今日からここに住むのだろうか? まだ見てない部屋もたくさんあるし、ここにいれば、この癇癪もちの心も少しは豊かになる?

 でもその頃、リュークがここを出て行けと命じたら? アパートも勝手に引き払われた。そうなったら、自分はどこへ行けばいい?

「シエラ?」

 立ち尽くしているシエラを見て、リュークは心配そうな顔になった。シエラは我に返り、泣きそうになっている自分を隠すため、バスルームに逃げ込んだ。

 リュークは私の意思を無視する。

 服を脱ぎながら、シエラは唇を噛み締めた。

 尊重して欲しいなんて思わない。ただ、何もかもひとりで決めて欲しくなかった。

 夫婦とは分かち合うもの。

 シエラは逃げ出すことでそれを拒絶し、リュークは押し付けることでそれを拒絶している。

 こんな調子で、夫婦なんてやっていけるわけがない。

 シエラは惨めだった。

 全て先回りして事が決められるなら、自分は本当に人形になってしまう。

 リュークはそんな妻が欲しいのだろうか。

 シエラはスーツが皺にならないよう壁にかけながら、涙を零した。

「シエラ」

 急に声を掛けられて振り向いた。

 青ざめたリュークがそこに立っている。

 シエラはぎょっとして両腕で自分を抱きしめた。

「何よ!? 入ってこないで!」

「君に謝ろうと……」

 リュークの言葉はそこで途切れた。

 下着姿のシエラは、リュークの視線が体のあちこちを見て驚愕に見開かれているのを見た。ずきんと胸が痛む。そんな目で、見ないで。

「……驚くわよね」

 怒りも忘れて、苦笑した。

「あ、その……」

 リュークは力なく首を振る。

「小さい頃、両親が事故に遭って亡くなったのは知っているでしょう。自動車事故よ。その車に私も乗ってた。私だけ無傷というわけには、いかなかったのよ」

 シエラは、体の至るところに残った白い線を目を細めて見下ろした。子供の頃に受けた傷なので、当たり前だが塞がっている。だが小さくも白く残った線は、一生残るものだった。

