駒沢公園からレスト
木々はざわめきさざめく草花は激しく打ち震え、湿った空気とまとわり憑くような漆黒の霧を囲むように、キメラ達と似た民族衣装を着た人々や人間の服を着た人々が立ち並び言霊を唱えていた。二メートルは超える長身に、筋肉隆々の双子のバジリアとパナリカ。長い髭を蓄えた小柄な老人ルフナ。小麦色の肌に茶色い髪のシナルア。彼らはキメラと同じ東京管轄の第五階級ファリアで種族の階級の中で最下層に位置する。階級は職種別でもあり学校を卒業して30年以内の見習い、または老後のアフターライフとしてこの職業に就くものも多い。
そのため極端な年齢差がファリアの階級では目立つのも特徴だ。魂の審判実行部隊として仕事量が多い上に人数も多くハードな職場といえるだろう。
しかし、彼ら以外の顔も多く見られ尋常じゃない数の異形の者たちがひしめき合っている。
沢山の魂に安らぎと転生を司る翼あるものが羽根を大きく広げ、審判の対象者を連れ去るために彼らの頭上を羽ばたいていた。木々の陰、人の影、暗闇のあるところから闇から出ものが「廃棄」へと導くために湧いて出てくる。
ファリアの傍らには、魂を捕らえた鋼をもつものが手を震わせ、額に汗を浮かべながら逃げ惑う魂を黒く光沢のある大きな鎌で仕留めている。鎌の刃は銀色で光を受けると鋭く反射し、そっと撫でられるだけで切れそうなくらい磨き上げられていた。
鎌で引っ掛けた魂を留めておくのはかなりの体力と精神的苦痛がともなうと聞いていたが、まさに今その状態だった。
しかし、おかしな事はこれだけではなかった。
底の見えないブラックホールのような霧を中心に、乳児と女性の魂ばかりが何体も浮遊しており、それらの遺体は一つも辺りに見当たらない。
漆黒の霧の中から間を置いてそれらの魂がはじき出されているのだ。
「これはいったい・・なに?」
キメラは底知れない恐怖感が背中を這い登り、血液が冷めていく感覚に襲われた。体は無意識のうち震え、握りこぶしを作った手は自然と胸へと上がった。
知らぬ間に後ずさりしていたらしく後ろに立っていたクーにぶつかった。
彼女はキメラの背を押すと苛立たしげに前を見据えた。
「もうすぐ出てくるわ・・」
彼女の言葉の通り、間もなく漆黒の霧は怪しげな揺らぎと共に辺りに散りその中心にいた者を露わにした。
「・・・。かはっ!ゴホッゴホッ」
苦しげなうめき声を上げ、膝を震わせ今にも倒れそうな二十代前半の男性は、波打つ漆黒の髪が腰まである三十代前半と思われる男性に支えられながらようやく立っている様子だった。
彼らの足元には公園の池があり膝下から水に浸かっている。澱んで空き缶やコンビニのビニールが浮かぶ汚い水辺の不快さに比べて、辺りに散り出た漆黒の霧からは憎悪にも似た嫌な感覚が吐き気を呼ぶほど強かった。水面を乱し軽い水しぶきを上げながら彼らは重い足取りで池から出る。
男を支えながら彼女たちに歩み寄ったのは独創的な民族衣装を来た男性だ。
白い丸首のカットソーの上から、裾が太腿まであるカーキ色のアウターウェアは薄手で肩や袖口に切れ込みが入り、その切れ込みにオレンジ色の紐が縫い込まれて布をつないでいる。紐と同じ色の幾何学模様の柄が肩と背中の襟足あたりに描かれている。
太めでダークブラウンのベルトは革製で、黒いバックルには獅子の彫り物がある。ベルトの下のチノパンツはベージュ色でゆったりとした大きさで、裾は折り曲げられており裏地はお洒落なチェック柄だ。足元を飾るのは、ライトブラウンの紐靴でサイドにジッパーの付いた、フェイクスエードブーツ。
艶のある長い髪が重たげに一束彼の肩から胸へ流れ落ちる。
太めの眉に大きい黒目がちの瞳、すっと通った鼻すじの先に丸みを帯びた鼻があり、ぽってり柔らかそうな厚い唇が少し血の色を失っている。
優しそうな面持ちにどこか男らしい力強さを思わせる表情。彼の澄んだ群青色の瞳がキメラたちを捕らえた。
