とんねるの三
「死ぬかもしれないのに、ついてくるのね」
凛とした声が響き、こちらを見つめてくる視線。
もう一人の女性――年齢は自分より少しだけしたぐらいだろうか――が冷静に告げてくる。
巫女服を現代風にアレンジしたような衣服を身につけ、毅然としている。
その態度に、思わず気圧される。自分よりも年下の少女に対して、言いなりになってしまっている自分を情けなく感じてしまったが、反発してもしょうがないからだと、己を納得させる。
それに、これから向こうの方が説明してくれると言うのだ。今の自分では、どうする事も出来ない事態になっているのは明白だ。
ならば、速やかに彼女に教えてもらった方が良いだろう。自分の頭では処理できない状況で、ぐだぐだしてる暇はない。
「すいません、お願いします」
こちらが頭を下げて、お願いすると、彼女は驚いたように、眉を上げたが、すぐに元の表情に戻す。
それから、言葉を続けていく。
「アンタが信じようと信じまいと構わないんだけど、結果としては、ここは異界化してるの。現実には存在しない世界に引き込まれたって事ね
さっきの化物が作り上げた、独自の世界と言っても良いわね。アタシ達は、化物を浄化させないと、戻れないってわけ」
現実ではない世界と聞いても、驚きはしなかった。というよりも、驚きようがなかったのだ。幼いころから、トシは異常な存在を認知していた。
人が見えている現実と自分が見えている現実が違っていたのだ。むしろ、彼女と紺衣の男が、自分と同じ世界を見ているという事実の方が、ありがたい。
把握したいのは、これからどうなるかだ。
それが分からない限りは、自分も動きようがないし、自分一人では、あの化物相手に、勇気を振り絞って挑んでも殺されるだけだ。
彼らは、少なくとも対処できる可能性がある。友を救うためには、彼らに動いてもらわなければならないのだ。
「ゲームや漫画の世界だと思っちゃうでしょ。でも残念、これは現実。それだけは受け入れてくれるかしら」
分かった、というように頷き、続きを話してくれるように促す。
「で、私達は、その原因である化物を殺しに来たわけ。まぁ本当に化物か、それともやたらと強力になってしまった悪霊の類かは分からないけど」
殺しに来た、と平然という女性に対して、訝しむような気分になるが、すぐに打ち消す。
彼女だけで殺しに来たわけではないのだ。彼女のすぐ後ろには、紺衣の男が佇んでいる。どういうわけか、トシにハッキリと分かっていた。
――この男の方が、上だ。
年齢などもあるだろうが、トシには微かに見えていた。男の後ろに佇む、三本足の烏が、こちらをじっくりと見下ろしている姿がはっきりと視認していた。
余りにも神々しいその姿に、自然と身体が震えてくる。過去に見えていたのは、黒い影とか、二又の尾をした猫とかぐらいだったのだ。
三本足の烏は、あまりにもそれらとは掛け離れている神々しさがあった。
「どうした、少年。俺が気になるのか」
「あ、い、いえ」
口籠り、一度目を逸らしたが、考え直す。彼らはこちら側の人間である。ならば、後ろにいるものが見えた事を伝えた方がいいのかもしれない。
下手に隠しておくよりも、自分の能力を包み隠さず、彼らに教えておいた方が良い気がしていた。自分がどんな人間であるか伝えてもいいだろう。
ただそれも、説明をきちんと聞いたうえでだ。まだ、話は続いているのだ。
「どっちにしろ、かなりヤバい奴であることは間違いないわね。だから彼もちょっと危ない。その代わり、ここにいるアンタの仲間は、そこの――」
「そろそろ名前を名乗ってもいいだろ、村上隆高だ。俺が所謂、結界って奴を張ったからな。そうそうちょっかいは出せんよ」
紺衣の男――村上隆高は、そう名乗ると、手に持っていた札をひらひらとさせる。よくよく見れば、啓太達の四方に、札が貼られていて、そこから薄い膜が現れ、啓太達を囲んでいた。
彼の張った結界というものが、どれだけ凄いのかは到底理解できないが、信じるしかなかった。というより、トシはもう十分に目の前にいる男を信じていた。
あの神々しい存在を使役しているのか、それともアレが隆高を守っているのかは知らないが、どちらにしろ力を貸している事には変わりがない。
「正直、いきなり日常からこんな非日常に巻き込まれて動揺しているとは思うが、俺の判断に従ってくれれば、まず助かる。
