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妖霊夜行  作者: 二鈴
第一章 はじまり
2/31

とんねるの二

慶介が言った重原トンネルは、思った以上に廃れていた。

目的地であるここにつくまで、バスで30分、そこから歩いて五分程度かかった。いざ付近の場所に到着してみれば、ファミレスで名前を聞いた時に襲いかかってきた悪寒は一切なく、自身の勘違いかと思ったぐらいだった。

 こうしてトンネルの前にきた今でも、背筋を蟲達が這いずりまわる様な、嫌な感覚は感じない。思い過ごしであれば、別に良いのだ。

トシからしてみれば、何も問題はないし、むしろ望んでいたように事が進んでいた。余計な自体に巻き込まれなければそれでいい。脳裏には、まだあの悲惨な事件がちらつくが、気にするほどでもない。

 

 「……なんだぁ、案外普通の所じゃねぇか」


 「どうだかなぁ。

  でも、嫌な感じはしないというか、見た所は普通の廃トンネルじゃないか」


 慶介の心の底から失望したというのが伝わってくる溜息を聞きながら、大悟が答える。確かに、トシでさえ、今は違和感も無いただの廃トンネルにしか過ぎないように感じる。

散々やばい、危険だ、と噂に上っていたようなものだと信じられなかった。人一倍というより、図抜けてそういうモノを感じる力が強くなってしまっている自分の感覚ですら何も感じないのだ。

 安堵したせいか、意識せず身体から力が抜けて、口から息が漏れる。この様子なら入ってみても何も問題はなさそうだ。本当は念には念を入れて入りたくはないのだが、これだけでは慶介が納得しないのは、今この場いる友人たちなら誰でも知っている。

何かがまかり間違っても起こらないうちに帰りたい所ではあるのだが、慶介は実際に中に入るまで諦めないだろう。さすがに人気がない所に、慶介一人だけを置いて帰るというのは、ありえない選択肢だった。


 「で、どうするんだ。ここで諦めて帰るか、慶介?」


 「そんなわけないだろ。ここまで来てんだから中に入ってみようぜ、中に」


 慶介が、予想通りの答えを出して暗いトンネルの中に入っていく。渋々大悟がそれに続いて入っていく。そして、啓太、自分、聡の順にその後に続いた。

トンネルの中は、予想通りの暗闇だった。黴臭い匂いと、この時期にしては冷たい風が、身体を吹き抜けていく。どうやら完全にコンクリートなどで閉じて、閉鎖されているわけではなく、奥へと続いているようではあるらしい。

 暗闇の中を進むわけにもいかず、全員で懐中電灯を点ける。さすがにこれぐらいの光ともなれば、前方はそれなりに明るくなり、トンネル内部もはっきりとまではいかなくとも見えてくるものだ。

内部も、見た限りでは普通のトンネルだった。所々落書きがあり、入るのを止めたというのもこの分では怪しい。まだ怪しいとしているのは、トンネルを閉鎖する際にフェンスでさらに奥が封鎖されている可能性があり、そこまで行ってから帰った奴がいるかもしれないからだ。

全員、言葉には出さないし、黙ったまま歩いて行っているが、慶介の落胆の度合いはより進んでいるだろう。噂というものは、やはり当てにならないとでも思っているのだろうか。

 どちらにしろ、このトンネルをもっと探索して、事実を確かめればいいだけの話だ。風聞だけを信じるのではなく、自分で見た事、触れた事こそが、唯一明白である真実なのだから。

少なくとも、トシはそうだ。人にとっての普通が、自分にとっての普通ではなかったという事などいくらでも経験してきた。

 人は、目に見えないものほど無視して、気楽にふるまう。そして、いざそれを見ても認めたがらない。証明したとしても、たまたまの見間違えだと言う。

そんなものだろうかと思う。よく、自分の体質が気になり、調べても見たりしたが、いわゆる霊眼やら第三の眼とか、どうしても胡散臭い商法やら何やらしか出てこなかった。

結局、自分の眼にある見えないものを見抜く力――能力とでもいえばいいのかは迷うが――は、どれに当てはめればいいのか分からないままだ。

 