第四階級のソロル関東担当で、ファリアの生活保護や仕事のアドバイス、職場においてのトラブル回避など彼らの実質的なフォローを行なっているミルクティだ。
「急を要して申し訳ありません。この通り東京管轄の方には全員に手伝ってもらっています。これから、関東支部から応援も来る予定です」
全員がこの現場に駆け付けるという非常事態にも関わらず、彼はいつもと変わらない穏やかな口調で告げた。口元には柔らかな笑みが浮かんでいるもののその瞳は笑ってはいなかった。クーは彼に歩み寄り手を差し伸べた。
「ミルクティ。私達も微力ながらお手伝いします!」
「いえ、ここは彼らに任せてあなた達には他の事をお願いしましょう」
にべもなく断り、クーを一瞥すると懐でうなだれる男性に視線を移した。男はミルクティから体を離すとゆっくり顔を上げた。
焦げ茶色の前髪を少し長く残して立てたベリーショートな髪に暗い瞳は赤い。男らしい骨格に頼り甲斐がありそうな意志の強そうな瞳にきれいに整えられた太めの眉が印象的だった。
「すまねぇ・・。獲物捕りにがしちまった。予想以上の数の魂を取り込んでいて、そいつがオレを捕まえて離さなかったんだ。多勢に無勢ってやつさ。黒い霧の中にはもう本体はいない。足止めに犠牲になった魂を切り離して飛んで行きやがった」
「ばっかじゃない!あんたのせいでソロルのミルクティや東京のファリアが全員借り出されてるのよ!」
鼻息も荒くクーは捲し立てる。赤い瞳のダークネスは項垂れて不貞腐れた口調で小さく誤る。
「だから、悪かった」
「まぁまぁ。仕方がない事です。この数を相手では単独で私でも無理でしょう。こういう状況だと判っていたら単独では送り出しません。我々の手配ミスです。こうなった以上私達は現場に当たります。後から来る東京支部の方々に指揮をしないといけませんから。あなた達はダークネスと共にこうなった張本人の彼を探し捕らえるのです。」
民族衣装で高貴ないでたちのミルクティーに比べて、ダークネスは鳶色のコーディロイダブルジャケットに二藍色のスリムラインチノパン、ブランド物のスニーカーとクーと同じでラフな格好をしていた。
「『レスト』に一旦戻ってください。あなた達を応援してくれる方が待っています。そして、バーテンダーに彼の行き先についての情報を得てください」
「分かりました」
三人は緊張した口調で返事をすると深く頭を下げた。
キメラもクーもダークネスも言わずとも分かっているはずだ。
彼を捕まえるのに時間がかかればかかるほど、他の魂が彼に引寄せられ、生き物に想像を越える恐ろしい悪影響を及ぼす事を。
彼女達は公園の木立ちを抜けミルクティたちを後にし、ビルが建ち並ぶ街へと飛び立った。
駒沢公園を飛び立ったキメラ、クー、ダークネス。自分達の拠点件住まいとなっている「レスト」へ向かっていた。
傾き沈みかけた太陽は空に茜色の残り火を残し、月に輝きを与え星に空を明け渡す。
都会の空は緩やかな時の流れを知らぬかのように、煌めくネオンと絢爛な灯かりを受けぼんやりと明るく照らされていた。
右手に旧小田原藩代官屋敷が移築された世田谷山観音寺、左手は三軒茶屋上空にさしかかり、キメラは眼下の光景を垣間見た。
市街地再開発事業が進んでいた。
グレーの三角屋根に白く丸い外壁の大規模商業施設アムス西武。
連立する高級マンションサンタワーズ。
世田谷パブリックシアターの隣に近年出来上がった人参色のキャロットタワー。
その中には周辺が見渡せる展望台とお手軽価格でお食事を楽しめるレストランがある。
そして世田谷線三軒茶屋駅や三茶パティオ等、さまざまな総合施設が完成している。
ブンカ名店街、すずらん通りがある一角、それとエコー仲見世商店街からハナマサにかけての一角も新しい名店が次々と建ち並び賑やかさを増している。新旧混在の街並みは人の手によってまるで生き物のように姿を変えていく。