それだけは信じてくれていい。だから、君――」
「滋岳俊彦と言います。僕も、付いて行かせてもらっていいですか」
言っていた。普段ならば、絶対に言わないような事を言っていた。
その言葉に対して、女性は目を見開いて驚き、隆高の方は、ほう、と息を吐いてから、面白そうにこちらを見入った。
「アンタ、何言ってるの。 死にたいわけ?」
容赦ない一言――もちろん予想していた言葉が、トシに耳に飛んでくる。
「正直に言うと、俺もそっちの――ああ、彼女も名前を言っていなかったな。妙義紫義の意見に賛成だ。君一人が、俺達と共に行動したとしても、役に立たないし、死ぬ危険性があるのは分かってるだろう」
当たり前の反応だった。何も知らず、それにこんなところにやってきた小僧一人が付いて行ったところで何も出来ない。それは道理だ。
それでも、トシは食らいついた。今までにない程、心が昂ぶっていたのだ。慶介が連れ去られた事による怒りもあるのだとは思うが、それとは別な思いが、身を支配していた。
ついて行かなければならない。彼らについていく事で、自分の持っている力が分かるかもしれない。
だからこそ、トシは、息を大きく吐いてから、言葉を紡いだ。
「僕には、視えるんです。貴方が凄い、その、力を持っているのが分かるんです」
「アンタ、あんな濃い瘴気を貰っても少し時間が経っただけで解放されたからって、何か適当な事をいえば連れて行ってくれるとでも思ってるの」
詰め寄る紫義に対して、隆高は黙ったままだ。
「正直、自分でも馬鹿げたお願いをしていると思っています。普通なら、混乱しているだけだというのも、分かっています。それでも、お願いします」
深々と頭を下げる。紫義はその姿を見ても、厳しい姿勢を崩していない。
隆高が、紫義をちらりと見てから、トシへと視線を移す。
「何が、視えた?」
先程までの軽やかな声とは違う、深く鋭く、刺してくるような声で、隆高が質問してきた。
心の臓が抉りだされるような圧迫感が、トシを襲った。紫義の身体が、少し震える。
「その、三本足の、烏が」
息が上手く吐き出させないような錯覚に襲われつつも、トシは視えた存在について、正確に伝える。
隆高が、その答えを聞くと押し黙り、場が異常な静けさに襲われる。
――違う。
この男の方が、先程のアレより、よほど怖い。この男に睨まれたら、それだけで自分は死んでしまうのではないかと、想像してしまう程に、恐ろしい。
「成程。これは面白いかもしれん」
しばしの沈黙の後、隆高が呟いた。紫義が、口を開こうとする前に、さらに隆高が言葉を続けた。
「出来るだけ守ってやるつもりではいるが、もしかしたら死ぬかもしれん。それでもついてくるんだな?」
「はい」
「分かった。連れて行こう。俺が責任を持つ。紫義もそれでいいな」
「もう決めた事なんでしょ」
呆れたように言い放つ紫義を横目に、ようやく隆高が笑顔を見せた。それから、こちらへと歩いてきて、手を差し出してくる。
それに答えるように、トシも自然と手を差し出していた。お互いに何か言う事もなく、握手をする。見た目の割にはがっしりとした手だった。
紫義は、その様子を呆れた眼差しで見つめつつも、手を差し出してくる。トシもまた、隆高と握手したのと同じように握手をする。
「それでは、行ってみようか。後悔するなよ、俊彦。俺から離れるな」
「精々、怯えないようにしてね」
「はい」
二人が、そう言い残して、あのトンネルの中へと入っていく。もう一度入れば、また恐ろしい体験をするであろうことは想像に難くない。
トシの人生の中でも、身が凍るような事態が待ち受けてるはずだ。それでも、胸の内に湧いた衝動は止められそうにもない。
自分の意思ではないように、心が荒れ狂っていたのだ。生きてきた中で、これほどまでに急いた気分になるのは、初めてである。
少しばかり、自分のそんな心中に不安を覚えつつも、トシは、仲間を助ける為に、心が急いているのだと理由をつけて己を納得させて、トンネルの中へと続いて入っていった。
□ □ □
「ふむ、こりゃあ、なかなかに面倒な手合いが、この異界を作り上げたみたいだな」
「ええ、本当、に!」
平然と前を進む隆高の後ろを、こそこそとしながらトシは付いていっていた。トンネルの内部は想像以上に変化していて――吐き気を催すような状態になっていたからだ。
