始まり、トンネル
「いいか、トシ。お前の望む幸福な終わりなんて、どこにも無かったんだ」
雨の音だけが響いてた廃墟の一室の中に、声が吸い込まれていく。
部屋の中は、辺り一面が真っ赤に染まっていた。外で振り続けてる雨に流す事などできず、真っ赤に染まっていくだけの部屋を見つめた。
彼女の住んでいた、太陽の光が差し込み、人々が行き交い、笑顔が振りまかれていた白いマンションとは対照的な、暗く、何もかもが壊れかけた廃墟で、飛び散った血によって染められた真っ赤な部屋。
人だったものが、そこに倒れていた。トシは彼女を知っていた。名前も、元気な姿もしっかりと瞳に映していた。だが、彼女の姿はもう別物と化していたのだ。
自分と会い、相談してくれた彼女の元気のいい肌は、既に死の匂いを漂わせている。健康的な、程よく筋肉のついた締まった上半身は、だらしなく伸びきっている。
もう、あの活発な笑顔も、元気のいい声も聞こえない。彼女が短く揃えていた、艶やかな黒紙は、見るも無残に全てが真っ白に変化していた。
そして、彼女が自慢していた健脚は既になく、取ってつけたように不自然な接合をされた下半身と化した百足は、息絶えている。
その姿は最早誰であろうと、人であるなどとは言うまいという程の吐き気を催す醜い怪物に他ならなかった。
「明穂ちゃん」
「諦めろトシ。お前は出来る限りの事を彼女にしてやった。そして結果がこれなんだ。"因果"は絶対に巡り巡ってやってくる。力が無かったのなら、それは避けようがない」
駆け寄ろうとしたトシを、紺衣の男が諭すような口調で語りかけ、トシの肩に手を掛けて引き留める。もう既に頭の中では納得しているのに、全身の血液が沸騰しそうになるほど、心は暴れ、激怒の熱を帯びていた。
彼は正しい。疑いようがないぐらいに正しい。自分――トシの中では、それを痛いほど理解している。同じ仕事をしている仲間も、誰もが彼を正しいと認めるに違いない。
此の世においては、自分が正しいと思っている事と、他人が正しいと思っている事。どちらもが正しいが故に、争いが起きる。
トシにしてみれば、今、この瞬間までは当たり前の道理であったのだ。目の前にいる紺衣の男を否定するつもりなど何処にもありはしなかった。
だが、全てが明らかになり、曇っていた真実が、もやを除かれて、そのどす黒く、忌々しい事実を知ってしまったのならば、道理など、トシの前では薄汚い悪徳の理にしか見えない。
「ですが、彼女は」
「彼女は死人だ。"呪い"になってしまった哀れな女性だ」
トシが反論しようとする前に、鋭い声が飛ぶ。
「これ以上は魅かれるな。俺たちがすべき事は生かす人間を生かして、呪いは始末する。求められている事のみに専念すればいい」
有無を言わせぬ強い口調だった。頭に冷水を叩きつけられたようにハッとして、口を挟む余地すらなく、トシは押し黙る以外の道をすべて塞がれた。
そうだ。彼女は死人であり、呪いである。彼女と元々付き合っていて、今回の出来事に巻き込まれた男性は呪われたからといって、何か後ろめたい事があったわけではなかった。
彼は、きちんと後腐れなく彼女と別れたのだ。お互い納得の上で、確かめ合い、今後のお互いの幸せを願いながら別れたと告げていた。
目の前にいる、この紺衣の男――こちらのにはお構いなしに物事を進め、何か訴えようとすれば狙いを定めた鷹のような目で威圧し、こちらが質問すべき立場ではないと言外に黙らせてきた。
常に"仕事"の話となれば、無駄口を叩くのを嫌い、質問されるのも嫌い、普段は恍けた語り口しか開かない紺衣の男、"祓し屋"村上隆高がこんなにも自分に対して真剣に喋ってくれるのは珍しい。
自らが、それだけ今回の仕事に関して疑問を抱いた事を見抜いていたのか、余りにも刺々しい態度をしていたのが問題だったのか。