 「しかし、本当に何もねぇな」


 すっかり静まった中、慶介が口を開いた。場の空気もいわゆる肝試し程度で、ちょっとした物音でビクっとしていた啓太以外は、つまらなそうに辺りを見ていた時だった。

変化は何もなく、だらだらと奥まで進んでいくだけの雰囲気だったから、耐えきれなくなったのだろう。今回も外れの匂いが強くなってきているのに、がっかりしている気持ちも増しているのかもしれない。


 「まだ入り口だろう。奥まで進んでみれば何かあるかもしない」


 「どうだろうね。大したことなさそうだけど」


 強がりを言いつつもどこか震えている啓太を無視して、慶介が明かりをこちらに向ける。いきなり光が当たるとさすがに眩しく、目が勝手に閉じてしまう。

何回か瞬きして、光に目を慣らした所で、慶介たちと向かい合う。嫌な予感はまだしていない。本当にただの廃トンネルであるようにしか思えないのだ。不気味である事には変わりがないが、驚くほどトシの目には何も映っていない。

 ファミレスで話していた時に感じたあの悪寒は、単なる気のせいだったのか。だとすれば、自分の体質も衰えたというべきなのだろうか、それとも、突然視える体質だったのが元に戻ったというべきか。

今まで、一匹も何かしらの気配が感じられなくなる事などなかった分、混乱してしまっているのはあるだろう。


 「おい、トシ。やっぱり何も感じねえか?」


 聡が耳打ちする。顔は慶介に向けて、呆れているようにも見えるが、声色は真剣だった。


 「今のところはな。ていうか何も見えない」


 「マジかよ。また外れってわけか」


 小声で囁き、聡が言葉を続けていく。


 「どうすんだよ慶介。このまま探索続けるのか」


 「当たり前だろ」


 聡の発言に少しむっとした様子で慶介が言葉を返す。本人の面子から見ても、そろそろ大きい発見がなければ退くに退けない状況なのだろう。

意地でも見つけたいという心意気は認めないでもないが、トシはだんだんと、逆に何も見えないというのが危険な気がしてきていた。初めて体験する状態だったのだ。

嵐の前の静けさというのだろうか。今更ながら不安になってきていた。見えてきたものが、感じていたものが見えなくなることに、ここまで恐怖を抱いたことがあるだろうか。

 四人はまだ、ここから先どうするについて話している。途端に、トシの心に芽生えた恐怖心が、ゆっくりとだが、警鐘を鳴らし始めていた。

危険な霊が見えるとか、そういうのではない。何か心の底からやばいと感じ始めている。原始的な本能で、自分は、何かがいるのを察知している。

何も見えないというのは、それだけ怖ろしい『モノ』 が潜んでいるからこそ、他の霊や低級な妖怪っぽいものは逃げてしまい、消えてしまっているのではないのか。


 「……どうした?」


 聡に声を掛けられて、やっと想像から意識を引き戻す。身体から冷たい汗が流れていくのを感じつつ、どうしたものか、と頭を全力で回転させる。

説得する自信は、正直無かった。聡はあの事件の後から信じてくれているから、どうにでもなるとしても、慶介には逆効果だろう。大悟は、信じてくれそうではあるが、それで戻ってくれるか微妙な部分がある。啓太は絶対に駄目だろう。慶介とは逆の意味で突っ込みかねない。

 慶介は喜び勇んで突撃するタイプで、啓太は見栄っ張りな所がある。さっきの強がりがちょうどいい証拠で、慶介に煽られて突っ込んでいく方だ。自分からではないが、どっちにしろ答えは変わらない。

下手に言うのではなく、少し怖い目を見てから、此処から立ち去るのを提案して、さっさと逃げ帰るのが一番いいのかもしれない。

 自分一人だけでも逃げたいのかと言われれば、そうだと、はっきり言うだろう。経験と本能が、今になって危機であるというのを教えてくれているのだから、ここで逃げない手はない。