元々離れて勝手に進む気など、毛頭なかったが、こんな場所では、離れた段階で悲惨な末路を遂げるのは、子供だって簡単に想像できる。
先ほどから、紫義が拳を振るい、ぐしゃりという音が鳴る。続いて、地面を踏みしめる音がして、またしても肉が飛び散る――あまり耳にしたくはない音が後ろから届く。
紫義が、叩き潰しているのは、直視したくなどないような、目に入れるのも冒涜的な生き物だった。果たして、あれらを生物として扱ってもいいのかと、考えしまう程に、人の嫌悪感を刺激する。
「よくもまぁ、こんな気持ち悪いのを大量に生み出してるもんだ。悪霊とか恨みつらみが溜まってくと、より不浄なモノを生み出していくってのは有名な話だが」
ぶつぶつ言いながらも、かくいう隆高自身も、まったく顔色を変えずに叩き潰していた。と言っても、隆高自身が潰しているわけではない。
隆高の周りにいる、大量の烏が、隆高を守るようにして固まり、弾丸のように突撃しては、気色の悪いモノを躊躇なく貫いていく。不思議な事に、血は一滴たりともついてはいなかった。
紫義の方は直接殴っている分だけ、血が飛び散り、余計に身体に染みついてしまっている。それでも、本人の身体に飛びついてる血の染みは、驚くほど少なかった。
「こいつら、何なんですか」
「本体からの分霊みたいなもんだ。ある程度力が強くなったら、霊体的ではなく、実体として傷をつける事が可能になるってやつだな。ホラー映画とかでも、幽霊が直接人を殺すのがあるだろ。そういうのみたいなもんだ」
「とっても悪趣味だけど、ね!」
気合を入れた声を紫義が発すると、新しくぶちゃりとした音が生まれて、『それ』が自分の目の前に落ちてくる。潰された人の生首に、強引に蜘蛛の足を接合したモノ。髪の毛の部分は、びっしりと触手が生えきっている。
人の生首も、女性のものから男性のものまで様々だ。様々なものがあるというのが、どういう意味を指しているかは、理解したくはなかったが、なんとなく察していた。
吐き気は、不思議と湧いてこなかった。普段の自分ならば、間違いなく、この光景を見て嘔吐していただろう。それを恥だとも思ってはいなかったが、こうも平然として受け止めていると、やはり自分は異常な存在ではないのかとすら感じてくる。
適応しきれてる今の自分を思い返していると、普段ならば吐いていたと思っていたが、それも微妙なものだ。
それとはまた別に、一つ気になっていたのは、隆高がこちらを全く気にしてないという事だ。護ってやると言っていたが、こちらの事を全く気にせずに前進している。まるで、隆高自身の後ろは絶対に安全だと言わんばかりに、後ろを介していない。
事実、まったく後ろにはあの生物は来れないので、その通りではある。あるのだが、どうにも腑に落ちなかった。まるでそれは――
――何かあっても、トシならばどうにか出来ると確信しているような、態度。
「どうかしたか?」
「い、いえ」
ついつい、背中を凝視してしまっていたのか、慌てて隆高の背中から目を逸らす。
後ろでは、相変わらず紫義が素手で殴り飛ばしてるのか、あまり日常では聞きたくないような音が何回も響いていた。
「今日は随分と荒れてるな。そんなに面白くないのか」
「何がですか?」
「俊彦は気にしなくていい。まぁちょっと、俺の楽しみみたいなもんだ」
それだけ言うと、すぐに隆高が前を向いてしまった。当たりに散らばっていた目玉は、全て隆高の周りにいる烏が打ち砕いている。
あれも、何かの呪いか、それとも物理的に危害を加えるはずだったのかもしれないが、目についたモノから、あの不思議な烏たちが、始末してしまっている。
慶介達と進んだ時は、非常におっかなびっくりだったはずなのに、気が付けば、トンネル内を奥へ奥へと進んでいってしまっている。
トンネル内は、自分達が行ったときは、一つとして明かりの無い暗闇だったはずなのに、今は明かりがないのにも関わらず、トンネル内は暗くはなかった。
どういう原理なのかは、分からないが隆高が何かしていたのだろう。おかげで、足をもたつかせる事もなく、自分達はもうトンネルの最深部にまで到達しようとしている。
後ろからも、前からも、脅威は取り払われており、自分はただ目の前に進んでいくだけでいい状態である。
「それに、紫義が張り切ってくれてるおかげで余計な手間もかからずに――」
隆高が言葉をそこで不自然に区切った。それから、目の前を凝視する。