トシと隆高の間には、微妙な空気だけが広がっていた。それだけでなく、仕事を終え、呪いと化した女性を祓った後とはいえ、穢れた瘴気に近いものが未だに漂っている。
長居は無用である。祓し屋として、見習いの立場であるトシにもすぐに理解できる初歩的な事だ。呪われてしまい、呪いと化した彼女は、祓うしかないという当然の帰結に至っただけなのだ。
彼女の心を慰めて、呪いから解放するというのは、最早無理な話だったのだ。そういう段階だったのならば、自分達がしなくてもよかった。坊主や、霊能力者とされている人々でも、本物であるならば解決したに違いない。
そういう人々が手の出しようもなくなり、祓うしかなくなったからこそ、自分たちが呼ばれたのだ。そう考えれば、考えるほどに隆高の正しさを認めるだけにしかならなかった。
師匠でもある隆高は、間違ってなどいない。自分の正義に対して、隆高が反しているだけだ。
だけども。
己の正義に反しているという事を納得できるのか。トシはもう一度、己の心に問いかけた。あの時、自らが決意したことを思い出しながら。
『一の妖、とんねる』
トシ――滋岳俊彦は、高校を卒業したのは良いが、今後をどうするか迷っていた。志望していた大学には、受からずに不合格となり、このままでは浪人の道しか存在していなかった。
普通の家庭の子であるのならば、両親が支援してくれて、予備校でもなんでも通ってもう一度目指すという気力も湧いたのであろうが、生憎と俊彦には両親がいなかった。
元々トシを生んだ際に母は病弱であり、また父親もお世辞にも健康的な生活をしているとは言い難かった。トシが中学生になった際に続けざまに亡くなり、後の面倒は叔父が見てくれたようなものだ。
叔父は、トシの両親たちとは違い、非常に健康的な男であり、面倒見の良い男であった。叔父の妻も、同様に面倒見の良い人であり、一人暮らしをしている時に、たまに一緒に食事を取ろうと家へと誘ってくれたのだ。
食事をしている時も、積極的に話を聞いてくれたり、話をしてくれたりして、実の父親と母親のように悩みを聞いてくれたりしてくれた。
父母を早いうちから亡くしても、自分の性根が捻じ曲がったりせず、比較的真っ直ぐにまともになれたのは、間違いなく叔父夫婦のおかげだろう。
幸い、友人にも恵まれて、両親を早くに亡くした少年という立場にしてみては、極めて救われている部類にトシは入るだろうなと、自覚していた。
つまるところ、トシは、自分自身が幸せであるということ自覚するのである。不幸な生い立ちに生まれたにしては、恵まれていると。
「どうしたよ、トシ」
「いや、どうもしてない。それより、本当にやるのかな」
「勿論さ。俺たちで集まるのも久しぶりだろ」
確かにそうだと、トシに声をかけてくれた親友の一人、松井聡へと返事を返した。
聡は、トシとは小学生から高校生卒業に至る今日まで、ずっと一緒の学校に通い、同じクラスだったという稀有な男だった。
聡が声をかけてくれたから自分は、今回の、この友人達の集会へと参加したと言ってもいい。叔父も、気分転換に行ってきなさいと背中を押してくれたのもあるが、やはり聡がいるからというのが、大きいだろう。
久々に顔を合わせる友人達の中で、トシだけが何処に行くかなど何も決まっていない状態であり、気後れを感じていたのだが、聡と話している内に、それは消えていた。
不思議な男である。どこかとぼけているようで、人の心を深く読むような男でもある。両親を亡くした後でも、何も躊躇いもせずに話しかけてきたのは聡ぐらいだ。
人には必ず一回は警戒心を抱き、表面上は親しくしている振りをして、いざ自らの奥まで踏み込まれると、ハリネズミのように心の針を逆立てて守ってきたトシの心に、するりと入ってこれる。
不思議と、それが不愉快ではない男であり、トシにとって数少ない親友にまで関係が進んでしまった男でもある。
「それよりも、慶介の奴が遅いな」