「なんでもない。それより奥に進もう。何かあったらすぐ戻れるようにだけは、しといた方が良いかもしれないけど」


 思いとは裏腹に、当たり障りのない事しか自分の口からは言えなかった。どうして言えないのか、迷った。まだ確信が持てていないのか。それとも、それ以外の気持ちからか。

そうこうしている間に、慶介たちの間で結論が出てしまったらしい。もちろん答えは、前進あるのみ。

 聡が、こちらを再び見る。冷や汗はもう隠しようがないし、賢い聡の事だ。もうトシが何かに気づいて、その何かを知りたそうにしている表情だった――もちろんトシはそれがなんであるか分かってはいたが――が、トシは口に手を当てて、黙っておけという仕草を見せておいた。

危険だという事を分かっていながら、自分は仲間と共に奥へと行こうとしているのか。ある意味では、これは仲間に重大な裏切りではないのかと思いながらも、杞憂かもしないという思いもまた強い。

心の中の警鐘は鳴り続けているが、出来るだけ意識しないようにする事にした。もしも、自分が考えている通りの事が起きたら、『視える』人として警告してやるか、引っ張って逃げればいい。

 経験上では、その場から素早く逃げれば、殆どが大丈夫だった。多くのモノは、そこに縛り付けられているかのように、彼らのいた場所から離れる事は無かったのだ。

思いが強ければ強い程、場所に囚われているというか、元々いた場所から離れるのが苦痛であるかのように見えたのだ。逃げるのであれば、全力でその場から離れるのが一番の正解だろう。

警告が間に合えば、全員助けられる。そもそも、本当に危険な目に遭ったのは、昼休みの時の一回だけだ。あの一回を除けば、危険が襲いかかる前に無事に逃げられた。

 何度も頭の中で、そう考えるのを繰り返す。結論が出るはずもないというのは分かった上で、何度も繰り返した。


 「しかし、この先からなんかひんやりとしてるよなぁ」


 「もう春だっていうのにな。いやまぁ、暗いし、風は通ってるし、冷たくなるのも分かるが」


 慶介と大悟が話しながら進んでいく。啓太がその後をおっかなびっくりしつつ進み、聡とトシが最後尾でついていく。

トンネルの中は、慶介と大悟の言うとおり、だんだん冷えていくような感じがした。入口付近でも冷たかった風が、より肌に刺さるような冷たさに変わっていく。

空気が変わるというのは、こういうことを言うのだろうか。自分が寒さに対して敏感すぎるだけなのか。慶介達も寒がっているようには見えるが、そこまで気にしている様子はない。

 奥へ奥へと進んでいく慶介達に遅れないように、トシも歩みを止めないようにするだけだ。一度一人だけ足を止めてしまったら、もうそのまま前へと進めない気がするからだ。

入口では、多少外からの車の音はしていたのだが、もうその音も聞こえなくなっている。今は、五人の息遣いと足音、それと風が吹き通る音しか聞こえてこない。

怖ろしいほどに静かな場所を、ひたすら歩いて行く。慶介や大悟は、まだまだ余裕そうだが、啓太はもうはっきりと分かるほどビクビクとしている。聡は変わらず平静を保っていて、トシ自身も、自分の身体が震えているとは思ってなかった。

進んでいくほど、自分達の歩く音だけがトンネル内で反響し、風の音も聞こえなくなってくる。喋るのも辛くなるほどの沈黙が、続いていた。

 明かりは、しっかりとついているのに、光を感じられなくなってくる。懐中電灯の光が弱くなっているわけではないのに、闇が深くなっている気がしていく。前へと進んでいるはずだというのに、足がずっと下に降りていく感覚が拭えない。


 「なぁ、もういいんじゃないかな」


 奥へと歩き続けていく内に、啓太がついに切り出した。誰かがリタイアするだろうとは思ってたが、啓太とは考えていなかったのか、慶介が驚いたような顔を後ろへと向けた。


 「おい、まじかよ。トシじゃなくて啓太が先にギブか」


 率直に啓太に言いつつも、慶介自身もいくらかビビり始めているらしく、考えているようだった。

慶介が真っ先に自分が落ちると公言したのに対しては、その通りだと思う。啓太が言わなければ、自分が言い出していた事だろう。

 なんにせよ、これでこの場所から逃れる事が出来るなら、こちらとしては願ったり叶ったりという事態だ。啓太が言ってくれたおかげで、慶介も考えている素振りをしている。

もう帰るだろうと、半分確信していたのだが――


 「待てよ、これ」


 ――その期待は、大悟の、震え声によってあっさりと覆された。


 大悟の声の先には、御札の付いた鉄の扉があった。全員の目がそちらへと集中する。そして、一様に皆が皆、息を呑むのが伝わった。トシ自身ですら、身体中に鳥肌が一斉に出た。