「成程、ね。こいつぁ、めんどくさいな」
隆高の言葉に釣られて、前を見てみると、扉が開かれていた。あの、人の眼が、多く無造作に転がされていた部屋。
「紫義、お前の昇位の相手としては、少し荷が重すぎるかもしれん」
「どういう意味よ、それ」
「見ればわかる」
そう言いながら、隆高は無造作に歩みを進めた。恐る恐るトシはそれに続き、紫義も後ろから続いていく。
部屋の中は、驚くほど綺麗になっていた。綺麗になってはいたが、あくまでも汚物が消えていた、というだけだ。むしろ、不気味なほどに部屋が整えられていた。
トンネルの中にあった部屋にしては、あまりにも整いすぎていて、広すぎる。というよりも、こんな部屋がトンネル内にあるはずがなかった。
「俺は最初は手出しはしない。あくまでも紫義、やるのはお前一人だ」
「了解」
足音が響いた。まるで多くの人が歩いているような足音だが、それらは酷くバラバラで、素足特有の、ぺたり、という柔らかな音だ。
次に聞こえるのはかりかりと、地面を引っ切り無しに人の爪で引っ掻き回すような雑音。全てがトシの神経を逆撫でするように刺激していく。
同時に、部屋の風景が、何も書かれていない紙に絵具をぶちまけたようにして、綺麗だった部屋が一気に変化していく。
何もなかったはずの床から、じわりと血が滲みでて、そこらじゅうに溜まっていく。次に変化していったのは、部屋の奥の壁だった。
びしり、びしりと、嫌な軋みが鳴りだし、壁に亀裂が入る。そこから、どす黒い液体が溢れ出し、その量に耐えかねて、壁が破壊されていく。
最初に出てきたのは、巨大な人の頭部だった。ただし、その顔に目玉は無く、黒い眼窩が代わりだというように、こちらをじっくりと見つめている。
次に出てきたのは、人の胴体だが、異常なほどに膨らんでおり、所々から、手が生えている。よくよく見れば、腹の所からは赤子のような足や、成人男性の足、女性の足も無造作に生えている。
肥大した腎部からは、ぬるりとした、蚯蚓のような触手が随所から生えて蠢いている。とてもではないが、生物としては、認めたくないようなモノが、そこに出現していた。
そして、その奥には――
「慶介!!」
ぐったりとして横たえられている慶介の姿がそこにはあった。幸いにして、外傷は遠目から見てる限りでは見当たらない。呼吸もしているように見える。
「お食事の時間の前に、俺らが到着したって感じだな。にしても、どんだけ殺して喰ったんだか、ここまで顕現してるのは久々に見た」
呆れたように、隆高がぼやく。その口調の柔らかさとは裏腹に、底知れぬ冷たさが伝わってくる。
「まぁ、もうまともな知能も知恵も残ってないだろう。汚物はさっさと焼却しなきゃならないしな。紫義」
目の前の化物を見ても、何一つとして態度を変えずに、顎を少ししゃくってから、紫義へと隆高が合図を送る。
「はいはい」
「待ってください、慶介が!」
戦うにしろ、慶介が巻き込まれてしまうのは目に見えている。紫義や隆高、トシは無事かもしれないが、慶介は間違いなく危ない。
顔から血の気が引いていくのを感じつつも、トシは隆高に食って掛かるような態度で言葉を投げかける。対して隆高は、軽くトシの肩を叩いた。
「落ち着け、そっちもちゃんと考慮してる」
「でも」
「アイツの気を引かなきゃならん、その間に俺がちゃんと助け出してやる」
こちらの切羽詰まった言い方に反して、どこまでものんびりとしている隆高の言い方に対して、初めて激しい苛立ちを感じるが、ここで自分が言い募っても、隆高は無視するだろう。
それに、自分がどう動こうが、アレから助け出すというのは至難どころか、不可能だ。ここは、隆高に従うしかない。自分でもそれは良く分かっているが、友が目の前で犠牲になるかもしれないという状況では、気が急いてしまう。
隆高はそのまま、こちらを動いていない。
その間に、紫義が動きだした。気合と共に息を吐いてから、勢いよく飛び出していく。あの嫌悪感を刺激する生物に対して、一直線に突っ込んでいく。
ぎちぎちと、首を強引に曲げながら、その紫義の行動に対してアレは反応した。首をせわしなく振りながら、慶介から離れてそちらへと向かっていく。
あまりにも大きさが違いすぎるのに、紫義は何も恐れずに突進していく。あのままでは激突してしまう。そう思っていた時だった。紫義が、思い切り地面を踏みしめて、横に飛ぶ。