「飛び切りの特ダネを手に入れたとか言って癖にな」
聡と二人で先に集合場所であるファミレスでドリンクバーを頼み、時間を潰していたが、そろそろ肝心の時間である。
あと二人、慶介以外にも来るのは知っているが、その二人は既に携帯で、渋滞に巻き込まれたから遅れると、連絡を寄越していた。
今回、集まりを主催したのは他ならぬその慶介だった。慶介のやる事といえば怪奇探索隊などと言った、この地域で有名な心霊スポットに突撃する事だったのだ。
大体その前に、こうやってファミレスに集まり、雑談をしつつ、計画を練り上げて突撃するというのが、いつものやり口だった。
慶介――須藤慶介は、そういうのが特に好きな男ではあった。オカルト系に傾倒しているわけではない。常々口に出せば幽霊だの妖怪だの馬鹿馬鹿しいと言っている。
非科学的存在であり、いるわけがない。そんなのを信じるのは愚かしいことであり、妄想に過ぎないと。だから、自分が証明してやるのだと。
結果的に信じているようなものではないかとは思っていた。いないのを確かめに行くという事は、"いる可能性がある"というのを否定しに行っているわけなのだから、結局はいるかもしれないという思いを消し切れてないだけだ。
慶介は醒めているようで、実際にそういうものを見てみたいという気持ちが強いようだとは感じていたが、生憎となかなかオカルトめいた出来事に遭遇した事は無かったのだ。
今回慶介が喜んでいる理由というのは、今度こそは、霊体験ができるというものだろう。特ダネは、つまり新たな心霊スポットの場所でも手に入れてきたのか。
考えを巡らしても、本人が来てからでなければ分かるものでもない。自分の悪い癖だとは自覚しているが、人の頭の中を考えてしまう癖は治りそうにはない。
「おい」
「どうした」
「どうした、じゃねぇよ。また、何か下らない事考えてただろ」
「そんなことはないよ」
「ある」
呆れたような声を出してから、聡がグラスに入った炭酸飲料を飲み干した。
「お前が考え事してる時って、やけに下を向くから分かりやすいんだよ」
「下?」
「なんか地面と相談してるというか、下から何かアイディアでも出てくんのかって感じの顔だぞ」
地面と相談しているというより、テーブルの下にいた影――それも"白い"のを見ていたとは、聡には言えない。
自分には、日常生活における何気ない一コマ――それこそ、通勤途中に見つける野良猫や野良犬程度なのだが――であるにしろ、聡から見れば、その時点で異常なのだ。
無駄に心配はさせたくないという思いから、軽く手を振ってから、聡を見つめなおす。
「そんな顔してたか」
「なんというか、あれだよ、鳩じゃなくて猫が豆鉄砲くらったような」
よく分からない表現ではあるが、聡からすれば、そういう顔をしているのだろう。トシにしてみればそんなつもりはなかったのだが、やはり他人から見ると違うのだろうか。
指摘された以上、白い影を見ながらぼうっとしているのもまずいと思い、一度店内を見渡す。よく分からない洋風の音楽が流れて、様々な人が、ファミレスに設置されているドリンクバーなどの方に歩いていく。
休日だからか、親子連れが多いようにも感じる。ファミレスに家族で行ったことなど、トシにはあまりなかった事だった。母が病弱だったせいか、そもそも外食することもあまりなかったのだ。
一人であった時に比べれば、遥かに外出する時が増えたと思う。友達が出来てからは、特にそうだ。その頃からよく駆け回っていたので、体力は無駄に付いた。
慶介が高校生であっても、肝試しや幽霊がいないという事をやたらと証明したがり、廃病院に忍び込んだ時には、見回りに来ていた警察官に見つかり逃げ惑った挙句、結局捕まってみっちりと説教されたものだ。