ただ御札が付いてるのではない。扉がどういうものか分からない程に、御札がいたるところにびっしりと張られているのだ。鉄だと分かったのは、微かに見える錆びた部分からだ。誰もが、この扉が異常だというのはすぐに理解できただろう。

 今までが普通の通路であっただけに、この扉の異常さが余計に浮かび上がってくる。眼が、そこから離れない。

先程までの会話がぴたりと途絶えている。誰も口を開こうともしない。自分達が望んでいたモノは、眼前に存在している。行こうと思えばすぐにでもいけるのに、誰も動かなかった。


 「行ってみようぜ、何かあるかもしれない」

 

 しばらく全員が黙っていた後に、声を出したのは慶介だった。大悟がそちらへと振り向く。


 「マジで行くのか」


 「びびってたってしょうがねぇよ。それに、考えてみればこんなマジモンかもしれないのを見つけて、何も確かめずに帰るのか?」


 慶介の言う通りではあるのだろう。啓太は嫌そうな顔をしているが、大悟は考える仕草をしている。聡はどうしているかと言えば、自分の方を見てきていた。

視線で、大体言いたい事は分かった。答えとしては無し、である。首を振ると聡は安心したように溜息を吐いた。

 相変わらず、影や妖怪のようなものは見えはしない。生命の危機に瀕するような事にはならないはずだと、心の中で己に言い聞かせる。


 「じゃあ、開けてみるぞ」


 誰かが返事を返す前に、慶介が扉に手を掛け、ゆっくりと押していく。鍵も掛かっていなかったのか、ぎちり、という鉄の扉が軋むような音を立てて奥へ開いていった。

誰かが唾を飲み込む音がする。扉の先は暗闇しか広がっていない。何か命のあるものが動いているような気配もなかった。光を、扉の先へと当てていく。


 「何だよ、何なんだよこれ」


 誰が言葉を出したのか、理解しようとする前に、目の前の光景に脳内が一気に占領される。紡がれるはずだった言葉は、口内での微かな漏れ声へ変化してしまった。


 「眼だ」


光を当てた瞬間に、映し出されたモノは眼だった。本当に眼だったのだ。コンクリートの床や壁のいたるところに人の眼が転がっている。何かで作られたレプリカとか、そういうものではない。

 直感的に、本物だと脳内に刷り込まれてしまったのだ。紛い物などでは決してない。人の眼である。本物の人体の一部だ。

事実を受け止めた後に、隣で誰がが吐く音がする。誰だろうが構わなかった。こんな光景を見てしまったら、誰だって嘔吐したくなる。こちらも思わず釣られて嘔吐しそうになってしまう所だ。

正気の沙汰ではない。悪戯でもない。まさにその場にある眼。トシは、自身の胃が急激に締め付けられていくのを感じた。同時に襲いかかる、激しい悪寒。

 辺りに散らばってる目玉の先に、影があった。明かりの先にある暗闇の中だというのに、そこだけ浮かび上がってくるように影が濃い。


――自分は知っている。


 あの時の記憶が、映像が。脳内を駆け巡る。


 「全員出口に向かって走れ、今すぐにだ!」


 叫んだ。あらん限りの声を出して叫んだ。全員の身体が糸を切られたようにへたりとしてから、一斉に立ち上がり、後ろを振り向かずに走りだす。

何かがいた。間違いなくそいつはこちらに気づいたのだ。身体の震えが、全然収まる様子がない。コイツは、絶対に後ろを振り向いてはいけない奴だ。姿さえ見てはいけない奴だ。