都内のほんの一角に過ぎないこの場所も大きく変ったが、上空から眺めれば都内のほんの一部でその変化を確かめるのは難しい。
都市化が進み不規則に乱立する高層ビル群と駅周辺で開発が進む商業ビルやオフィスビル。近年では高層マンションもみうけられる。地域にとっては大きな変化でも東京都下からすればどこにでもある変化だ。
しばらくすると右手に敷居の高いファッションビルとカフェが建ち並ぶ代官山。左手には言わずと知れたセンター街やファッションビルの多い道玄坂がある渋谷。そして、個性的な店の多い表参道にさしかかって、キメラたちはゆっくり高度を落としていく。
風の抵抗を受け激しくはためいていた服や髪がゆっくり落ち着きを取り戻しはじめ、キメラは軽く深呼吸した。わき目を振るとクーはカールした髪を軽くかきあげ、ダークネスは濡れた足元を時折不快そうに振っていた。
既に高度は住宅地の一番高い建物の屋上擦れ擦れくらいまで降下しており、時にはビルの谷間を通り抜けることもあった。
青山霊園を越える頃に六本木ヒルズが目前に広がる。
周辺で一番高層な円柱形でガラス張りの森ビル。その左手前に六本木ヒルズレジテンスビルが二棟そびえ、そのはす向かいにテレビ朝日の建物がある。
それらを左手に首都高三号線をまたぎ、外苑通りに沿いながら八メートル近い白い塀に囲まれたロシア大使館の前に降り立った。
桜田通りを挟んですぐ東京タワーだ。
キメラ達は桜田通りに出て正面に石造の真新しいファザードをあしらえた聖アンデレ教会礼拝堂方面へ向かい、いくつか道を進んでいくと円柱形の五階建てビルが現れる。赤煉瓦とガラスを交互に組み合わせた市松模様を模した壁面で後方は平たくビルの形状は正しくはカマボコ型だ。彼らはそこへ足を踏み入れた。
壁面に合わせた赤レンガで出来たホールに入ると、左手に薔薇を鉄のモニュメントで施したオフィス看板が設置されている。一階から五階まで映画館が入っており、地下1階には「子猫」と書かれた雑貨のセレクトショップがある。
地下二階には「BAR rest」キメラたちの拠点があった。
踊り場の正面にはステンレスで出来た無機質なエスカレータひとつ。
その右脇に地下へと続く階段がある。彼らは迷うことなく階段を降りると左手にアジア調の小物が飾られてある楡の木でできた格子窓のついた扉があり、その傍にはイーゼルが掲げられスケッチブックには愛らしい飾り文字で「子猫」という店名とメニューが描かれていた。
正面には新たな扉が現れる。
スチール製の黒い扉に銀のパネルに黒い文字で「BAR rest」と書かれてあった。一瞬来るものを拒むかのような冷たい扉。ノブを回すのも躊躇われる。
ダークネスはぼやけた銀色の光を放つステンレス製の取手を掴み扉を開くと、その後にキメラたちも続いた。さらに階段が続き導かれるかのように階段を降りてゆく。
埋め込み式の柔らかなライトが足元を照らし、蛍光色の弱々しい灯かりがよりいっそう不安を煽った。
階下に降りると正面にほのかに年輪を湛えた真っ白な樅の木で出来た柔らかで重厚な扉が迎えた。扉を開けても果てしなく扉が続くような錯覚に陥る。
そこには看板や表札はない。天井からステンレス製の傘に覆われた電球が二つ。ぼんやりと扉を照らしているだけであった。
その扉が音もなく開き一組の中年の男女が出て行く。
身に着けているものから上流の暮らしが伺える。扉を開けてすれ違いざま、軽く三人は会釈をして店内に入った。
モミの木でできた扉の向こうは、地下へと続く打ちっぱなしのコンクリートむき出しの無機質な通路と違い、全て無垢材で統一された造りになっていた。
一歩踏み込むと樹を踏む独特の柔らかさを感じる。ミズナラ(どんぐりの木)材を使った床は暗褐色で、年輪がくっきり浮かび上がっている。時折歩くたびにきしむ音がした。