慶介に付き合うとろくな事に成らなかったが、それが楽しかったというのは、否定しようがないことでもある。何だかんだで、ああして馬鹿な事をしている時の自分は、面倒事から解放されているように錯覚したものだ。
実際は何一つとして解決されずにいて、帰った後の課題を思い出して、頭を抱えていた方がよほど多かったのだが、大抵は聡が手伝ってくれたおかげで何とか仕上げられた。
聡がいなかったらと思うとなかなかぞっとする。おそらく課題は終了せず、トシが叔父に見せる通知表は、叔父を怒らせるに至る成績だったに違いない。聡のおかげでトシの成績は下がる事はなかったのだから、それは感謝するべきだろう。
誘った慶介本人はというと、元々頭が良かったのかは知らないが、常に優れた成績ではあったので、問題などなかったのが妙に腹立たしいが、本人を見てるとそれも馬鹿馬鹿しくなってしまった。
今思い出してみると、慶介に関してだけいえば常に引っ張りまわされてばかりだった。しかもそれがろくなことだった試しがないのだと、トシの頭には不安しか浮かんでこない。
冷静に考えてみれば迷惑をかけるばかりの男であったようにも思えるのだが、不思議と憎めないのが慶介の魅力であるとも言えるだろう。傍から見れば振り回してばかりの面倒くさい男にしか思えないが、いざ付き合ってみると不思議と楽しい男ではあるのだ。
いわゆる『ダチ』として付き合ってみるまでは、自分も面倒な男だと思っていた。同じように、なんら接点のない多クラスの男子や女子は慶介を面倒な男と決めつけている。
慶介本人は面倒な男と思われるのを嫌っているように見えるが、普段の行動を見れば自業自得だろうとしか言えない。言ったところで、慶介は特に深く考えることもせず、たった一言だけ「そっか」で受け流すに違いないのだ。
慶介について考えを巡らせていると、チリリンッ、とファミレスのドアの開閉に合わせて鈴が鳴る。それと同時に聡が頬を緩めて、
「やっと来たか」
と声を漏らす。待ち人来たれり、といったところかと思いながら、トシも視線を入り口の方へと向ける。
男が三人、お客だと思って駆けつけたウェイトレスに、さきに友人が来ているので云々と事情を説明しているのが見えた。いずれも見知った顔であり――もちろん慶介も三人の中の一人だ―――どうやら、連絡を寄越した二人と同じように、土日に付き物の渋滞に巻き込まれでもしたのだろう。
さっさと連絡を寄越せばいいのにとは思ったが、バイクに乗っていた以上、言っても仕方がない事だろう。交通規則に関してはやたらと真面目に守るのが慶介だ。
もっとも、フルフェイスのヘルメットをつけたまま携帯で通話できることが物理的に可能なら、慶介だって携帯を使いながらあの排気量四百CCのバルカンとかいうバイクを運転しながら電話してくるだろうが。
「待たせたか」
慶介が、相変わらずの人懐っこい笑顔を浮かべながら最初に入ってきた。
「大分な」
聡が、冗談めかしてはいるが、半分本気の声で、慶介へと告げると、続いてやってきた巨漢――もちろん親友の一人なのだが――が、重そうな口を開く。
「すまねぇな、連絡はしたんだけど、ここまで遅くなるとは思わなかったんだわ」
「いや、二人は良いんだ」
「おいおい待ってくれよ! 俺もこんなに遅くなるとは思ってなかったんだよ。大悟と啓太もフォロー頼むよ」
「どうだかなぁ」
「僕としちゃ、慶介が遅れるのはいつもの事だけどなぁ」
招集をかけた本人である慶介が、苦笑いを浮かべた後、周りに頭を下げた。元々そんな責めるつもりもなく、トシは、いいよと声をかけて席に座るように促した。
後の二人も、席に座ってくる。これでようやく昔からの仲間が五人勢揃いしたことになる。久々に、こうして集まってみるとやはり、心にわくわくとしたものが蘇ってくる。
何時でもこの五人で馬鹿な事をやってきたのだから。
「まったくだな。こいつは何時も遅れる」
「相変わらず怖い声だよね、大悟は」
