第八話 エリクソンの困惑
エリクソンの困惑
「前世の知識、いや本当に怖がっているのは前世の知識や経験に自分が馴染んでしまうことが怖いのね」
私の態度に確信したのだろう。話すうちにだんだんと、彼女の言葉に力がこもってくる。自分の考えに自信が出てきた証拠だ。
「貴方たちに色々試させたとき、貴方の反応を見てたの。貴方の反応は実に普通だったわ。皆が嫌がる物は嫌がり、皆が受け入れるのもは受け入れる。前世が日本人なら1つくらい違う反応があってもよさそうなのに、すべて平均的な反応だった。だからゆさぶりをかけるためにわざと好き嫌いの分かれる物も出してみた」
なるほど。納豆などはそういうことか。思い返せば他にもそういうものはあった。
「どれも、ヨーロッパ風のこの国じゃ受け入れがたい物。でも、日本人なら好きである可能性があるもの。先日の鮨でようやく貴方は違う反応をした。食べたかったんでしょ? でもこの国の人間の反応としてはあそこで生魚に手を出すわけがない。だから私の意味深な視線をきっかけにして手をだしたのよね」
「貴方に聞いた昔の話でも、知識の確認はしてもそれの利用はしない。むしろ忌避してる。そして周囲に合わせようとする行動……」
そこから彼女が導き出した答えが、私が前世の知識に馴染むことを怖がっているというものだった。
正解だ。彼女の言葉はわずかな狂いもなく私の恐れを言い当てていた。
初めて彼女に出会ったとき心の片隅にあった引っかかりが今ようやく言葉になった。
それは、もし彼女に、同じ「記憶受容症」である彼女に出会わなければ意識せずにすんだかもそれない。だが、彼女に出会ったことで意識し、そして彼女が自らを転生者だと名乗ったとき、それは意識せぜるを得なくなった。
それは「恐怖」だった。あるいは「疑問」だった。つまりは「私は誰なのだ」という「問い」であった。
家庭教師がつき、次々と知らない記憶を知るようになった頃、私は思った。このまま知らないはずの記憶を知り続ける様になると、知らない経験を当たり前として受け入れる様になるといったいどうなってしまうのだ。どうかなってしまうのではないかと。
「【アイデンティティー】の確立の阻害ね」
その通りだ。私が私であるという当たり前の確信が揺らいでしまう。だから、私はこの問題に触れないように考えないようにしてきたのだ。
新たな知識や経験が現れると、それが何であるかを確認しそしてそのまま触れないようにする。詩を詠まなくなったのも、本当の理由はそれが当たり前にする自分になるのが嫌だったからだ。
そのままだったなら、私は適当に折り合いをつけ生きて行けただろう。しかし、アンジェリカに出会ってしまったことでそうはいかなくなった。
彼女と出会ったあの日からいつかこの問題と正面から向かい合うことになると、あの時の私は気づいていたのだ。
さて、事ここに至ってはもう避けることはできない。
はっきりさせよう。私は、「エリック・ピープス」なのか、それともアンジェリカのいう転生を体験した「誰か」なのか。
「エリック・ピープスでしょ。常識的に考えて」
あまりに軽い一言だった。
「え? 何? それって区別する必要あるの?」
今の私とこの知識や記憶の元となった者とは別人なのだ。別人であればそれを区別するのは当然ではないか。
最初から全ての記憶と知識があったというアンジェリカには、今私の感じている恐怖は分からないのだろう。何かに影響され自分が変わってしまうという恐怖は。
彼女の場合は、言ってしまえば最初からその前世の続きとして生きている様なものだ。彼女に「記憶受容症」が現れた年頃では確固たる自分というものはまだないのだから。私とは状況が違うのだ。
「それに関しては言いたいこともあるけど今は止めておくわ。それよりも、そこまで前世と自分を区別したがってるけど区別なんてどうやってするわけ?」
それは、私という者の中から「記憶受容症」によって得た知識や経験を取り除いたものが、つまり素のエリック・ピープスではないのか。
「だったら、私から得た知識に影響されるのは良いの? 経路は違うけれども、これもこの世界にはない「記憶受容症」による知識よ。貴方の言い分だと、これに影響されれば貴方は前世の私ってことになるけど、それこそナンセンスよね。そもそも気づいてないのかしら。私と会話しているだけで、そうとう影響は受けているはずよ。それに、入浴の習慣なんて前世知識そのままに影響されているじゃない」
今更ながら自分の言っていることと行動の矛盾に気づく。
そうだ、この知識を使わないようにしていたくせに実際には当たり前に使ってしまっているのだ。
怖い、これが怖い。こうやって影響され変化していくのが。
思わず青ざめる私を見て、彼女は1つ溜息をつく。
「じゃあ例えば、貴方がトム君の影響を受けて非常に明るくて活発的、人に好かれるけど恋愛には結びつかない性格になったとする。でもそれは、貴方がトム君になるわけじゃない。トム君の影響を受けたエリック・ピープスがそこに生まれるだけ。ヴァレンタイン君の影響で、理知的で面倒見の良い性格になったらそれはヴァレンタイン君の影響を受けた貴方の出来上がり。じゃあ、前世知識の影響を貴方が受けたとしても、それは前世の人物に貴方がなるんじゃない。前世の影響を受けたエリック・ピープスが出来るだけよ」