入り口から右斜め角にカウンターが幾つかの小さなスポットライトにより照らされて、三日月形のウオールナット(くるみの木)材のテーブルが、光の加減により紫がかったこげ茶色に多彩な色の深みを出している。
十席あるカウンターは三席ほど埋まっており、会社帰りのサラリーマン、OLが二人。それぞれオットマン式(足のせ台)のパースツール(カウンター用の高い椅子)にそれぞれくつろいで座っている。その椅子はステンレス製で座るところに綿で出来た紅いクッションが張られてある。無機質な感じだが不思議と違和感はなかった。
キメラたちはゆっくりカウンターへ向かう。
入り口の横には真っ赤な5人掛けのカウチソファー。洗練されたデザインだ。
店内を斜めに区切るかのようにテーブル席が3つある。カウンターと同じ素材で造られた角の丸い四角いテーブルに真珠のように白く硬質感があるメープル(かえでの木)材でできたアームチェアが二つ向かい合っている。この椅子は年月を重ねるとあめ色に変色し木目が美しく際立つものだ。
壁は淡黄褐色のホワイトオーク材が下部に3割と黒と淡赤色の帯が交互に配列し縞目をつくるエボニー(カキノキ科)材でできた上部が7割、立てに貼られツートンカラーで構成されおり、ステンレス製の鈍い灰色の光をおびた傘をつけたブラケットが備え付けられてある。その光はテーブル席の若い男女を優しく照らしている。
黄色みを帯びた白色淡黄色の銀杏の木で出来た天井は、緩やかな段差が取られ部屋いっぱいに一定の規則で曲線を描き、何本もの帯が天井に掛かっているような演出がされている。その天井にはダウンライトが幾つかあり、店内を柔らかく照らし足らない光は床や壁にフットライトが取り付けてあった。いずれも白熱色で辺りを暖かで安らぎのある空間を演出していた。
カウンター前に来ると中年の痩せた男性がタキシードに蝶ネクタイ姿で迎えた。
「お待ちしておりました」
小さくまとめた鼻髭がもごもごと口の動きと一緒に動く。程よく刻まれた皺に品の良さを感じさせる。
髪はきっちり七三分けで白と黒のアッシュだ。
「オレ、先に着替えてくるから。後、頼むよ」
そう言ってダークネスはバーテンダーに軽く会釈し左奥のスタッフルームと書かれてある金のプレートが掲げてある扉を開き姿を消した。
キメラとクーは慣れた様子でカウンター席に腰を落ち着ける。
「シャトーリオン」
クーは臆した声色でバーテンダーの名を口にした。
男・・シャトーリオンはゆっくり頷き、慣れた手つきでカクテルを作り始める。
氷を入れたゴブレットにカンパリを注ぎ、冷やしたオレンジジュースで満たし、オレンジ・キュラソーを少量加えて味に奥行きを出し軽くステアする、カットしたオレンジを飾りカクテルに華やかさが添えられた。出来上がったカンパリ・オレンジをキメラの前に差し出した。
鮮やかな真紅色の液体に水晶のような氷がライトを浴びてキラキラと輝き、オレンジの黄色と美しいコントラストを描いている。
一口飲むとほろ苦さと甘味が口の中で心地よく溶け合う。
ステンレス製のシェーカーにドライ・ジン、ホワイト・キュラソー、レモンジュースを注ぎ、リズミカルにシェークする。店内に流れるジャズの旋律と華麗に合わさって音楽を奏でているかのようだ。
七三に分け、毛先だけ軽くカールした髪が激しい動きでわずかに乱れる。その姿に男独特の色気のようなものを感じた。
バーテンダーはカクテルグラスに手早く注ぎ、クーの前に置いた。
淡い乳白色の液体がシンプルに注がれている。出来上がったホワイト・レディをクーは一気に煽った。アルコール・酸味・甘味が見事に調和され傑作といわれる味に見事に仕上げられている。
グラスを磨きながらシャトーリオンは眉を吊り上げてコースターを指さした。
「詳細はコースターの裏に」
