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第二話 幼少時代

「坊ちゃま。お尋ねの件についてご報告いたします」


 我が家の執事エドワードが私の部屋を訪れそう言った時、私は家庭教師から出されていた詩の課題に行き詰っていたところだった。




 5歳の時、私には家庭教師がつけられた。一般的に家庭教師がつくのは4~5歳なので順当な年頃といえる。

 当時の私は乳母の厳しいしつけの成果、5歳にしては明瞭な受け答えができ、それでいて年相応に活動的な子どもであった。また、同じ年頃の子どもより理解力が高かったと当時を知る者は言う。私自身は、自分のことであるがこういうものだと思っていたので気づかなかったのだが。


 息子の成長を目にして両親は、これらがすべてあの学者の言葉を裏付けているものだと受け取ったらしい。親の欲目だと思うのだが。

 こうなると、【這えば立て、立てば歩めの親心】というやつである。「この子にはぜひ優れた家庭教師を!」と、かなりの額を出して高名な教師を連れてきたのだ。

 今だからこそいえるが、これはそうとうなムダ金だったといえる。

 まあ我が国309の男爵家の中でも五指に入る富豪である父としては、大した出費ではないのだろうが。


 ともあれ、こうして決まった最初の家庭教師だったが、私の家庭教師に関する記憶はあまり思い出したくはない類の記憶に当たる。



「数学と科学ですか?」


 そう尋ね返した教師の表情は純粋に疑問の色が浮かんでいた。

 その時の私はまさかそう返されるとは思いもよらず、返答に詰まってしまった。


「数学でしたら、学校を卒業の後に大学まで進まねば学ぶのは難しいですな。科学ともなれば、錬金術師の領分ですので、やはり大学や―」


 何やら大層な話になっているが、そこまで高度な話ではないと慌てて【フォロー】した。この際、科学の話はともかくとして数学というのはいわゆる読み書き【ソロバン】といった程度の話で私は言ったのだ。それを教師に伝えたのだが、


「ソロバンとは一体何でしょうか?」


 さあ、何なのだろうか。

 私自身言っておきながら何のことだかさっぱりと分からず、首をかしげる教師を真似するように首をかしげてしまった。


 そもそも、なぜ私はこんなことを言い出したのだろうか。

 最初はこの教師の自己紹介を受け、今後彼から古典教養、歴史、詩、作法、音楽、舞踏などを学ぶといわれた時に何か違和感が起こったのだ。

 普通一人の家庭教師がこれらすべてを教えることはありませんと自信たっぷりに語る彼に、数学や科学はないのですかと尋ねたのが最初の問いである。

 なぜそんなことを言ったのかその時はさっぱり分からなかった。ただ、私はこれからこの教師の指導で勉強するのだなと考えたとき、ふっと違和感の正体に気づいたのだ。科目が足りないんじゃないのかと。

 おかしな話だ。貴族の子がどうしてそんなものを学ぶ必要があるのだろう。

 当然ながらこの家庭教師も同じ疑問を持ったが故の最初の言葉である。そこでどうすれば学べるかをすぐに教えてくれたあたり、この教師は真摯な人物だったといえる。当の私といえば、当たり前だと思ったことを疑問で返され、自分でも訳の分からないまま混乱し、挙句に出た言葉がソロバンであった。


 結局ソロバンが何なのか分からないまま、この話はなかったこととなり初日の授業は終了した。

 余談ではあるが、私がソロバンという物が何であるか、そしてこの時どういう意味合いで使ったのかを知るのは10年ほど後のことである。


 さて改めて言うまでもないかもしれないが、この私の妙な発言は、私が3歳の頃に発した言葉と同じ「記憶受容症」が原因である。


 ソロバンなる謎の「モノ」。

 勉強の科目には数学や科学があるという「常識」。

 フォローという聞いたことがない「単語」。

 這えば立て、などという我が国には存在しない「格言」。


 知らないはずのことがこうやって頭の中にいつの間にか存在する。いや、この感覚を正確に言うならば、何かのきっかけで不意に思い出すといった方がより近い。

 なるほど、確かに傍から見ればどこからか記憶や知識が入り込んだ様に見えるだろう。

 この日、初めて私は「記憶受容症」がどういう物かを認識した。

 ただ思い返してみれば、家臣の子ども等と遊んでいたときに誰も知らない遊びをいつの間にかやっていたということがあった。私が言い出した遊びであったか、もう確認は出来ないがその中には私が発案した遊びもあったのだろう。