少しばかり不機嫌な声色で、遅れてきた三人組の内の巨漢――坂上大悟が呟いた。別に、本当に不機嫌でないことは、皆が理解している。大悟は、三白眼と、そのプロレスラーかと見紛う程の体格と目つきの悪さからかなり誤解されるタイプだった。
初めて会った時は、トシも少々びくびくしたものだが、話してみればなかなか良い奴――というよりは最早御人好しであると言っても過言ではない男だった。細かい所に目はつくし、服の汚れなどには気づいて叩いてくれる。一言でいえば、おかん、と言えばいいだろうか。
本人を前にして言うと、そんなことはない、と断固とした口調で言いはするが、本人も満更ではなく、保育士を目指している辺りまさにその通りであると言ってもいいだろう。
外見だけで人は決めつける事が出来ないと教えてくれた、トシにとっては一番最初の男ではあった。
そういう意味では、大悟の隣にいて、声に対して突っ込んだ佐々木啓太もそうだろう。啓太は、男性制服を着ていなければ、間違いなく女子と間違えていたであろう程に、その見た目は華奢である。
トシからしてみれば、初めて見た時は何故か『女装』をしていたのだから恐れ入る。どうしてそんな事をやり始めたのかは、未だに教えてもらっていない。
趣味か、また別の事情でもあったのか。何れにしろ、気になりはするのだが、簡単に聞いても良いものではない事は分かりきっている。
いくら親友だからといっても、聞きにくい話はあるものだ。
「お前は女みたいな声だなって言われるだろう」
「悪いかい? 僕は別に気にしてないし、それだけ可愛いって見られてるってことになるからいいかなぁって」
わざとらしく媚びた笑みを浮かべながら、啓太が軽口で返した。大悟は相変わらずむすっとした顔をしているが、別に不愉快になっているわけではないのは、長い付き合いで分かる。
トシからしてみれば、いつもと変わらないやり取りに過ぎないのだから、気にすることもない。慶介が相変わらずだなぁ、と愉快そうに笑っているのを眺めているだけだ。
聡がメニュー表を取り、ようやく昼飯を食おうという話になった。いい加減腹が空いていたのか、聡はメニュー評から素早く一品を決めた。トシ自身は待っていた割には、そこまで腹が空いているわけでもなかったが、さすがに聡を待たせるのは悪いという気持ちが強い。
適当にメニューから選び、料理を注文する。三人も思い思いに料理を頼み始めた。慶介に至っては、
「はぁー、やっと飯が食えるよ」
と言った具合に、自らが遅れてきたせいで、トシ達の食事が遅れたということをすっかり忘れているという感じだ。その様子に、皆それぞれ溜息をつく。
「……待たせて悪かったよ、だからそういうあからさまなのは止めてくれ。いくら俺でもダメージ喰らうって」
慶介が、さすがに読めたのか、もう一度頭を下げた。
それを見て、皆が一斉に笑い出す。慶介が、自分が一杯喰わされたことに気づいたのはすぐだった。
「で、特ダネっていうのは何なんだよ」
全員が頼んだ料理がテーブルに並べられ、ある程度食べ終わった所で、やっと聞ける余裕が出てきたのだろう。トシは、自らが頼んだハンバーグの最後の一切れをしっかりと口に運び、何度も咀嚼して飲み込んでから、聞いた。
聡も気になっている様子であった。何度も何度も慶介の方をちらちらと見ているが、何よりも聡は気になりだすと己の時々指を膝の上に載せて、指先で膝を叩くという癖がある。気になっている事をさっさと聞いてやらねば、落ち着いて話すことも出来ないだろう。
というよりも、ここに来た全員が気になっている事であり、早く聞きたいからこそ、切り出した。特ダネを手に入れてきて、話をするついでに皆で集まりたいと言い出したのは他ならぬ慶介である。
トシは、焦らされるのが苦手ではないが、聡はまったく初対面でも、今の様子を見れば間違いなく焦らされるのが苦手であるというのが良く分かるだろう。