キメラとクーはコースターをめくり表に描かれている店名と別に、裏にはキメラたちへの文字が綴られていた。
それを見ていた会社員が自分のグラスを持ち上げ、裏を見るが何も書かれてなく不思議そうに首をかしげ訝しげにバーテンダーを垣間見たが、また何事もなかったかのように飲み始めた。
彼の背後にはオーソドックスなボトルから銘酒と呼ばれるもの、オリジナルボトルなどずらりと取り付け棚に並んでいる。グラスはカウンターの上の吊り棚にかけられていた。
彼は中年男性の姿をしているが本来、お尻まである長い銀髪を携えた萌黄色の瞳の美しい女性である。百五十センチという小柄な体型に痩型で、睫毛が長く大きなくりくり丸い目が印象的な珈琲色の肌をした愛らしい姿をしている。第三階級役職トゥクスの職で国家単位の仕事をしており、彼女は日本担当だ。国内での仕事の状況収集と日々の成果をまとめ、その資料を基に対策案を打ち立てる仕事に就いていた。
因みに、ダークネスは鋼をもつものと呼ばれ魂を狩るのだ。本来の姿は闇を背負い大きな鎌には沢山の髑髏を掲げているようなイメージでなんとも恐ろしげな姿のため、クーが嫌がり彼女の要望で今のような愛想のいいお兄さんに仕立てあげられている。
人間社会に溶け込み管理に当たるトゥクスは、人と接する機会が多いため仮の姿をとることが多い。シャトーリオンも例外ではない。
コースターの裏側には逃げ出した男の事が簡潔に書かれてあった。
生前殺人犯だった鈴木という男を追うことが目的で、出生や家族構成死に至るまでの経緯が簡潔に記されていた。どうやら駒沢公園で警官に射殺され死亡したらしい。
クーは肩にかかった髪を払うと立ち上がり、シャトーリオンを強い眼差しで見つめた。
「私たちが鈴木さんを追えばいいのね」
グラスを棚に戻し、摘みのピスタチオを小さな唐で編まれたお菓子の籠に流し込みながらシャトーリオンは言った。
「そうです。現場が片付き次第ミルクティ達もあなた達の後を追うでしょう。まだ、彼には数人の魂が味方している。人だけではない。動物の物もあります。・・・・・あなた達だけでは荷が重いでしょう。アドバイサーを呼んであります。スタッフルームへ」
厳しい口調ながら静かにチェリー材で出来た左奥の扉に目配せした。濃い赤褐色の木肌が綿密で高級感のある扉でダークネスが消えた先だ。
クーに続きキメラもその扉へ向かい、金のドアノブを回した。冷たい空気が吹き抜け、打ちっぱなしのコンクリートが目に飛び込む。その先には短い廊下があり突き当たりに新たな扉があった。スタッフルームの扉と同じものだ。
硬いコンクリートを踏み、少々重い足取りで廊下を進み第二の扉を開いた。
薄暗い廊下に眩しい光が溢れ出す。
木々のざわめき、暖かな優しい風が頬をなで懐かしい果物の香りが鼻をくすぐる。
扉の先には無限に広がる青い空とあの島と変わらない自然が息吹いていた。
目前に広がる青々とした草原が50メートルほど続きその先にはブナ林が永遠と続いている。木々は緑をたっぷり携え堂々と立ち並んでいた。
白樺の林の間から何軒かあるログハウスが見え隠れする。
キメラたちの住居だ。
冬を迎えた人の世界の木枯らしが吹き荒れる光景と裏腹に、心地良い気温で鳥がさえずり風は温かく遠くの方で小川のせせらぎも聞こえてくる。自然が奏でる音以外に何も聞こえなかった。
草を踏みしだきながら、キメラは目を伏せる。
ここに帰ると思い出す。
甘い香りを運ぶ風・・・。
木々の心地よいざわめき・・・。
ゆっくり流れる時間・・・。
そう。あの島を。
どうしてだろう?あんなに出たかった島。空を翔け自由になりたかった日々がすごく懐かしい。
そして。
風に揺れる軽やかで柔らかい瓶覗色の髪。
穏やかで憂いを帯びた宝石のような光を秘めた菫色の瞳。
陶磁器のような象牙色の肌に女性のような美しい面持ち。
いつも優しく。
凛々しく。
嫋やかに笑う彼。
ダージリン!