あらん限りの力を持って全員が走っていく。慶介も大悟も、周りを見ていない。誰もが自分が助かる為に走りだしている。

 踏みとどまって、そいつを止めようなどと思う者などいるはずがなかった。全力で、それぞれが駆けている。

そいつから足音はしない。足音などしていないはずなのに、すぐ後ろまで迫ってきているような錯覚に襲われる。どういう姿かも見えていないのに、恐怖が心を掴んで離さない。

 汗が全身から噴き出してくる。後ろから、アレが来ているというのが嫌でも分かる。これでは、まずい。自分がどうなってしまうのかはっきりと分かる。

暗闇が徐々に薄れていく。明かりだ。出口が見えている。全員が無我夢中で走っている。呼吸が荒くなっていく。あと少しだ。あと少しで逃げ出せる。

 暗闇の中から、光の方へと飛び出す。大悟が先に飛び出して、次にトシ、聡、啓太と続いていった。


 「何だよ、何なんだよ、アレ」


 「知るわけないだろ!? とにかく、警察、警察だ。警察を呼ばないと」


 啓太が顔を真っ青にして、全身を震わせながら大悟へと怒鳴りつける。いつも全員を落ち着かせる役目だった大悟が、完全に混乱しきってしまっている。

聡は、もはや何も言えないのか。息を荒くしながら、地面へと座り込んでいる。外はまだ明るく、トシの気持ちを落ち着かせるには十分だった。


 「おい、お前ら! 俺だけ一番最後に一人にしていくなんてねぇよ!」


 最後に慶介が来れば、仲間は皆、無事だ。そう思ってた矢先に慶介の極めて元気な言葉が飛んでくる。全員が一旦は無事に逃げ帰れた、という事になる。

なんとか外へとやってこれた慶介の姿を見て、安堵の息が漏れる。もう大丈夫だろう。アレは、どうやらあのトンネル内だけでしか――


――トンネル。


 「慶介、そこから急いで」


 離れろ、とまで言う暇がなかった。ぎりぎりだった。本当にあと僅かの所でトンネルの中にいた慶介が訝しむが、既に遅かった。

最初に慶介がどういうことか理解したのは、手が捕まれてからだろう。続いて、足にまたしても手が伸びていく。いくつもいくつも手が伸びて足を掴んでいく。

大悟も啓太も動けなかった。捕まっている慶介ですら、口を魚のようにパクパクとさせているだけだ。自分の身に何が起きているのか、理解できていない。

 腕が、慶介の身体に絡みついていく。叫ぼうとするも、息すらできなかった。ゆっくりと、蟻が虫の死骸に集っていき、じっくりと食い散らかしていく様を見ているだけのようなものだった。

絡みついてくる腕は、透き通るぐらいに白い。白すぎる。まるで『作り物』であるかのような腕が慶介の身体にしがみついてくる。

 やがて、ソイツは姿を見せた。


――蜘蛛だ。


 もはや形容したくもない、その醜悪な姿に啓太が腰を抜かし、大悟は足が震え、聡は眼を見開いている。トシはソイツから視線が逸らせなかった。体中から冷や汗が一気に溢れ出していく。

作り物の手が、ソイツにとっては脚だったのか。歪な形を、はっきりと見せつけている。人としての頭部は存在しているが、眼球があるべき所になく、ぽっかりとした黒い眼窩がこちらを見つめている。

 そして、胴体のいたる所から生えている腕。いずれもが、あるべき所から生えてはおらず、身体中に寄生する蟲のように蠢いている。

蜘蛛のように生えた、特に大きい手を動かしながら、慶介をしっかりと捕まえていた。けたけたと笑い声が聞こえてくる。酷く耳障りな声だ。聞いているだけで、身体の体内に汚物が入り込んでくるかのような声。