啓太と大悟は、慶介のこの思わせぶりというか、白々しいまでに焦らす癖に完全に対応しきってしまっているようで、のんびりとした様子で慶介を見ている。
大悟に至っては、自分や、仲間が食べ終わった皿をまとめて片付けていて、店員が楽を出来るようにしていた。大悟の気配りできる面が露わになっているともいえるが、慶介の話に最初から期待していない様子がありありと出ている。
慶介はどうしているのかと言えば、本当に焦れているのは聡だけ。トシは、聡の代わりに仕方なく口を開き、啓太と大悟は元々関心が無い様子をありありと示していたのを見て、酷く落胆した様子で口を開いた。
「お前らさ、もうちょっとこう、何というかも、盛り上がってくれないわけ?」
失意を丸出しにして、詰まらないという表情を浮かべる慶介に、大悟が低い声で返答する
「慶介がさっさと話さないからだ。もう慶介が焦らすのに慣れてるんだから、今更俺達が気になります慶介さん、みたいな反応するわけ無いだろうに」
「そりゃあ分かってはいたけどよ。こうも退屈な反応されるとさぁ……」
「いいから話してくれ。内容はそれからだよ」
内容と聞いて、慶介の顔が綻んだ。トシ達を内容で納得させられる自信があるのだろうが、今まで何度も外れを引いてきたのだ。
大悟はまたか、という顔をし、啓太もそれに続く。聡だけが何か嫌そうな顔をしている。慶介は様々な表情を浮かべた仲間達を満足そうに一人一人確認しながら、言い放った。
「お前ら、重原トンネルって知ってるか?」
重原トンネルと聞いて、全員が顔を見合わせる。誰も聞いたことがない、という事だろうか。トシ自身も、そんなトンネルは聞いたことがなかった。
しかし、名前を聞いただけで、何故だか、ぞくりとした。背筋に巨大な百足が這いずりまわるような、嫌な感覚。この感覚を、トシは自らの体質が警告してくれる危険信号だと理解していた。
トシは、"体質"上、オカルト――厳密に言えばなんでもかんでもオカルトと捉えるのは良くない事だとある本だと知ったのだが――系の話を聞くことが多かった。
何時から身体が変化したのかは分からないが、ナニかがいるというのが、なんとなくだが捉える事が出来た。ナニかというのは、ナニかであるとか言えない。
人は幽霊と呼ぶかもしれないし、妖怪というかもしれないし、もしかしたら神様かもしれない。幼い頃のトシには、断言は出来なかったし、読んでいた本の中で、すごく悪そうな――まさに悪魔ではないかと疑う様なものが、善の神様であったのだから、決めつけられないという考えが出来たのかもしれない。
いずれにせよ、トシは"こちら側"に住むモノと"あちら側"に棲むモノとして判断してきた。
あちら側に棲むモノ達は、種類が様々だった。人の姿を取っている時もあれば、生首だけの状態のもの。猫に尻尾が二つ生えているもの、黒くてドロドロとしたヘドロのようなものまでいた。
様々なものが、トシの目に入ってきていたが、それらを誰かに言う事は無かった。見えたからといって、特別な能力に目覚めたわけではない。自分がスーパーマンになったという気分も、トシには無かった。
小説や漫画、アニメなどに出てくる主人公と自分は違う。うっかりそんなものが見えるなどと言っても証明する手段など無い。言ってしまって、何も起きなければ、トシは単なる法螺吹きと変わりがない事になってしまう。
ただ、そう思っていたのだが、トシの考えを変える事件が一つあったのだ。
今でも明瞭に思い出せる。学校が休みの昼過ぎ。いつものように昼食を取ろうと、友人達と外へ出た時だ。
横断歩道を目指しながら、いつも見慣れた町を歩いている時に、そいつはいた。傍目から見ても、奇妙であり、どこか嫌な感じがする黒い人型の影。
そいつが立っている横断歩道へと足を踏み出そうとした時だ。背中の内側を、百足やネズミが這いずりまわるような、思わず悲鳴を挙げたくなるような感覚が襲いかかった事。