「おまけに、盲腸が破裂するまで気づかなくて、4年前、緊急手術を受けたわ。後一日遅れていたら、危なかったって」

 自分を抱きしめていた腕を解く。お腹に痛々しい手術痕が、くっきりと残っていた。

「私はキズモノなの。これじゃあモデルどころか、肌を見せた服すら着ることもできない。あなたも嫌でしょう? こんな奥さん」

「そんなことはない」

「どうだか。私にできた初めての彼氏は、私の裸を見て眉をひそめたわ。痛々しくて見てられないって。身体を重ねるのが苦痛だと言ったのよ。あなたは違うと言えるの?」

「言えるよ」

 即答するリュークが憎らしい。シエラは泣くところを見られたくなくて、くるりと背を向けた。

「あなたには、本物のモデルみたいな素敵な女性の方が似合ってるわ。男の人は、皆そういう女性の方が好きですものね。わかったら出て行ってくれる?」

「いいや」

 リュークはそっと近づいて、傷ついたシエラを背後から抱きしめた。



「同情なんかいらないわ。小さい頃からたくさんもらってきた。もううんざりなのよ!」

 じたばたともがくたびに、彼女の柔らかな肢体がリュークの五感を刺激する。

 それによって引き起こされる現象を、果たして彼女が気づいているか。

 リュークは更に強くシエラを抱きしめた。

「また君を怒らせてしまうかもしれないけど」

 リュークはあえぎながら言った。

「僕は君の傷を愛おしく思う。それがなければ君はきっと、大空へ飛び立って、僕のところへ来ることはなかったんだろうから」

「へ、変なこと言わないでよ!」

 シエラが赤くなるのがわかる。肌の熱さがこちらにまで伝わってくる。リュークはシエラの耳の下に口付けた。

「それを今から証明して見せようか? 君の全てにキスしてあげる」

「は!? え!? ちょっと!?」

 服を着たままの状態で、リュークはシエラを抱きかかえたまま、シャワー室へと入って行った。


「信じられない! 全くもって、信じられない!」

 茹でダコのようになったシエラをバスタオルで包み込み、リュークはシエラの悪態を微笑ましい思いで聞いていた。

「ドレスを着た花嫁をベッドの上に転がすのが夢だったのに、君がそれを無残にも打ち砕いてくれたから、僕はなすすべもなかったんだ。忘れられない一夜になりそうだろう?」

「この変態!」

 しまりのない顎に、シエラが振り回した拳が綺麗に入った。

「君も喜んでいたじゃないか」

 痛さに顔をしかめつつも、リュークは幸せそうだった。

「よ、喜んでなんかいないわよ!」

「僕の名を何度も呼んで、愛を囁いた」

「してません!」

「録音してあるけど、聞く?」

「!?」

 びくっと身体を強張らせたシエラをタオル越しに抱きしめながら、リュークは笑った。

「さすがの僕でもそこまではしないよ」

「やりかねない……今のあなたならやりかねないわ!」

 屈辱のあまりぶるぶる震えるシエラが小鳥のように思え、リュークは胸がいっぱいになった。

「なんでもするよ。君のためなら」

 その言葉に、シエラは涙をこらえた。

「なんでそういうことを言うのよ」

「僕の気持ちは、わかってもらえたと思うんだが」

 リュークは不安そうに言う。

「心のない身体のつながりに、意味はないと思ってきたから」

「そうよね。あなたにとって、世の女は全部愛人なんですものね」

 苦渋に満ちた声が呪いとなってリュークを攻撃した。

「まだ引っ張るんだね」

 リュークはみぞおちを殴られた気がしてシエラを見下ろしたが、彼女の腕はだらりと垂れ下がったままだった。

「僕はずっと、君が怖かったんだ」

「え?」

 意外すぎる言葉にシエラが顔を上げる。リュークは苦笑した。

「僕は、女性というものはいつもふわふわしたものだと思ってきた。多少の癇癪はあるけれども、それでも基本は、とても柔らかで、甘いものだとね」

「おめでたいわね」

「全くだ」

 リュークは首肯し、シエラのきょとんとした瞳を、穴が開くほど見つめた。

「ところが君と来たら、棘だらけ」

「悪かったわね」

「いや。その理由もわかった。僕は君の事を何も知らなかった」

「それは……仕方がないわよ。私がそうさせていたんだもの」

 シエラがうつむく。

「その棘が怖くて、僕はずっと君に無感情で接していようと思った。でも君が時折見せる弱さに、僕は惹かれていったんだ」

 リュークはそこまで言ってから、さすがに恥ずかしくなったのか、シエラを解放した。

「湯冷めしないうちにここを出よう。話す時間はたっぷりある」


 シエラがもたもたしている間に、リュークは素早くバスルームを出た。

 正装してリビングへ行くと、すでに食事の準備が終わっている。キャンドルが灯る中、豪華な食事が銀で出来た蓋を被せたまま置いてある。使用人たちには明日の昼まで暇をやっていた。この大事な日、大事な時間を、ふたりだけで過ごす必要があった。

「あの……」

 シエラがゆっくりと入ってきた。

 リュークは振り返り、ぽかんと口を開けた。

 いつものかっちりしたスーツではなく、彼が用意してあったナイトドレスを身にまとうシエラの姿。

「私のスーツが見当たらなくて……」

 申し訳なさそうに言うシエラが、たまらなく愛おしかった。リュークは穏やかに微笑む。

「使用人がクリーニングに出したんだろう」

「え!? どうしよう。長いこと出してなかったの。お金がなくて。……あ、もう払えるお金が手に入るんだわ。信じられない……」

 シエラは夢うつつでつぶやいているが、夢の中にいるのはリュークも同じだった。

 彼女をモデルにスカウトした人間の目は確かだった。

 すらりとした長身にはただでさえ目を惹かれるというのに、ドレスを着た彼女はどこに出しても恥ずかしくない淑女だった。ここがパーティ会場だったら、誰もが彼女の前に列をなし、ダンスの相手をとせがむだろう。

 腕や足に残る小さな傷痕など、何も問題はないように思えた。

 彼女がもしそのままモデルになっていたら、たちまちどこからも引っ張りだこになるのは明らかだった。

 だがそれを、彼女は望んでいない。喜ばしいことだと思った。照明の点る下、目をギラギラさせたカメラマンと、息をもつかせぬ視線を互いに交わらせながら悩殺的なポーズをとるシエラなど、リュークには考えられない。モデルとカメラマンが恋に落ちる話も聞く。残念ながら、リュークに写真の才能はなかった。

「僕は今宵という瞬間を、神に感謝したいね」

 我知らずに零れ落ちたセリフに、ふたりとも驚いた。

「現実主義なあなたが、神に感謝だなんて」

「ああ」

 リュークは肩をすくめ、彼女に席につくよう促した。

「君といると、僕は正気を保てなくなるらしい。こんなに綺麗な女性と食事ができる僕は、世界一の幸せ者だ」



 油断しちゃいけないわ。

 シエラは慎重にリュークを見つめながら椅子に腰かけた。リュークほどの男性なら、シエラのような女を陥落させることなどたやすいだろう。事実彼女の心はリュークのもので、彼もそれを知っている。

 先ほどのバスルームで過ごした時間は信じられないほど素晴らしいものをシエラに与えてくれたが、リュークはどうだったのだろう?