 脳の芯から指を突っ込んで掻き回されるような、嫌な感覚がトシの身体を駆け巡る。同時に激しい耳鳴りと、吐き気。身体が、地面に叩きつけられていく。

皆も同じように倒れていく中で、トシは、はっきりと見てしまっていた。慶介が、そいつに捕まれたまま、何もできずにトンネルの中に引きずり込まれていくのを。


 「慶介!」


 聡の声が響く。その声を聞いた後、トシの意識は闇に飲み込まれた。









 「おい」


――誰かの声がした。誰であったのかは思い出せない。


 「起きろ」


――起きろとは、どういう事なのか。自分は、何もしていない。何も、盗ってなどいない。


 「早く起きるんだ」


――何も。


 「起きろ、少年」


 その一言の後に頬を叩かれて、ようやくトシは目を覚ました。辺りを慌てて見回す。大悟も、啓太も、そして聡も寝たままだ。

ならば自分は誰に起こされたのか――そう思っていると目の前の男が立ち上がる。


 「おう、やっぱり早いな。……この子だけか、起きたの」


 「そうみたいよ。そいつだけね、目を覚ましたのは。やっぱり素質があるみたいね」


 身体はまだ、余り動かないままだった。皆はどうなったのだろうか、と辺りを見回そうとする。首は、なんとか動くようだ。慶介以外の全員が、そこらで寝かされている。

何があったのか、はっきりとは分からないままだ。慶介が連れていかれて、聡が叫び、自分はそこで意識を失って――


――意識を失って?


 ずきり、と頭に痛みが走る。酷い頭痛だ。吐き気と、眩暈が同時に襲いかかってくる。頭の中が、掻き回される様な痛み。思わず叫びそうになるが、叫びがそのまま口から吐き出される事はなかった。

目の前にいた男が舌打ちすると、口の中に丸薬を含ませ、水で流し込んで飲ませてきた。どことなく、苦いような気もしたが、すんなりとそのまま飲み込む。それだけで、頭痛から解放されて身体がすっと楽になる。

「楽になったか?」という男の問いに首を縦に振ると、男は満足気に頷いた。突然すぎて、何がどうなっているのか分からない。この男と少女――三十代前半くらいに見える男と、自分よりも少し若いくらいの女性は何者だろうか。

あまりにもぽかんとした様子で見ていたせいか、男が苦笑する。これからどうしようと言うのだろうか。


 「少年の仲間はこれで全員か?」


 「いえ」


 どこか掠れてしまった声で答える。まだ、慶介が帰ってきていない。いや、もしかしたら帰ってこれないかもしれない。考えた瞬間に身体に力が篭る。

思わず反射的に立ち上がろうとしたトシの身体を、男が手で押さえてくる。止めないでくれと口に出すのも面倒になるほど、気が急いていた。早く慶介の元に行かねばならない。

 

 「落ち着け、気持ちは分かる。誰か仲間が足りないんだな?」


 「慶介が」


 「その少年がいなくなってしまったんだな?」


 「扉を開けてしまって」


 扉を開けてしまったからだ。慶介が連れ去られてしまったのは、あの扉を開けてしまって、中にいたモノを開放してしまったからだ。 

扉という言葉に対して、男が思い切り溜息を吐く。この男は何か知っているのだろうか。知っているからこそ、来たのだろうか。


 「開けたのか」


 続けて開けた、という言葉を聞いた途端に男が苦い顔をする。あくまでも苦い顔、というだけだった。まるで、たまたま買い物を頼まれた後に、再び追加の買い物を頼む電話を聞いてしまった、ぐらいの軽い感覚の顔だった。

この男はいったい何なのであろうか。アレを知っているのであればもっと、嫌そうな顔をするはずだ。嫌そうというよりは、恐れを抱いてもおかしくはない。

 なのに、なぜこの男はこうも平然としているのか。そう思い、隣の少女はどうなのかと視線を移す。


 「バカな事したわね。手間が増えただけじゃない。自業自得なんだけど」


 辛辣にトシ達の事を言われているが、正論であるので反論のしようがなかった。同時に、やはり恐れは見えなかった。

言葉を聞いている限り、どうみてもトンネル内に入っていくような言葉にしか聞こえないのに、平然としている。


 「そう言うな、関わっちまった以上は縁だからな。ついでだ、ついで」


 この男達は何者なのだろうか。まるでこれから遠足にでもいくような気軽さで、トンネルを見つめている。

あの中が、どれだけ地獄なのか、分かっていて言っているのだろうか。とてもではないが、気楽すぎる。


 「随分と、怯えてるじゃないか。少年」


 心を読まれたのではないかと思うようなタイミングで、男に声を掛けられた。紺衣の袖を翻し、こちらを見つめる。一瞬だけだが、猛禽類を連想させるような鋭い視線に見つめられ、全てを見透かされそうな気分になり、思わずトシは俯いてしまった。