耐えがたい嫌悪感と吐き気が自らの身体を蝕み、気が付けば思い切り叫んだ。
「進むな!」
その叫びに、友人たちが止まり、横断歩道を歩き始めた他の人々が、驚くのと同時だった。
加速してきたトラックが、人が通っているのにも関わらず、勢いよく突っ込む様子。
派手に吹き飛ばされていく人達の悲鳴と血肉が飛び散っていく中、黒い影が満足そうに、腹をよじって笑い上げるような動作をした後、地面へと消えていった事。
あの時と同じような、警告にも近い感覚が、再び起きた。身体が震える。聡が、トシの様子に目敏く気づいた。
軽く視線をこちらにやり、
「同じか?」
とだけ小さい声で確認を取る。当時、共にいたのは聡だけだった。
口には出せず、トシは小さくうなずき、意思を伝える。聡が考えるような表情を浮かべて、腕を組む。
慶介は、トシの様子には気づいてはいないようだった。気づいていたのなら、即座に反応を示していた事だろう。それ程、自分の身体は震えていた。
「これがマジらしくってさぁ、是非行って見たいと思ってるんだよね。目撃談も多いんだけど、誰も奥まで行ってないらしいんだ」
「誰も行ってない?」
「全員、入り口で止めちまうらしいんだ。これ以上行きたくないって考えちまうらしい」
慶介が自分が見つけたわけでも、行ってみたわけでもないのに誇らしげに言葉を続けるが、大悟が訝しそうにしつつ、口を挟んでくる。
「何だそれは。全員意気地がないか。それともチンピラの溜まり場にでもなってるのか」
「どっちなのかは分からないなぁ、まぁ、チンピラの溜まり場なら俺らの大悟になんとかしてもらうさ」
あっけらかんと大悟の喧嘩の強さ頼りという身もふたもない作戦をばらした慶介に、当の本人が嫌そうな顔をするが、大悟がここでハッキリと断らないのが彼のお人好しな所を表している。
嫌ならさっさと断れば良いのにとは思うのだが、結局トシたちが止めても慶介が行くのは間違いないから、見捨てられない。
面倒事が大好きな慶介を無視すれば、大悟の好きな穏やかな生活を達成できるのに、なんだかんだで慶介をしっかりと支えるその姿はまさに、おかんと言う所だろうか。
「慶介、俺は行かんぞ」
「大丈夫、大丈夫、絶対お前は俺と来てくれるって分かってんだからよぉ」
「……俺がついていくとしても、お前が心配じゃなくて、お前に付き合わされる奴が心配だからだ」
心底呆れ果てた口調で大悟が言う。話している間に、店員がやってきて、食べ終わった皿を持っていく。大悟が軽く頭を下げてから、言葉を続けた。
「だいたい慶介、お前本気で行こうと思ってるのか?」
「勿論」
慶介が自信満々に答える。チンピラの溜まり場だろうがなんだろうが、冒険心が刺激されると引っ込みがつかなくなるのは慶介らしい。
「止めておいた方がいいんじゃねぇか」
聡が切り出した。慶介が、珍しそうに聡をまじまじと見る。
「聡が言うか」
てっきり啓太辺りが言い出すと予想していたのか、予期せぬ人物からの忠告に慶介の目は丸くなる。
聡は頬を掻きながら、困った様子で、言葉を繋いでいく。
「そもそも全員奥まで行ってない、っつーことは入ってもいないっていう可能性があるだろ。入り口で止めたってのももう閉まってるから諦めたっていうのもあるかもしれねぇし。
チンピラの溜まり場ってのもあながち間違ってないかもしれない。人がいねぇって事はそれだけ自由に動きやすいだろうしな。何人溜まってるか分からねェけど、大悟だって限界はあるぜ」
最もな意見だった。いくら大悟がその体格に見合った強さ――実際チンピラが数人掛かりでも止められなかったのを見た事はあるのだが――を持っていても、あくまでもそれは数人相手だ。
十数人を相手にして大悟が勝てるはずもないし、トシ達もお世辞には強いとは言えない。一方的に喧嘩を吹っかけられることが多く、喧嘩慣れしている大悟に比べれば、自分達など頭数合わせにもならない。