 この時の私はこのことが問題になるとは考えていなかった。


 翌日から本格的に授業が始まると共にそれもまた始まった。

今までにない頻度で「記憶受容症」の症状――病気ではないのだが適切な言葉が思いつかないのでこう表現する――が現れだしたのだ。

 成長により思考力が育まれたせいか、あるいは教育という今までにない刺激を受けたせいか、次々と私も知らないはずの「言葉」や「モノ」などが脳裏に浮かんだり自然と口をついたりする様になった。


 浮かんでくるもの全てが理解不能だった訳ではなかった。それがどういうものであるかという認識とともに出てくるモノも多数あった。だが、やはり大半は理解不能なモノで、当然ながら私はそれを目の前にいる教師にぶつけることとなる。


 教師はやはり真摯な人物であった。私がぶつけるモノの中には、わずかばかりだが教師の既知のモノもありそれについては丁寧に教えてくれた。そうでないモノについても、私と共にそれが何であるかを考えてくれた。


 そこには何の問題もなかった。問題だったのは私の父であった。


 貴族は子育てを人に任せ自らは口出ししない。父も立派な貴族としてそれは弁えている。ただし、その子育てを任せた人物が不適格だと判断した場合の処分は別だ。

 父は彼が私の質問に答えることが出来ないことを知ると、私の家庭教師には相応しくないと判断しあっさり彼を解雇してしまったのだ。


 後は同じことの繰り返しである。

 新しい家庭教師が来ては私の質問に答えられず父に解雇されることの繰り返し。


 以前に父が母に対して、


「過去に例があるからと言って、あの子に過度な期待をかけては重荷になってしまう」


などと言っていたのを聞いたことがある。残念ながら行動に結びついていない。


 わずか1年で4人の家庭教師が解雇された時、私は父の私に対する期待の大きさと親バカさ加減をこれでもかと思い知らされた。結局5人目の家庭教師からは、私は妙な言葉を口走らず、また質問も慎重にその浮かんだ事柄が「記憶受容症」によるものかを吟味した上で行うようになっていった。


 ちなみに、短期間で次々と家庭教師を雇っては解雇する我が家の所業は関係者に知れ渡ってしまったらしく、一人で何でも教えるような万能家庭教師は4人で打ち止めとなり、5人目からはそれぞれと分野にそれぞれの家庭教師がつくという形式となった。

 結局こういう形に落ち着いたのだからこそ、最初に大金を積んだのは無駄だったと言えるのである。

 そういった親の親バカさ加減も、私自身の迂闊さも、併せてこの頃の記憶は思い出す度に苦さと誰にともない恥ずかしさが付いてくるため、私はなるべく思い出さないようにしているのだ。




 さて、家庭教師たちに代わって私が浮かんだ事柄をぶつけるようになったのが、我が家の執事エドワードである。

 この頃には、私の頭に浮かぶ事柄は勉強から派生するモノばかりでなく、生活の中の様々モノに関わることが多くなっていた。

 そうなると、それぞれの分野で詳しそうな者に尋ねるより家事の全てを統括しているエドワードに尋ねるのが一番合理的だったのだ。下手に身分の低い者においそれと話しかけられないという事情もある。


 この日エドワードが持ってきた報告もそういた一例である。


「お尋ねでした便の後の尻の洗浄に関してです。我が国では言うまでもありませんが、紙で拭きます。また周辺諸国も同じく紙。大昔には海綿や植物、紐、木の板などがあったようですが今日では使われておりません」