 リュークがおどけた仕草でシエラの前にある皿から蓋を取り上げるのを見守りながら、先ほどその手がどんな風に自分に触れたか想像して、シエラは顔が熱くなった。

 だが、料理の匂いがそれを吹き飛ばした。昼から何も食べていなかった。壁時計をちらりと見ると、もう9時を回っていた。いろいろなことが起こりすぎて、空腹を感じる暇もなかったが、こうしてリュークと向き合っていると、四肢が緩んでいくのがわかる。

「まあ、おいしそう!」

 皿に乗せられた分厚いステーキを見て、シエラは歓声をあげた。

「全部平らげてくれよ。料理人が腕をふるったんだから」

「任せて」

 蓋を取り上げていくと、魔法のように様々な料理が顔を出す。スープにチキン、サラダにフルーツ。

 これは何の料理なのかと尋ねる間もなく、シエラはナイフとフォークを持ち上げていた。

「あ、ワインもあるけど」

「お酒はあまり好きじゃないのよ」

「なら、食べよう」

 早く食べさせろとシエラの目が言っているのがわかり、リュークは苦笑して自分もナイフとフォークを手に取った。

 何か今晩のためになるような言葉を情熱的に囁こうかとも思ったが、餓えた彼の奥さんは、それどころではないらしい。

 一口頬張るごとに幸せそうな顔でうめき声を洩らす彼女は、また新鮮だった。

 思えば今までランチに誘った女性たちは、自分の前ではあまり食べたがらなかった。具合が悪いのかと最初は心配したが、それが彼女たちなりのマナーだと気づいたとき、何か釈然としないものを感じたものだった。

 食事の時間には、おいしいものを食べてもらいたい。

 料理というものには全て人間の手が携わっているのだ。それを無碍に脇に押しやるようなことは、ある意味食べ物への冒涜のような気がしていた。

 上品に食事をとるリュークとは対照的に、文字通りガツガツとあっという間にすべての料理を平らげてしまったシエラは、さすがにステーキを切り分けたまま、唖然とこちらを見ているリュークを見て顔を赤らめた。

「ごめんなさい。私、かなりお腹が空いていたみたいなの」

 目の前にいる人がどれほど素敵な人かも忘れてひたすら食べていた自分が馬鹿みたいに思えた。

「いや。食事に誘ったのに、最初にレストランへ行かなかった僕にも責任はあるよ。でもおかげで、料理人にチップをはずんでやりたくなったな。こんなにおいしそうに食べる女性が来てくれたんだ。喜ぶと思うよ」

「優しいのね、リューク」

 恥ずかしそうに微笑んだシエラが、そっと自分の名を呼んだ時、リュークは知らずにごくりと喉が上下して、慌ててステーキを飲み込んだ。一体どうしたというんだろう。これまでにも女性が自分の名を呼ぶことは珍しくなかったというのに、シエラが同じことをすると、まるで特別な魔法にかけられた気分になる。

 リューク、と呼ぶ彼女の唇が小さくすぼめられるせいだ、と彼は解釈した。あの魅惑的な唇が、彼の体を愛撫したときの感触がよみがえり、全ての皿を滑り落としてこの場で彼女を組み敷きたい欲望に、リュークは新たに頬張ったステーキをかみしめることでなんとか耐えた。

 ふたりの食事が終わり、リュークは席を立って動こうとするシエラを押しとどめ、自ら立って、水をワイングラスに注いだ。

 リュークはワインを飲もうかと思ったが、自分がこれから話す言葉がすべてワインのせいだと思われるのが嫌で、彼女と同じ、自分も水を選んだ。後でシャンパンをふたりで飲もう。

「本当に、ありがとう、リューク」

 ためらいがちにシエラは言って、グラスを掲げた。

「え?」

 我知らず緊張していたリュークは、ちょっと呆気にとられた。

「私、どんな理由にせよ、あなたに助けてもらったわ。……本当に、人間空腹になるといやな人間になっちゃうのね。私、自分が今日あなたに言った言葉全てを取り消したい。恥ずかしいわ」