「怯えるのは、悪い事ではないさ」と男は続けて言う。あれを見て怯えない人間がいるのかとでも思ったが、少なくとも、この二人は怯えないのだろう。あまりにも、今のトシから見ても、この二人は超然としていた。

 男はあくまでも笑みを崩さずに言葉を続けていく。


 「だがな、怖がり過ぎるのも良くない。怯えは奴らに力を与える。やつらも同じ人間だったものさ。ただほんのちょっと『捻じ曲がってしまった出来損ない』と考えればいいんだ」


 何を言っているのだろうか、この男は。あの化物が元の人間だとでも言うのだろうか。


 「思いが捻じれに捻じれちまって、どうしようもなくなった奴らの末路だよ。よく恨みが、とか、未練が、とか言うがそれは割と当たってるもんさ。ただ、欲望もそうなんだよ」


 男が、饒舌に語りだす。少女が、それに言葉を足していく


 「女に欲望を持ってる奴の念なんかも強烈だね。そんだけ浅ましい想いほど強烈な場合があるってわけ」


 「幽霊になってまで、犯そうとしてくる奴等なんて山ほどいるしな。想いってのはそれほど強烈なもんさ。だけど、結局は欲望の塊に過ぎないって考えるんだ。もちろん例外もいるがね」


 あんな恐ろしいモノも、所詮欲望の塊だと言うつもりなのか。あまりにも現実から掛け離れた状況で、またしても現実から引き離される話をしている。

トシ自身があんなものを見ていても、事実だと信じていると勝手に解釈しているのだろうか。もしかしたら、この男達は頭がおかしいのでないか、とも思ってしまうだろう。普通ならばそうだ。

 ただ、自分は普通ではなかった。元々幼いころから見慣れていて、この男達の話はよく分かる。むしろ、この男達の方が平然と見える事が前提で話を進めていて、こちらの方が動揺を隠せていなかった。

全てが突然に起こりすぎている。トシはいったいどうすれば良いのかも分からないままだ。答えは、何処にもない。


 「まぁ、これも何かの縁だろう。少年、君は見えているんだろう?」

 

 男がしたり顔で訊いてくる。見えている、というのはもちろんトシが普段見ていたモノ――いわゆる幽霊やら黒い影やらの事――に違いない。

問いの答えに関しては、見ているのだから頷くしかないし、この男相手に騙せるとはとてもではないが思えなかった。隣にいる少女も同様だ。

 自分よりも年齢は下のように見えるのに、雰囲気からして何かが違っているのだ。


 「……まさか、アンタ」

 

 「そのまさかさ」


 巫女服を揺らして、紺衣の男に少女が詰め寄る。厳しい表情を浮かべて、糾弾するように言葉を続けていく。


 「いくら素質があるからって、まったく見ず知らずの人間連れてくわけ?」


 連れて行くとは、まさか、トンネルの中にだろうか。そう思った所で、紺衣の男が笑みを浮かべて返す。


 「勿論だ」


 「正気?」


 「大真面目さ。彼は絶対に仕事してくれるよ」


 「いきなり出会って、いきなり訳の分からない話をしてきた私達に、付いてきてくれると思ってるの?」


 思ってるからだ。と男は言葉をはっきりと述べた。それから、こちらへと視線を移してから、立ち上がりトンネルの方へと歩いていく。かつかつと、下駄が小気味のいい音を立てていく。

辺りはもう夕暮れ時。男が、夕日の光の中でトンネルの前に立つ。身体が、思わず震えてしまった。何に震えたのかは分からない。これから起こる事にだろうか。それとも自分が選んだ答えにだろうか。

 紺衣の男は、ただ黙って自分を見つめている。決断をするのは自分だ。最早何が起きているのかさっぱり理解できていない。自分の脳内で処理をする限界を超えてしまっている。

それなのに、答えを選ぶのに迷いはなかった。トシがあれ程悩んだ人生の岐路が、まるで小事のようにすら感じる。自分が決めるべき所は、今、ここなのだろう。

 

 「付いて、いきます」


 男が笑い、少女が呆れたような顔をする。

後悔はしてない。今、はっきりとトシにやるべき事が浮かんでいるからだ。

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