 なかなか興味深いが私の待っている報告はそれではない。私が焦れながら先を促すと、エドワードは軽く咳払いをし報告を続けた。


「坊ちゃまがお探しのモノは、大陸南方諸国にございました。あちらでは、『水で尻を洗浄する』という行為が一般的なようです」


 その報告に私の表情は明るく輝いた。それこそ待っていた報告だ。


「あちらの貴族や富裕層の家では、必ず通常の便座とは別に洗浄便座が用意してあり排便後はそちらで洗っているとのことでございました」


 この「記憶受容症」の問題として、先の記憶や知識の曖昧さあるいは不完全さというものがある。実は他にも問題があり、その1つが記憶や知識だけでなく「感覚」だけが出てくることがあるというものである。


 今回の件もそうだった。

 ある日、いつものように便を済ませ尻を拭こうとした時だ、突然何か別の方法で尻を綺麗にする「感覚」だけが浮かんだのだ。

 こうなるともうダメだ。いくら紙で尻を拭いても妙な違和感が残る。これではないという違和感が。これに付きまとわれると、私の集中力は著しく落ちてしまうことになる。家庭教師の授業中にも尻が気になりもぞもぞとしている内に、教師の鞭を食らってしまった。

 この時出てきたのは感覚だけであり、それにまつわる知識も記憶も出てこないものだから始末が悪い。同じようなことは何度もあったが、過去の「記憶受容症」の者もそうだったのだろうか。


 話を戻そう。私がこの感覚の正体に気づいたのは数日後だった。その日私は久々に風呂をすることにした。いつものように家の者が湯をかけてくれたその時、ついに私はあの感覚の正体に気づいた。

 水だ、水だったのだ。尻が紙で拭くものという常識の中で育った私にとって、気づきようのない出来事であった。しかし、考えてみればおかしな話ではない。汚れたものを水で洗うというのは、むしろ当たり前と言ってもいいのではないだろうか。

 入浴を切り上げた私はエドワードを呼び出しさっそくこの件を説明すると、どこかに尻を水で洗っている国や地方はないか調べように頼んだ。


 エドワードの主は父であり私には命令権など存在しない。しかし、彼は何時ものごとく鉄仮面でも付けたような表情を変えることなく私の依頼を引き受け、そして早くも2日後にはこうして報告に来てくれたのだった。



「それでどういたしましょうか? お望みでしたら、旦那様に申しあげ洗浄便座を取り付けることは可能かと思いますが」


 どうしたものだろうかと考える。実のところ、あの感覚の正体が分かった段階で違和感はもうなっていた。

 尻を拭くくらい紙でよい。わがままを通すほどのものではないだろう。


「畏まりました。それでは私はこれで」


 そう言ってエドワードは部屋を出ていった。


 これを最後に当分は頼みごとも出来ないというのに随分あっさりしたもんだと感じた。


 この時私は14歳。そう、いよいよ学都へと向かい学校へいく歳になったのだ。来週には出発。その準備も着々と進んでいる。

 学校へ入れば寄宿舎に入ることになる。そうなれば実家には簡単に帰ることはできなくなる。必然的にエドワード頼みごとをする機会など無くなってしまう。この数年間、散々に調べものをお願いしそれに対し出来る限り応じてくれていただけに、私には相応の感傷があったのだが彼の方はどうなのだろうか。父にはエドワードの感情が、あの鉄面皮の上からでも分かるようだが、私にはさっぱり分からない。

 少しでも寂しさを感じてくれるなら、なんというか嬉しいのだが。


 そう思って窓のガラス越しに庭を見る。秋が近づき夏を過ごした庭の花々も、その盛りをやや超えてしまっている。もっとも、その枯れる姿までは目にすることはないだろう。その頃には私はここにはいない。


 と、そこで悩んでいた詩の課題に糸口が見えた。


【美しい花も やがては枯れる 悩むうちに 私もまた枯れてしまう】


 この詩の出来が良いか悪いかは私には分からない。まあ思い浮かぶままに作るのが一番だと詩の教師も言っていたのだからその通りにしたのだ。年寄くさいが文句ないだろう。


 こうして、最後の家庭教師からの課題も終わった。

 生まれてからずっと過ごしたこの家とのしばしの別れは目前迫っていた。


次話は書きあがり次第投稿します。

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