「いいや。僕こそ身勝手だった」

 こんな殊勝なシエラは珍しかった。リュークは、これからシエラと話し合いをするときは、彼女を満腹にさせてからした方がいいかもしれないと思う。もしかしたら彼女は祖母の見舞いをしていた期間、ろくに食べていなかったんじゃないだろうか。そう思うとぞっとした。これからは毎日嫌というほど食べさせようと決意した。

「あなたがしたことは、感謝に絶えないわ。私ひとりでは何もできなかった。自分ではがんばってるつもりだったのよ。でもやっぱり、私では無理だったんだわ」

「君が頑張ってないなんて言う奴はいないよ」

 リュークはグラスをかちんとシエラのグラスにぶつけてから、片目をつぶった。

「結婚はひとりでするものではないんだ。君に何の落ち度があるんだ?」

「私、あなたにふさわしくないわ」

 シエラははっきりと言った。リュークは一瞬、それがどちらがどちらにふさわしくないという意味なのかわからなかった。シエラの表情を見ればすぐにわかることなのに、彼は焦った。

「僕では、美しい君にはふさわしくない?」

 わざと言ってやると、シエラは苦笑した。その目は、感謝の光で溢れていた。そんな風に言ってくれてありがとうと、如実に語っていた。リュークは切なくなった。

「ところで、最近君が読んだ本を教えてくれないか」

「え?」

 急に話題を変えたリュークに、シエラは戸惑った。

「読書好きだろう?」

 リュークはにっこりしている。シエラはぽかんとなったが、特に考えもなしに答えた。

「えーと……『ライバルはボス』だったかしら」

 言ってから、顔が赤くなる。男性がハーレクインを好む女性をどう思うかわからない。いい歳した女があんな夢物語が好きだなんて、彼はどう思うのだろう。

「ああ」

 リュークはなるほどとうなずいた。まるで知っているような素振りだった。

「? 知ってるの?」

 驚いて顔をあげると、リュークは照れ臭そうに笑った。

「なかなか興味深い内容だったね」

「読んだの!?」

 思わず腰をあげてしまった。リュークが本屋でハーレクインを買うところなど、想像もつかない。

「読んだよ。秘書がプレイボーイの社長に片思いしていて、最後は結ばれるんだろう?」

「……何故、読もうと思ったの?」

 シエラは自分の部屋に帰りたくなった。どうしてこの家が私のものになったんだろう? 恥ずかしくて消えたい気分だ。逃げ出したくても、もうアパートへは戻れない。

「君が、ハーレクインの愛読者だと知ったからね」

 更に追い討ちをかけるように、リュークの言葉が突き刺さる。シエラは泣き出しそうになった。

「ひどいわ。忘れてもらいたかったのに」

「忘れないよ。君の言葉は」

「……ハーレクインの受け売り? さっきから歯の浮くようなこと言っちゃって!」

「どうして? 本当のことだ」

 リュークはやや緊張した面持ちだった。シエラが警戒心の塊のようにリュークを見ていると、リュークは彼女に小箱を差し出した。

「?」

「君は忘れたかもしれないけれど」

 リュークは固い声で、彼女に小箱を開けるように促す。シエラは小箱を手に取るまで、中身が何なのかわからなかった。

「あっ!」

「今日、僕らは結婚したんだ」

 中に入っていたのは、小指の先ほどもある、大粒のダイヤの指輪だった。



 言葉も出ないシエラを、今度はリュークが注意深く見守る番だった。今までのことから考えるに、彼女はこれを見せられても、何も信じないに違いないことはわかっていた。それほどの不信感を今まで植え付けていた過去の自分を殴り殺せるものならそうしたかった。だが、全てけりをつけなくては。

「僕が君への気持ちに気付いたのは、君が嘘をついた、あの日からだった。でも多分、君と出会ってからずっと、惹かれていたんだろうね」

 唐突に話し始めたリュークに、シエラは口を開けた。

「黙っていて。何も言わなくてもわかるだろうと思ったことさえあったが、あの本を読んで考えを改めたんだ」

 リュークは苦笑した。シエラはそこを突かれると弱いらしい。真っ赤になってうつむいてしまった。

「それまでは、そうだね。君がいるのが当たり前で、僕はそれに甘えていた。君にほかの女性へ贈るプレゼントまで買わせた。残酷な事をしたね」

 シエラは身じろぎひとつしない。

「僕が知らずに口にしていた殺し文句を君へ使ったのも間違いだった」

 リュークは眉根を寄せた。

「だがおかげで気づいた。僕は女性がいい気分になるのを見て、優越感を味わうような男だ。それも何人もの女性を相手にね。君に罵られて当然だ。こんな僕が結婚を申し込んだところで、君は信じられないだろう。僕は逆の立場だったらどう思うかも考えた。君が社内中の男性とランチをとって、僕が困っているのを見て結婚しようと言う。これはと思ったね。とても信じられない。何か裏があるのではと考えるのが妥当だ」