苦痛にも近い気持ちで過ごしたはずの島での暮らしに、自分をからかうダージリンが苦手だったのに仕事から離れると思い出す。
ないもの強請りしているのか自分の気持ちがよくわからず戸惑うことが最近多い。
あの島にまた戻りたいのかダージリンに会いたいのか。
半年というまだ短い時間なのにあの島にいた頃が遠い昔のように感じた。
「ダージリン!」
目の前を歩くクーは歓声をあげた。
キメラの心臓が跳ね上がった。口から飛び出るのくらいの勢いだ。
まさか!
顔を上げると、紛れもなく淡い黄土色に黒い縁取りが入ったいつもの民族衣装のダージリンが立っていた。
何も変わらないやわらかい物腰。菫の瞳は物憂げで象牙色の肌は張りがありふっくらしている。瓶覗色の髪は風を受けて後ろへ靡いていた。彼の視線は真っ直ぐキメラを捉えていたがその瞳はゆっくり閉じられ開かれた時には、首に腕をからめ抱き付いているクーへと視線は移った。
「そーいや。クーはダージリンの大ファンだったな」
着替えを終えたダークネスが彼の後ろから現れた。青い薄汚れた色のダメージGパンであちこち穴が開いて、縺れた綻びた糸が飛び出している。足元のこげ茶色のショートブーツが対照的に新品だ。せめ て履き古したスニーカーのほうが合うのかもしれない。
「やっと私を迎えにきてくれたのね。そろそろ人間の男には飽きていたところだったの」
甘く纏わりつくような声色でクーは猫なで声をあげ、この機を逃すまいと賺さずダージリンに顔を近づけた。
彼は物怖じもせずクーを優しく身体から離すと、表情一つ変えずのまま視線をダークネスへと向ける。
「私が手助けに来ました。詳しくは聞いています。しばらく他の皆さんはあの黒い霧に時間がかかるようですので、私とダークネスそしてクーとキメラで追うことになるでしょう」
声の抑揚もなく淡々と話を進める。
キメラは、胸のあたりがむかむかと胸やけをする感覚に顔をしかめた。なぜだろう、クーとダージリンがじゃれあっているのを見ると気分がよくない。
これから行動を共にするダージリンとの時間に、落ち着かない自分がいた。
彼女にとって原因不明の不快感と戦っていた時クーの甲高い声に我に返る。
「キメラ!聞いてるの?」
顔をあげると、憮然とした表情で腕組みして自分の前で仁王立ちになっているクーの姿が目に飛び込んだ。エメラルドグリーンの瞳が怒りと嫉妬で燃えている。クーはキメラの周りを歩きながら嘗め回すよ うに見て言った。
「あんたが一番使えないんだからね!ぼ~っと私のダージリンを見つめないでくれる?」
「・・・う、うん・・」
頬を赤らめてダージリンを垣間見る。少し彼が微笑んでいるかのように見えた。
「さて、彼を追いましょう!」
きびすを返して振り向いたダージリンの表情はいつもと変わらなかった。風を受けて揺れる髪。誰も寄せ付けない自信に満ちた眼差し。
彼の後にキメラ達も続いた。