言わんとすることは理解できる。理屈で言えば確かにその通りだろう。
だがこの恐怖は理屈ではないのだ。
これ以上は話しても無駄だろう。
いくら言葉を重ねても、立ち位置が違う人間が言う以上届かないことはあるのだ。彼女では、私が納得できる言葉を届けることはできない。
「……エリック!」
少しの逡巡の後、彼女はその場を去ろうとする私を呼び止めると、
「私の前世は男よ!」
なんかとんでもない【爆弾】発言をかましてくれた。
振り返り彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。
この【カミングアウト】はそうとう恥ずかしかったのだろうか、いつになくかわいらしい仕草で恥じらい顔を赤くしている。
いつもはどちらかといえば勝気な性格なので、こういうのはなんというかくるものがある。【ギャップ萌え】というやつだろうか。
いや、しかし男というのは――いや、問題はないのか。
「あ~……さっきエリックは、私は前世の続きとして生きているって言ったけど違うのよね。私がこの記憶に目覚めたとき、私の記憶の性別と今の性別は違っていたの。TSってやつね」
言ってしまってもう開き直ったのか、あるいは混乱する私をみて落ち着いたのか、何時もの調子を取り戻したようだ。
「エリックは前世と今の区別がどうだとか、その影響がどうだとか悩んでるけど、私から見たら鼻で笑いそうなことよ。私は、明確に前世と今が違っていたんだから」
そうだろう。性別という絶対的な差がそこにはある。私のように悩むことなく、前世と彼女は別ものだといえる。
「だから、貴方の言う通りなら、アンジェリカ・エクルストンは影響を受けまくっている。それこそ碌に自分というものがない歳だったから前世がそのまま今の私といえるわ」
その通りだとするならば、彼女という存在その物が私の恐怖の実例そのままだという事になる。私という存在を前世とやらに影響されそれどころか塗りつぶされた存在。
「でもね。やっぱり私はアンジェリカ・エクルストンで前世の私じゃなかった。前世の私は根暗で【コミュ障】なテンプレ【オタク】野郎で、人付き合いはもちろん恋愛さえできなかった。家族に対しても内弁慶で高校からはまともな話もしてなかった。でも、今は違う。逆にどうやったらああなれるのか分からないわね。人と話すのになんで苦労がいるのか、家族に対してどうしてあんな態度を取れるのか」
しばし目をつぶる。何かを思い出すように。
だが何も出てこない。私のこの知識と経験の主はどういう人物だったのだろうか。
「自分がまだ出来ていない時期にここまで影響を受けてさえ、私はこうなった。結局、アンジェリカ・エクルストンと前世の人物は別人。いくら他人の記憶や知識や経験の影響を受けてもその人にはならない。貴方前に言ったわよね「私の人生は私のものだ」って。だから、最初に言った通り。貴方は「エリック・ピープスでしょ」」
そういって彼女は笑ってくれた。
立ち位置の違う人間の言葉は相手には届かないことがある。だが、少し立ち位置が変わるだけであっさり届くこともある。
彼女の言葉はストンと私の胸に落ちた。
そして気づいた。私が求めていたのは、私は誰なのかという問いへの答えでもなければ、私がなくなるという恐怖を取り除く術でもない。それらを理解してくれる、分かってくれる人だったのだ。
これは、両親でも友人でもダメだ。同じ「記憶受容症」である彼女でなければ理解できないことだった。
「どうやら納得してくれたみたいね」
私の様子をうかがっていたアンジェリカは満足そうにうなずく。
「私の最大の秘密を明かした甲斐があったってものね。この埋め合わせはいつかしてもらうから覚悟しておいてね」
ひどい話もあったものだ。そもそも、私のこの悩みを顕在化させたのは彼女である。しかも気になったからという理由で、他人の心を探るような趣味の悪い真似をやらかしてである。それで悩みを解決して埋め合わせを求めるなど、【マッチポンプ】ここに極まれりだ。
「えっと……ま、後輩の悩み解決は先輩として当然よね」
あはは、とカラ笑いしながら明後日の方を向いてごまかす。
しかし、後輩か。出来れば別の表現になってくれると嬉しいのだが。
実はもう1つ気づいたことがある。どうやら私は、彼女が好きらしい。いや、間違いなく好きになっている。
そもそも、彼女の趣味の悪い真似を受けたときにあまり嫌悪感を覚えなかったのも、相手が好きな人だったからだろう。他人に心内を探られるのは嫌だが、好きな相手ならばむしろ見せたいくらいだ。
それにこうしてなんども2人きりで会い、更には秘密まで共有しているとなれば好きにならない方がどうかしている。
もしかすると、あの月夜。彼女に出会ったときから私は彼女に惚れていたのかもしれない。
「それじゃ、エリック。悩みも無事解決したことだし、これからもよろしくね」
そういって手を差し出す。その手を握り返すとき、この異常に高鳴る鼓動がバレはしないかと焦ったがどうやら大丈夫だったらしい。
「じゃ、さっそく鮨のリベンジからね。今度は大丈夫だから!」
こんなことを言っている辺り、まったく気づいてないのは間違いないだろう。