 シエラはおずおずと顔をあげた。

「ただ、僕のそんな付き合いは、君と出会ってからはおとなしくなったんだよ」

 取り繕うようにリュークは言ったが、シエラは謎の微笑を浮かべたままだった。信じてないな、とは思ったが、止めるわけにはいかなかった。

「誓って言うが、彼女たちと深い関係になったことは一度もない。社内の人間とそんな関係を持ってしまったら、僕はこの地位を失うだろう。君が来てから、僕は必死で君から目をそらそうとした。その結果、君は僕を信用できなくなり、傷つけた。後悔した。でも君が嘘をついた日から、僕は君と結婚しようと決めたんだ。だからそのために、ランチをとる女性全てにそのことを話したよ。君は信じてくれなかったけど」

「ど、どうしてそこにつながるの?」

 リュークの言っている意味がわからず、シエラは眉をひそめた。

「ようやく自分の気持ちに気付いたからさ。君も僕から目をそらそうとしている。その理由が僕と同じだとわかったからね」

 リュークは嬉しそうに微笑んだ。

「ハーレクインのことを君が口走ったとき、興味が沸いたので読んでみた。君の気持ちを裏付ける証拠となったと確信した。だから動いたんだ。ここまで来るのに費やした時間は長かった。あまりにもね」

 リュークは一口水を飲むと、意を決したように口を開いた。

「ハーレクインに出てくるヒーローたちは、皆一様にこの言葉を言わなかったから、ずっと主人公に信じてもらえなかった。最後になってようやく女性の愛を勝ち取っていたね。でも、僕はあそこまで頑固にはなれないよ」

 リュークはそう言って、テーブルを回ってシエラの前にひざまずいた。

 シエラは足もとがふわふわして、今起きていることを受け入れるのに精いっぱいだった。

 もはや彼を疑う余地がどこにあるというのだろう?

 泣きたかったが、それすらもったいないと思った。リュークの顔が見られなくなる。

 シエラを見つめるリュークの瞳の暖かさに触れられるのは自分だけなのだと、シエラは今、ようやく理解した。

 リュークはそんなシエラの手を取り、きっぱりと言った。

「僕は君に恋してるんじゃない。君を愛してるんだ」

「ああ、リューク!」

 シエラは感極まって、リュークに抱きついた。

「言えなかったの。私、言えなかった!」

「わかってるよ。僕の迷惑になると思ったんだろう」

「私、自分のためのプレゼントなんて買わされたくなかった! それが怖かったの!」

「ごめん」

 シエラの叫びに、リュークは胸が締め付けられる思いでいっぱいだった。

「ごめんよ、シエラ」

「ずっと愛してきた。あなたに気付かれるわけにはいかないって、私」

 シエラは泣きじゃくり、リュークは骨が折れるほど彼女を抱きしめる。

「お願いだ。もう一度言ってくれ」

「愛してるわ」

 シエラは涙で濡れた目をあげた。

「君に証明できてよかった」

 リュークはほっとして微笑んだ。

「なに、を?」

 しゃくりあげるシエラの涙をそっとぬぐい取り、リュークは片目をつぶった。

「ハーレクインだったら、結婚してもふたりはお互いの心を計りかねて戸惑った毎日を送るんだ。僕はそんなへまはしない。初日からここまでたどりつけるヒーローは、僕くらいだと思わないか? 君はこの関係をありきたりだと言ったけど、たった今、僕はそれを打ち砕いたんだ!」

 シエラは笑い転げた。

「あなたもすっかり、ハーレクインの虜ね?」

「いいや。僕には君がいるから、もう読む必要はない」

 リュークはシエラの薬指に指輪をはめた。

「僕のヒロインは君だけだ」

 ふたりはもう一度抱きしめあった。


 その後、正式に遺産を受け取ったシエラだが、それに手をつけることもなく、リュークと家庭でも職場でもいい関係を築いていき、祖母が退院するのを待って、リュークの両親の見守る前で、ふたりはきちんとした結婚式を挙げた。

 その日はちょうど三年前、リュークがシエラと籍を入れた日でもあり、同時に彼女の誕生日でもあり――

 ふたりは祖母の腕に抱かれている赤ん坊を見てにっこりした。






終わり




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