隆高
ひどく荒れた川の流れに流されるような感覚を数秒味わった後、ふと気づけば。俊彦は、自らを拒んだ学校内部へと入り込んだ。
頭音離さまの力なのかどうかはまだはっきりとしないが、いずれにせよ、中には忍び込めたのである。
中は、静寂で満たされていた。慶介や大悟らのことだから、大人しくしているか自衛の手段は用意していると思ってはいるのだが、いかんせん現状は不安なままである。
「……」
誰か、いませんかと声を出すべきかどうか迷ったが、止めておいた。
もしも、結界が破られているのであれば、襲い掛かってくるのは、化け物どもであるはずだからだ。
そのことを忘れてはならない。そう思い直し、歩き出す。
幸い、学校自体はそこまで大きくない。探索にも時間がかかることはないはずだ。
それでもどうしたものかという考えが頭を占める。静かすぎる。
自分の息遣いすら聞こえてきそうなほどに、虫一匹すら感じられないのだ。
元々異界だから、というのももちろん理由であることには違いない。最初からはそれは念頭に入れている。
前提があったとしても、異常な自体であることには変わりがない。
警戒を続けながら、歩いて行く。自分の歩く音しかしない。
浄眼は、機能している。痛みや異変があれば、すぐに気づくはずなのだが、浄眼すら反応していない。
では一体何があったのか。
「おかしい、よな」
呟く。
まずい状況なのではないかと、頭が回転しはじめる。
浄眼に異常がないということ。それが怖いのだ。思わず、忍び足になる。
あたりに注意を払い、ゆっくりと歩いて行く。
ぎしぎしと、自分が歩く音が響く中、薄暗い学校内を歩いて行く。
身体が警戒を解くことはない。むしろ、全身の感覚が鋭敏になっているのを感じている。
これから何かが起こるのか、まるで理解しているかのごとく、身体がこわばっていく。
かつんかつんという足音が、増えた。
もう一人、前から歩いてくるのが分かる。身構える。妖気は感じない。浄眼も反応していない。
敵意を抱いているものなど、自分の予測では、あまり考えられなかった。というより、考えたくなかった。
最悪の事態であれば、自分が最も避けたかった相手がいることになる。
それだけは、考えたくなかった。息を飲み、前を見据える。いつでも、戦える用意もしてある。
浄眼が、機能していないということは安全だというはずである。特に邪気は見えないし、警戒もしている。
誰だと思いつつも、徐々に見えてくるその存在に、全神経を集中させる。
「……え?」
目に入った人物に、俊彦は驚愕した。
普段通りの姿であれば、驚くこともなかっただろう。無事だったのかと喜ぶだけだった。
「ルルア、さん?」
「ああ、俊彦さんですか」
会って数日間だけの女性だったが、どんな人物であるかは大体分かる。
少なくとも自分の目の前に立っている人は、このような姿を見せるような人ではなかった。
――日本刀を血に濡らして、立っている姿など、見せるはずがない。
全身が危険信号を鳴らした。息を吐く前に身体が飛び退った。前髪が切られ、床へと落下していく。
あまりの出来事に言葉を出す暇すらなかった。全身から、汗が流れ出る。
「何故、避けました?」
避けれたことに安堵している暇などなかった。二撃目。頬を掠めた。血が流れ出ていく。
ルルアの表情を見る。感情など1つも感じさせない。ただ、塵を掃除しよう。それだけの意志しか感じられなかった。
どういうことなのか。頭の中が熱を発しそうになるほど、思考を回転させる。
あの時話したあの存在――頭音離様ではないのか、それとも頭音離様なのかは定かではない神が言ったことが事実であれば、あの眷属たちは別の何かが生み出したことになる。
嫌な考えが、駆け巡った。自分の思考が最初から間違っていた。浄眼が見抜くのを間違えた。もしくは教えてくれた女性が嘘を言った。
どれでもいいのだが、答えは、想像が付いた。
「避けることなく、斬られてしまえば良かったのに。貴方も、彼らと、あの兵士達と、獣どもと一緒なのでしょう?」
ルルアが喋る度に、刀が妖しく煌めいた。
なぜ、あんな刀があるのか。どうして外人であるはずのルルアが、ああも日ノ本の刀を上手く扱えるのか。
疑惑はいろいろ尽きない。何よりも、浄眼に反応がないのが気になったが、あの刀が原因であると推測するぐらいはできる。
「僕は少なくとも、違いますよ。貴方に何があったのかは聞きたいですし、聡たちをどうしたかも聞き出さなければなりませんから」
「獣は始末しなければなりません。皆、みんな、みんなそうしてきたんですから。彼がしてくれたように、私もそうしなければ」
話が通じないというのは分かっていた。まずはルルアが手にしている刀をどうにかしなければならない。
仲間たちの様子も気になるが、最優先で対処すべきは、彼女だろう。
呼吸を落ち着け、ルルアと向き合う。自分が殺すのは無理だろう。戦場カメラマンだったとか、そういうので説明できないほど動きがおかしい。
なにより、彼女も被害者には違いないのだ。何かに操られているのは間違いない。殺すのは最後の手段である。
聡や慶介たちの安全も確保しなければならないのだ。助ける前に自分が死ぬ事態だけは、避けなければならなかった。
彼女の命も重要ではあるが、友人と比べてしまえば、優先順位は下がる。友人が生き残っていれば、必ず助けねばならない。
死んでいれば、その遺体を家族の元に必ず届けなければならない。その障害として彼女が立ちはだかる事態となるのであれば、処理しなければならない。
ルルアの一挙一動を、見逃すまいと眼を凝らす。ここは、逃げるとしても、何らかの情報を掴みたい。
刀が振り上げられる。ここだと、もう一度身体を後退させる。
「逃げられると」
『思うたか、妖め』
男の声が聞こえた。ルルアが、いつの間にか目の前にいた。自らの額の寸前の前にまで、刀が接近していた。
死ぬ。呆気無くここで死ぬ。
「どっちがだ、阿呆が」
爆音と凄まじい熱が、さらに額を通りぬけ耳をすり抜け、死が離れていった。
刀を携えるルルアが、眼を大きく見開くが、すぐに強制的に沈静化されたかのように、落ち着く。
「……だから神も妖怪も好きじゃねんだよなぁ、俺はよ」
現れた男には、見覚えがあった。同時に力が抜けそうになるのをなんとかこらえる。
「無事か、小僧」
自らの師、隆高が、そこにいた。