慶介もそれは分かっているはずだろうという、聡の読みだった。指摘は的中したのか、慶介が黙りこむ。何らかの反論でも考えているのだろうが、聡の指摘は間違ってはいない。慶介からしてみたら痛い部分を突かれたに違いない。
確かに、勢い込んで行ってみて、閉まっていたらどうにもならないし、チンピラが溜まっている数にもよる。無駄足になる可能性とリスクを合わせて考えてみれば、行く気が失せるのも納得できるものだ。
トシではこれくらいの理屈も説明できなかっただろう。自分ではどうしても、理屈に則った発言が出来ない。感情が優先されてしまう。
損な性格をしていると聡からは苦笑いをされ、大悟からは嫌いじゃないと言われ、慶介には一本気馬鹿と言われて、啓太には呆れられた。
今も、自分が感じた悪寒を聡にに別の言葉でフォローしてもらったようなものだ。トシが持っている体質をはっきりと知っているのは聡だけだ。他の誰にも言ってはいない。
なんとなく、うっすらと感じる程度だとは、聡を除く慶介達には言ってはいるが、姿だけに留まらず声まで聞こえると言えば、面倒な事になると、理解していたからだ。
「あー、そりゃそうだけどよ……でもよ、行ってみたいとは思わねェか。何より誰も行っていないのなら、俺達が最初に奥まで行って誰もいないってことを証明したいじゃねぇか」
慶介が、諦めがつかない声で問いかける。余重原トンネルの話がかなりのネタだと信じているのか、今日の慶介は諦めが悪かった。
大概誰かに理を持って反論されれば、そうかぁ、の一言だけで諦めていたのだが、食い下がっていく。
「だからそれが危険な場所かもしれねぇだろ。今まで行った所は、行ったやつが何人かいたし、知り合いにもいたが、そこは"誰も行ってない"んだろ?幽霊なんかよりもよっぽど怖い人達に見つかったら、俺達だってどうしようもねぇ、そこら辺どうするんだよ」
「それは……」
「だったらこっちも武装すればいいんだよ」
そういって手を挙げたのは、啓太だった。何やら面白い案が浮かんだのか、にやにやとしている。
「全員で護身用のものを持っていこう。幸い、僕の家にはスタンガンとか一杯あるし」
「いや、なんであるんだよ……」
「あるもんはあるんだから」
大悟が明らかにおかしい啓太の理由に突っ込みをいれたが、啓太は笑ってそれを流した。啓太の家族は女性が多い。だからそういう護身用のものが多くても疑問は抱かないが、それだけで自分達の身が守れるか、と言えば微妙なところだろう。
何よりもトシは、絶対に行きたくなかった。あの悪寒がしたということは、また何らかの黒い影やそれに近いモノがいるに違いないという確信がある。
それを言ったとしても、慶介などは信じてくれるだろうが、あくまでも信じてくれるだけだろう。"信じる"だけでは駄目なのだ。逆に慶介が期待して行ってしまう可能性があり得る以上、自分も付いて行かなくてはならない。
別に、自分一人だけ行くのを断固として拒否すれば、慶介も諦めてくれるだろうが、何か彼らにあった時、後悔するのはトシ自身であると分かりきっている。
聡が、どうするのかという視線をこちらへと向けてきた。仕方なく、トシは軽く頷いて返す。
慶介が啓太に対して、親指を立てる。
「どうだ、これでもうオッケーだろ」
「……自衛できるかどうか分からんが、俺達が行かなかったらお前一人で行くつもりだろうしな」
大悟が完全に折れたのか、力なく頷いた後に、苦笑する。啓太と慶介は乗り気だ。
「……分かったよ、俺らも行く」
聡の言葉に、いくらかの緊張感を感じつつも、トシも頷いた。
トシ自身が感じている嫌なしこりのような感覚は、拭えてなどいなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。