人間がおよそ到底出来ぬであろう跳躍を行い、紫義はアレの横を取った。急激な横移動に対して、アレは対応が出来ないのか、振り向こうとすらしていない。
――いや。
その判断を嘲笑うかのようにでかい頭を振りながら、あの気持ち悪いモノが咆哮する。それに合わせて、身体から大量に生えていた腕が紫義の方へと向かい出していく。
一つ一つがしなりを上げながら、飛び出していく。まるで触手が如く、腕が伸びては紫義を捕らえようとしていく。紫義はそれを、身体の全身をばねのように扱って、ぎりぎりの所で回避していた。
人間では、ないのか。そう思ってしまう程に、紫義の動きはあまりにも化物染みている。それこそ、漫画やゲームの世界でしか見たことがないような出来事が、目の前で繰り広げられていた。
もう感覚は麻痺していると感じていたし、最初のあの化物の襲撃は受け入れられたというのに、今、見ている紫義の姿に対してはショックを受けている。
「あれが、人間なんですか」
「もちろん、人間に決まっているだろ」
衝動的に吐かれた発言に、隆高は平然と答える。その視線は動いてはいない。
よくよく見てみれば、紫義はあの動きをしながら、注意を紫義自身の方へと向けているように思えた。現に慶介から、あの怪物は離れていっている。
その隙に助け出せという事なのだろうか。しきりに紫義は、隆高へ視線を送っているが、隆高は動かない。ただ、紫義を見つめているだけだ。
一方で、一向に攻撃を避けられ続けられている化物は、己の蹂躙したい欲が悉く成功していない事実に苛立ちを覚えたのか、急激に荒れ狂い始めた。
「ッ面倒なッ!」
紫義が、吼えると同時に、化物の腎部から伸びていた触手が動き始める。大量に紫義を追っている手と合わさって紫義の身体をぐちゃぐちゃにしようと、一斉に槍のように突き出されていく。
その全てを回避するわけにはいかず、何本かが衣服を切り裂き、紫義の身体に傷をつけていく。それを見ていても、隆高はまるで反応しない。
「何もしないんですか?」
慶介の件も合わさって苛立ちが増してくる。この男は先程から、ただ見ているだけだ。この男が動けば、恐らく全てが終わるというのに、何故動かないのか。
「俺が動いちゃ意味ないからさ」
こちらの視線がもはやいらつきを隠せず、露骨にその意思を見せていても、向こうは何も変わらない。
紫義が、徐々に押され始めている。彼女が殺されても言いというか。次第にいらつきは明確な怒りへと変わってきていた。
「見殺しにするつもりですか」
「そうなるかもな。なんなら、お前が助けてもいいが」
出来るはずがない事を、平気で口に出す。この男は、何がしたいのか、よく分からなくなっている。
憤怒が、全身を駆け巡っていくようだった。自分では助けられないから言っているのではないのか、この男は、とすらトシは思い始めていく。
ならば、本当に自分がどうにかしなければならないのか。己も、今はこの男と同じだ。いや、この男よりも質が悪い。力がないのに、ただ感情のままに言葉を吐き出しているだけだ。
「っぐぅ……!!」
「紫義さん!?」
紫義の方から、くぐもった、しかし明らかに激痛を抑えるような声が聞こえた。もう一度、そちらへと視線を移す。
見れば、紫義の身体にようやく届いた手が、紫義の身体をがっしりと押さえて、締め付け始めている。そして、まるで嬲るかのように、衣服を削ぎ始めていた。
その光景を見た時に、頭に激痛が走った。何かがあるような気がする。大事な何かが、自分の中にあるような気がした。
突如巡りだす実母と実父の姿。病弱な母の姿を介護する父。それが崩れて、何かが出てきそうになる。頭の奥から、針で抜け出そうとするような痛み。
「あ、あぁ、あぁぁぁあああ!!」
絶叫していた。無性に全てを壊したくなる。この痛みを消すには、全てを壊すしかない。右手を伸ばして、あの化物からまず壊さなければならない。
自分ならば出来る。壊せると確信しながら、自然な動作で右手を握る。
その瞬間、隆高が自分に向けて何かを放ったのが見えた。烏のようなものではなかった。やたらと輝いている何か。
それが当たった時、また自分の意識が闇に落とされていくのを感じながら、トシは見ていた。
――蛇。
自分の右腕から、一つの蛇の頭が飛び出で、化物を自然な動作で食らいつくすのを見ていた。